2011年7月31日日曜日

  室戸の民話・伝説 第三話        室戸三美女の悲話

                  室戸三美女の悲話

      その一 お市《いち》
 三津坂・室戸坂、三津の人達が室戸へ行くのを室戸坂を越すと言い、室戸の人達が三津へ向かうのが三津坂を越すと言う。又の名をお市の坂とも言う。
蔵戸(室戸側)の方から登って行くと、峠近くの路傍に花や木の葉に埋もれた小さなお堂がある。祀られている石碑の正面にはお地蔵様を刻み、「花をり地蔵」と彫ってある。右側面には、「三月十八日」左側面には「三つ女中」の文字が見える。「花をり地蔵」の名に相応しく、この坂を行き来する人々は、このお堂前に指し掛かると美しい小枝を手折り供えて行く。遠足時の小学生達も疲れた足を休めて、祀ったものであった。
 むかし、三津に「お市」という美しい女がいた。お市はこの世の人とも思えぬほど美しかった。ある夜のこと、お市は唯一人で三津坂を超え室戸へ急いでいた。峠に指し掛かった時、一人の侍に出逢った。その侍はお市の人間とも思えぬ美しさを見て、一時ギョッとして立ち竦んでいたが、次の瞬間、行き過ぎようとするお市にやにわに躍りかかった。しかし、必死に抵抗するお市の力を押さえかねて、意のままにならぬ一時の憤りから遂にお市を斬り捨てた。
 自分の美しさがかえって禍となった、お市はその苦しさのさなか「美人は身の仇だ。これから後、この三津坂の東西一里四方には美しい女は生まれるな」と言い遺して死んだと言われている。美人薄命と言われるものの、まことに哀れな物語である。
 お市の墓に花を手向ければ、疲れた足が軽くなると言い伝えられ、今もなお、子供や大人諸々は、この坂の悲劇の主人公お市に花を供え敬っている。
                 
    その二 おさご女郎
 室戸岬の東に毘沙姑巖《びしゃごいわ》と言う、ひときわ高く聳える巌がある。その山辺には、若き日の空海が虚空蔵求聞持法《こくぞうぐもんじほう》を修められ、仏道に入られた大師修法の聖地・御蔵洞《みくらどう》がある。その近くに小さな茶屋があった。そこに「おさご」という、それはそれは美しい小町娘がいた。いつの間にかおさごの美しさは評判が評判を呼び、近隣の若者は勿論のこと、沖を行き交う船人さえおさごを一目見ようと浜辺に船を漕ぎ寄せた。
 最御崎寺《ほつみさきじ》の古参道(東登り口)の海辺には、グイメの木が群生し、秋ともなれば赤い実が熟し、まるで一面花のようだった。岩伝いの道を通る若者たちはグイメの実を口にほうばりながら、おさごの噂をした。だが若者が騒げば騒ぐほどに、おさごは自分の美しさを苦にしはじめた。
 いつしかおさごは顔も手も洗わず、髪も梳かさず汚れた着物を着たままに、茶屋の片付けや掃除もしなかった。誰が見て居ようとも鍋の中のものを手づかみで食ったりした。しかし、美しさを隠そうとする細々としたおさごの婀娜《あだ》姿は、一層若者たちの心を捉えて放さない。若者たちの間ではおさごをめぐって争いも起こる有り様であった。 ある月夜の晩、思い悩んだおさごは毘沙姑巖の巖の上に立っていた。「後々、室戸岬一里四方に美人は生まれるな」と祈願して、身投げしたと伝えられている。
 古老の話では、正月や酒宴の場で次の唄を唄ったという。
 津呂のエー 岬のアレバイセ、コレバイセ              (囃し言葉)
グイメの木をてぎ(糸を織る柄)にヨー
こさえてアレバイセ、コレバイセ
おさごの女郎に糸をヨーとらしてアレバイセ、コレバイセ
そのふりを見たい ショウガエー

 津呂のエー 岬のアレバイセ、コレバイセ
おさごの女郎は きりょう はヨー一番
あの手鍋じゃ二番
肌の汚れごきゃ たえやまぬ サンヨーと、哀感を込め唄っておさごを忍んだという。 

    その三 於宮《おみや》
 金剛頂寺《こんごうちょうじ》(土佐西寺)の脇寺に新村《しむら》不動堂がある。かつて、金剛頂寺が女人禁制だったころ、女人遍路はこの脇寺、不動堂にお札を納めたという。新村不動堂をお護りする地区には、前《さき》に記した二人の悲話と全く類似した物語がのこっている。
 この新村には、「於宮が渕」という小さな入江があった。波の侵食により今は無いが、この渕の近くの巖には朝顔に似た「白粉花《おしろいばな》」が咲き誇り、里の人々は於宮と呼ぶ美女の形見の花と言って愛でている。里の子供たちは、赤とんぼの飛び交う暖かい日差しの下で、海辺の貝の皿に「白粉花」を潰し、無邪気に「ままごと遊び」に興じる。
 いつのことか分からないが、この小さな新村の里に、漁村には稀な気立てのいたって優しい美しい娘が住んでいた。その名を於宮といった。村の若者たちは於宮に夢中で、於宮の動くところへは影の形に付き添うように付き慕ってさわいだ。西寺の若い学僧も又、その中の一人だった。彼は僧侶ということも、教義の不瞋恚《ふしんい》(自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)不邪淫《ふじゃいん》(よこしまで淫らなこと)の戒もうち忘れて、せっせと山道を下り於宮のもとに通ったが、於宮はどうしても彼の意にも随わなかった。
 於宮は自分のために多くの若者が悩み日々の仕事にも精を出さない姿を見て悲しんだ。あの若い僧さえ日々の業態をおろそかにして、瞋恚の焔を燃やす。前途のある若僧が十善戒(十種善行)を犯すのは、みな自分のためにおこる罪業であると考えた。捨身住生(生命を投げ出すこと)・・・、遂に生真面目な於宮は自分を殺して若者たちを煩悩の苦から救おうと決心した。
 いつの日か、於宮は不動堂の巖頭に立ち、「美人こそ不仕合せ、ここ一里四方に私のような者が生まれないように」と、言って渕に身を投じたという。
 その後「於宮の渕」の巖の上に、一本の可愛らしく美しい紅の花が咲いた。この花は白粉や紅筆の化粧道具になったという。
 
 この三人三様の願いに添えば、室戸には美人が生まれないはずであるが、三人が命を懸けた願いも空しく、その後の室戸には沢山の美人が生まれ続けている。
 この話は室戸の美しい娘子を他所に連れ出されないように防ごうとする、翁媼《おきなおうな》のはかりごとであろう、とか。           
                              文 津 室   儿
                              絵 山 本  清衣
                 無断転載禁止
 

 













2011年7月29日金曜日

  寛永の室津古港 1624〜1643

         

室 津 古 港 略 記


                              
                      
                      室戸市教育委員会 調査
                                 植 松 棟 造                                  久保田   博
         

                     

                                    

                                            平成22年(2010)晩夏
                                                  写  多 田  運








        表示の通り、室津古港前、元和時代(1615)以前の室津河口地形想像図




            上記二枚の室津古港図は、旧港番(港奉行)久保野家蔵

 
 扨、当「寛永の室津古港」植松棟造・久保田博両氏の調査が、いつ行われたのか調査日の記載がなく不明である。しかし、小冊子であるが素晴らしい調査書を遺されていた事に敬意を表したい。この調査書にも記述されているように、野中兼山・一木権兵衛両先人の前に、「最蔵坊こと小笠原一學」が、室津港の基礎的工事をすべて完成していたことに驚きを隠せない。最蔵坊が津呂・室津港の開鑿に当った元和元年より、約四百年に亘る恩恵に浴した室戸市民は、今一度最蔵坊・小笠原一學を顕彰する事が大切であると信じてやまない。
 なお、調査書を写に当って、読み下しは行わず原本に忠実に一つ一つの字句を丹念に拾い上げた、が誤字脱字が多々有ろうこと、平にご容赦ください。


     一、 寛永の古港の図について
 
 かつて室津港の港番であった久保野家(旧姓・久保)に伝わる多くの記録を調べていると、古い室津港の図面が五部出てきた。その中の一部が一木権兵衛が延宝七年(1679)に港を完成した以前の古港の図である。それが意外に大きなものであるので、先ず驚かされた。私どもわここに改めて、これまで調べて来たものを考え直して見たくなった。

     二、 延宝の新港以前の港番について
  
 久保野家に伝わる港番の記録によると、「承應《じょうおう》二年(1653~延宝七年より26年前)祖父茂兵衛湊《みなと》奉行被仰付御書付写左之通」と前書きして急度《さと》申遺候、室戸湊口船之出入掃除等改之儀、室戸村九右衛門半介加《が》右衛門に申付候得共、九右衛門は湊口より程遠罷居候故、其方ニ半介加湊奉行ニ申付候為御給《たまえ》湊口ニ在之最蔵坊(小笠原一學)屋敷三十代其方ニ遣候。
向後半介同前ニ湊口船之出入、米之改、湊之石垣くづれ申立、船之出入ニ構石掛船之者ニ申付とらせ可申候。崩れ石垣も水主之手ニ相候所は繕わせ可申候。其方諸法度等之儀、半介方ニ書付可在之候間、其分可相心得者也。
                            小倉弥右衛門・事判
 承應二年(1653)八月二日
                            岡村  平次・事判

     室戸茂兵との(殿)                          と述べられている。これによって当時の港は既に港番(湊奉行)を置いて諸事務を執らなくてはならぬ程、港も大きく、船の出入りも相当あったものと頷かざるを得ない。と同時に当時は室戸湊と呼んでいた事も明らかである。

     三、 津呂湊・室津湊のサラヱ(浚《さら》え)普請並に室津湊の堀次請願について
 
 土佐藩主豊昌《とよまさ》(第四代藩主)は寛文十三年(1673ーこの年9月21日延宝と改元)四月八日付けを以て前二つの要件をひっさげて、幕府へ港普請の請願をしている。これは直ちに許可されたが、その請願書には次のように記載されている。
 一、土佐国、安喜郡室戸崎ト申ス所ニ、津呂・室津ト申ス二ヶ所ニ湊御座候。此ノ間二十六町御座候。右両湊ハ前々ノ深サ干潮ニ七・八尺御座候。然ルニ、近年埋リ只今ハ干潮四・五尺。或ハ二・三尺ニ罷成候故、船ノ出入リ難シク成候間・埋リ申分浚ヱ普請仕《つかまつ》リ度奉存候。則チ絵図、別紙ニ差上申候。右両所ノ港浚ヱ、普請仕候テモ、近辺ニ湊無御座ニ付、彼ノ両湊ヘ乗リ掛ケ申ス国中ノ船数多ツトヒ候節ハ、右両湊ニ納リ申サズ、難風ニモ沖合ニ船掛リシ或ハ、風ニ任セテ走リ、度々破損仕ルテイニ御座候間、室津ノ湊浚ヱ、普請ノ序デニ、右ノ絵図ニ記シ候通リ、横三十四間、奥エ五十間堀次、此ノ分並ニ石垣ヲ築キ申度《たく》、存ジ奉候。  以上
  寛文十三年四月八日                松平土佐守(豊昌)

 この寛文十三年は、実際に一木権兵衛が藩命室津港の開鑿《かいさく》を始めた延宝五年三月より、先立つ事四年前の事である。室津港は寛永七年(1630)七月藩命を受けて最蔵坊によって開鑿に着手され、翌八年六月に一応完成したが、その後数回普請も加えられている。津呂港は同じ最蔵坊によって元和四年(1618)試掘せられたとも伝えられるが、野中兼山の決意の下に開鑿に着工したのは寛文元年(1661)であり、その完成は同年三月二十八日であった。
 ここに室津港の堀次を付加工事としているものの、津呂・室津両港の浚え普請をまとめて申請している事から考えると、室津の港(旧港)も相当な規模を持っていたものと、想像されるのである。なお、幕府の許可は得たものの、天変地変のためその着工は、延宝五年(1677)三月迄延期されている。

     四、室戸崎付近に良港の必要性

 山内一豊の新封土佐国への入国は慶長六年(1601)正月二日であったが、彼は難波から舟を連ねて来たにもかかわらず、室戸崎の波濤を避けて、甲浦で上陸、かの野根山十里の難路をえらんでいる。
 一豊以来、歴代の藩主が参勤交代のため江戸出府の途中、浦戸を出て土佐の海を渡航せられる折りは、東寺・津寺・西寺の三山は、何れも藩主の為に海上の安全を祈祷し、寺舟を仕立てて、沖に漕ぎ出し御座船を迎えた。その節、三山の院主や住職は御座船に召され、海上の安穏の御守札を差上げるのが習わしとさえなっていた。
慶長・元和・寛永の頃、一豊・忠義が室戸崎を通過の際、その座船を室津ミナトへ船繋りした事も、記録に示される所である。
 元和元年(1615)大阪夏の陣の時、忠義は徳川家康のため忠勤を盡そうとして出陣する事に意を決したが、室戸岬迂回が困難なのを察し、野根山越えに駒を進め、甲浦にその軍兵を結果して、この港から出帆しようとしたが、折悪しく五月五日から十一日まで風浪のため、出船をさえぎられ、切歯扼腕《せっしやくわん》(感情を抑えきれずに甚だしく憤り残念がること。)あたら海上を見つめるのみであった。かくして可惜《あたら》(惜しむ)五月七日の大阪落城にその勇姿を遂に見せる事が出来なかった。
 その後参勤交代のため、藩主の出府・下向が頻繁に行われ、更に平和産業が発達するにつれて、船舶を甲浦から難波に廻送するについて、途中室戸崎付近に避難港を設ける必要を痛感せざるを得なくなった。
 元和偃武《げんなえんぶ》(元和の戦争がおさまる事)の後、早くも東寺の住職最蔵坊によって実現を見、室津港の修築が目論まれた事が、こうした時代の必然的な要求であった。

    

    五、室戸古港以前の土地の姿について

 室津港のある現位置は昔は池であった。その口の一部が海に続き、それが室津の古い舟掛かり場の姿であったと考えられる。天正の地検帳(室戸の地検は恐らく天正十五年「1587」と考えられる)を見ると、次の記録が先ず目にうつる。
  同じ(八王子前の事)池ノマワリ         同村(室津村の事)
 一ゝ(所の事)壱反二十代《だい》 サンハク久アレ     同じ(室津分の事)
  同じ 池ノフチ                 同村 三郎二郎 扣《ひかえ》
 一ゝ 十代下                   同じ
  同じノ東                    同村 藤二郎  扣
 一ゝ 十五代下                  同じ
  同じノ東                    同村 右京   扣
 一ゝ 十代  出・中 六代             同じ
  同じノ南                    同村 源三郎  扣
 一ゝ 十五代 出・下 三代             同じ
  同じノ東                    同村 三郎左衛門扣
 一ゝ十代   出・下 二代             同じ
  同じノ東                    同村 源三郎  扣
 一ゝ十五代  出・下 五代四分            同じ
   同じノ東                      同村 兵部進  扣
 一ゝ五代   出・下 二代             同じ
  同じノ東                            同村 神五郎  扣                          
 一ゝ五代   出・下 五代             同じ
  同じノ南                     同村  藤二郎   扣
   一ゝ十五代   出・下 四代              同じ
  同じノ東                     同村 市衛門    扣 
 一ゝ十五代   出・下 三代              同じ
 この記載によると、これらに囲まれた池は相当広い面積を持ち、随分古い時代から船掛かりであり、港の開鑿には有利な地形であった様である。

     六、室津古港の普請遂に実現

 津呂の古い港が室戸崎付近において難破する人々を救済しようとする最蔵坊の悲願によって、その浄財をもって造られていたものが、一応その形態を整えたのは元和四年(1618)の事である。藩主忠義から最蔵坊宛に送られてきた書簡には次の通り述べられている。
   さと(急度)申遣候
 一、 津呂湊堀被申候事、船より小宛勧進を可被仕候事
 一、 津呂権現之宮并居屋敷共其の方へ申附け候間、上下之船祈念可被仕候事
 一、 足摺之堂建立、思々ニ勧進可被候事
 一、 其方、足摺通いの時、伝馬一疋・人足弐人宿送之儀申附候、船にて被參候共、右同     前たるべく候事
     何も右之通申附候間可有其心得候者也

  元和四年十一月二十二日                      忠義 (華押)

   最蔵坊 

                                 〔山内家文書〕
 「上下之船祈祷」すべきときは、単に藩公の船にとどまらず、ここを通過する一般の船の安穏を祈るようとの意向であると思われる。津呂の港と並んで室津の港を修築する事も、早くより国政にたずさわる人々は考慮されていた事であった。
忠義の在任中(52年間)、室津の港は前後四回に亘って開鑿が行われている様である。寛永七・八年の普請・寛永十七年の普請・寛永十九年・二十年頃の普請・承應元年の普請等がそれである。

     (イ) 寛永七・八年の普請
 最初の室津港の普請は寛永七年(1630)七月に着手し、翌八年六月に至って一応その工事を終え、大要一ヶ年の日月を要している。そして、その主宰は最蔵坊であった。彼は東寺の建立を成就した後、麓の津呂に下って、此処で津呂の港を仕上げたのは前述の元和四年十一月であった。
 忠義はその功績を見るや、次いで室津港の「港掘」を考慮し、彼を招いて室津港に関する子細を聞き、室津に居住を与えて、専心この仕事に当らしめた。この事を久保野家の港番の記録には所右衛門・覚えとして、
 扨《さて》東寺成就、其後津呂へ參、権現之西地三反三拾代被下居住仕申の処、室津港口・算用ば へ・之儀御尋被為成度と御意由にて、御城椿へ被為召寄、委細御尋に相成、即銀子弐枚拝 領仕、其上向後何方へ用事に付參共、伝馬壱疋人足弐人之御珠印被為仰付候。それより室 津に罷り越し、又室津にて居鋪(屋敷)三拾代御拝領仕申候。扨算用ばへ上なみを割、内 堀を堀申し、其後室津御蔵にて米納升三斗入り、弐拾五俵被為仰付候御事。
室津港の築港事業中、最も力の注がれたのは「算用ばへ」の除去であった。
 寛永八年の夏、工事は一応竣工したが、その時、吉日を卜《うらない》して、 忠義を迎えて「御舟
入りの儀」を執り行っている。六月十一日付、忠義から小倉少助に送った消息文によると、
 室津船入之儀見及び候て、最蔵坊と令相談候処、湊口之立石手伝い五・六人相渡し置候  者、割り候て見度候由、最蔵坊被申候に付、其通にいたし候へば、右之大石三分の一取退 け、残所は八つに割り砕き被申候由、奇特成事共に候。弥《いや》、不残可令首尾と致満足候。
これらによって考えて見ても可成り大きな港であった事が、想像されるわけである。
 ここに私共の注意を喚起する事は、 当時の工事中に使用した礎石の発見ある。昭和七年(1932)七月三十一日の土陽新聞(高知新聞の前身)は、次の事を報じている。
  昭和七年七月三十日、室津港の改築工事中、旧築堤の巨石を取除いている作業の最中、 偶然発見された自然石は、二尺七寸角、厚さ五寸の大きさの物で、表面に刻んだ文字は  「寛永七年七月吉日」と判読されたが、これは正しく最蔵坊が室津港を始めた時の礎石で あると、推定されるものである。
この「寛永七年七月吉日」と刻まれた文字と、その発見された昭和七年七月三十日、これは洵《まこと》に奇しき因縁である。只今、願船寺の境内に上人の墓石と並べて立っているのも、なつかしい。

     (ロ) 寛永十七年(1640)の普請
 港番の記録(前述)によると、「右の立石書付の写、祖父所右衛門自筆に事記《じき》(事件を中心にして書いたもの)有之、故写置者也」と後書きをして
   寛永十七年庚辰年           国之奉行   野 中  主 計(兼山)
                             安田 四郎左衛門
   奉掘営御湊成就所                  片岡 加衛門
           国守源朝臣松平土佐守侍従   忠義
                  奉行      祖父江 久右衛門
と記録されている。そして昭和五年に右を記録した碑が、一木神社の下の境内に建てられている。これによって見ると、この年にも普請が行われたものと推定される。右の所右衛門は大体一木権兵衛時代の港番である。

     (ハ)寛永二十年(1643)の港普請
 寛永二十年四月、藩主忠義は江戸へ参勤交代のため、高知を出発し、土佐の海を渡っていたが、十一日の夜中、室津沖にさしかかって天候が急変し、辛うじて室津の港に船を入れてと云う事件が勃発した。その時忠義は筆をとって、野中兼山・小倉少助等に宛てて、次のような親書をとばしている。
 態次・飛脚を以て申し遣わし候。依我我事、是夜玄ノ刻、室津至湊口令着船候。供船共は、悉疾不残相着湊へ入候ぎ。乗船は沖にふりかかり有之候へ共、天気悪候に付、丑に湊入、引入させ候。もはや、天気能成候間、今夜中に可令出船條、二三日中に大阪へ可令上着間、大慶此事に候。特又、當湊初に見候而潰謄候。当津に湊無之候てば、不自由所に存候に一段之湊と令存候。当津普請可申付と存候。関太夫(樋口)指下候砌、委々可申遺候。取急
早々申遣候。謹言
  卯月十二日(寛永二十年)
                                   忠義(華押)
    野 中  主 計  殿
    安田 四郎左衛門  殿
    片岡 加左衛門   殿
    小 倉  少 助  殿                  〔郡方月目録三〕
 この後、果たして工事が起こされたかどうかは、文書に徽《しる》すべきものがない。併せしながら、津呂室津の両港に修築が少しずつ継けられたと云う事は、文書にも示されている。
 然らば先年室津湊堀申候時も、御公儀へ得御意申事も無之、其後御国廻之御上使覧被成候 得共、一段之儀と被仰成事も無之候。云々
これは慶安三年(1650)十一月二十八日附、野中兼山より、高島孫右衛門へ出した書状に見えるものである。

     (ニ) 承應元年(1652)の港普請
 承應元年三月から始まった様だが、いつ終ったか明らかでないが、あまり大規模な工事ではない様である。忠義は参勤交代のため江戸へ上府、この年七月帰国し、九日に甲浦に着船したが、その帰国の前、三月末に江戸から土佐へ送った親書の中に、次のように見えている。猶以《なおもって》津呂・室津普請被申付候よし承候。彌不令油断様可被申付候。右之あかりに手結湊も被申付候よし尤に候。是は少々之事之よし申候間、手間入申ましきと存候。
  三月二十七日(承應元年のこと)                  忠義 (華押)
    野 中  主 計  殿 (以下四名連名)            〔山内家文書〕

     七、 以上のむすび

 右のように記述してくると、右の港普請の中では最蔵坊の主宰した、寛永七・八年の開鑿が一番大きな工事であり、その工事で古港は一応出来上がっているものと見てよい。この寛永の古港の図には、いつ描かれたとの記入がない。併しながら承應二年の室津古港の時代から、相伝えて来た由緒深い港番(港奉行)の家の書類の中から出て来た事に、事実として信ずべきものがあると思う。
 なお、古港と名付けられている所から考えて、或いは一木権兵衛が普請して今猶《こんゆう》その面影を存している。新港の完成して後のものではないかと一応考えられるが、その文字の墨色も他の部分より薄く、筆跡も亦異なっているので、後からの記入と思われる。更に前述したような記録も裏付けられている事などから、綜合して考えると、洵にその意義も深い次第である。私どもはこの図に接して、その規模の大きいのに先ず一驚する。室戸の港は当初、最蔵坊がつくったと聞き伝えて居りながら、その史実や、その規模等が不明瞭であった為の、とかくその偉業は忘れがちであった。ここにこの寛永の古港の図を充分に玩味《がんみ》し、その史実を深く考え、改めて最蔵坊(最勝上人・俗名小笠原一學)を考え直さなくてはならない。幸いに上人の御霊は、港の上、願船寺に安んじられている。

     八、 最蔵坊について

 最蔵坊の事は、世間に色々と語り継がれているが、その根拠となるものは前述の港番の記録(表紙が破損して、この書名がわからないから、私はこう呼ぶ事にしている)である。私は直接その記録の中の「所右衛門・覚」を書き出して見る事とする。
 一 最蔵坊・本国石州之住人、小笠原庄(之!)三郎一家、小笠原一學と申、知行三千石   拝領仕居申由、然所(念書か)に、主人安芸の森殿(安芸ー毛利秀元)・治部少輔    (石田三成)陣より以来(慶長五年九月十五日の関ヶ原の合戦)・御地行被召上候故、   廻国に成、六十六部(六十六部は六分と云われ、六十六部廻国聖のことを指す。これ   は、日本全国六十六カ国を巡礼し、一国一カ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教   者)之法華経を納廻り申、折節東寺岩屋に居留り、東寺建立仕申候。其節忠義公様御
   参詣被為遊、上人之御小袖一重、銀の御煙管《きせる》二本被為遣候。・・・・・・
更に「同・覚」には最勝上人の示寂の前後の事を、次のような手紙文で述べている。
 一 慶安元年(1648)九月十二日、東寺塔堂入仏に付、小倉庄助御越に成候所、殿様より銀弐枚上人へ被為下、拘又最蔵坊東寺へ參、山ノ口を明《あけ》け、女を入申様こと御意被為成之趣、庄助より被仰渡候。然共、上人は同年九月五日に病死仕候故、銀子戻り申候。其後又殿様御意には、一度上人へ遣し申銀子、上人石塔を仕遣候様にと少助殿へ御意被為成候旨、於御前来正長善慥に承由にて候得共、其御何之御沙汰も無御座候。以上
                               所  右 衛 門
   延宝六年(1678)午四月 日
    葛目 与次右衛門  殿

 右の書簡の中に、最初小倉庄助とあり、中頃にも庄助、終りの方に少助殿と出ているが、これは共に小倉少助同一人の事である。

                                                 以上で終り。
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2011年7月20日水曜日

 香芸紀行「室戸関係分」植木枝盛著

     

     植木枝盛 著
  
  「香芸紀行」(室戸関係分)

 土陽新聞連載(明治二十二「1890」年)









平成十九2007年十月五日
 島村泰吉先生 香芸紀行コピーを頂く
  平成二十三2011年 初夏 書起す 

明治二十二年四月七日~四月三十日 遊説
     香芸紀行
四月十四日、晴 午前十時
 奈半利有志者数名及び吉良川より案内の為め来り居られたる両三名の士と馬を以って発す。村外れの某漁村少しく以前に火災に罹《かか》り数十戸挙《こぞ》って灰燼《かいじん》と為《な》り、此の頃に至り、わずかに仮小舎《かりごや》を構える者もあれど、其の総体には只々、茫々として焼け、瓦焼け土の存するを見るのみ。惨憺《さんたん》たる景状深く睇視《ていし》するに忍びず、やや行く路、甚《はなは》だ陋悪《ろうあく》、幾《ほと》んど人道に非《あら》ざる也。而《しか》して右傍海際《うぼうかいさい》大石𩜙《おお》し、石工来り、其の材を仕成《しな》す者少なからず。彼の大島岬なる海南義烈碑《かいなんぎれつひ》の如きも此處《ここ》より、其の石を運び行たるものなりと云う。加領郷を経、中山を踰《こ》ゆ碕嶇《きく》言うべからず。
  峰上《ほうじょう》、一茶店に小休し、蕎麦《そば》の粉の饅頭と甘蔗《いも》の粉の餅子《もち》とを茹《くら》う。粗なりと雖《いえど》も、意外に美味を覚ふ。身を労したゐが故なるべし。先哲《せんてつ》某の言葉に、「美《よ》からざる食物も身を働かす者の口に入るときは変じて美味と為る。美き食物と雖《いえど》も、怠惰に日を送る人の舌に至ときは乍《たちま》ちにして其の味を喪《うしな》ふ」とあり。
貧なりと雖《いえども》も働く者は常に美《よ》きものを食うべし。富《と》めりと雖《いえども》も懶《ものう》き徒は生涯美《よ》きものを食わざるべし。いづれが幸《さいわ》いなるか孰《いずれ》が不幸なるぞ、上より下へ之《こ》の字を幾個も累書《るいしょ》したる如《ごと》き坂路を下り纔《わず》かに坦途《たんと》に就《つく》く。之を聞く羽根村の民衆斯《こ》の道を山下《さんか》、海岸に付け換《か》えんものと擬意《ぎい》し、已《すでに》に地方税の補助を仰ぐこととなりて、手始めを致し居れりと左《さ》もありぬべし。路傍松樹《ろぼうしょうじゅ》へ縄を綯《な》い、草鞋《わらじ》を釣るし、付木《つけぎ》へ●●●●黒丸四個を書きて、之を其の傍に挿《はさ》み、又、其の傍へ一個の竹の筒を搖《ぶら》ら下げあるを見る。此の如きもの比々として甚だ多し。黒丸四個は此の草鞋《わらじ》一足代四厘と云うの印しにて、傍らの竹筒は即ち、其の代金を入れ置く為のものなりとぞ。之を無言の売買と称すべし。黙々《もくもく》の取引と称すべし。人若《も》し其の竹の筒を傾けて、中なる銭を掠《かす》めんとすれば、甚だ容易に之を為すことを得《う》べきなれども、其れは又、此の如きことを為す者なしと云う。
 羽根を過ぎ、鑑雄神社《かがみおじんじゃ》に謁《えつ》す。義士、岡村十兵衛を祀《まつ》る所なり。十兵衛姓は岡村。天和《てんな》年間、同處《どうしょ》にて分一役《ぶんいちやく》を勤む。    
 孔子所謂殺身成仁《こうしいわゆるさっしんせいじん》の人なり。祠側《しそく》に自然石の一碑を建つ面《おもて》に刻するに、曾《かつ》て、藩主山内豊照《とよてる》公の御作《ぎょさく》せられたる詩一首を以てす。
曰《いは》く。
人間無他義兼仁。 有司勲鑑任此人
旅客更慕報国志義名長存子孫身。
土民仰望神奴在。 路畔古墳拂無塵不命勝於受命。 忠魂赫々彬々。
蓋《けだ》し公、弘化年間、東部を巡閲《じゅんえつ》せられ、此地に至られし時、右、十兵衛の墓を視て、愕然《がくぜん》として作られたるものなりとぞ。
而《しこ》して碑背又刻《ひはいまたこく》するに左の文を以てす。
 碑面係故国守山内養徳公東巡所一レ題、
 按岡村十兵衛、故羽根浦吏也。貞享元年饑、 為請守廩浦距本府往復数日程、 日俟命下豈忍視殍亡乎、罪吾 當之、乃壇発以救、竟自刃血死、實 七月十九日夜也、土人號哭相率執紼者数 百人、歳時祀尊不襄、明治五年建祠千 墓側鑑雄神社客歳六月権令按東 部、過其祠焉、為之滄然追回養
 徳公当時事、以謂此詩公褒崇之典、宣
 表諸石以慰神於地下也、土之土民 聞之欣然相與獻力拮据賛其成者十 一名、嘱正路其事以書之碑裏 、於之乎令公為世道之擧與土人 懐徳之志亦以不朽云
維時明治八年十一月 奥宮正路撰文並書
祠《ほこら》は路傍の平地に至り、話を聞く初時には只々《ただただ》
         俗名 岡村十兵衛
  林月宋祝信士  藤原
    貞享元年七月十九日卒
           行年五十一歳
と刻する一つの墓あり、而《しこ》して春夏秋冬何時《いつ》と云うこともなく、誰よりとも知れず香花を備えありて掃除も行届いた其の墓の上には、一小《いっしょ》沙塵《しゃじん》も止まらず。いかにも其の土《と》の人、徳を懐《した》ふの厚きを察するに足りし趣《おもむき》なるが、明治四年未《ひつじ》三月有志者より上請《じょうせい》する所ありて、神號《しんごう》を付することを許され翌五年祠を建て鑑雄神社を號することになり、更に又、上文記する如きの石碑を其の側《かたわら》に建樹したりとぞ。
 午后二時 吉良川に抵《いた》る。同地諸氏の為めに導かれ某羈館《きかん》に投ず。良《やや》ありて、本日開く所の演説会に臨む。余二時間半ばかりを以て
二題を演説す。屋狭くして聴衆を容るゝこと四百より多き能《あた》わず。因《よ》って場外に溢るゝ者も多くありたり。夜懇親《こんしん》会を開く。列席する者、七十五名、スピーチの取《とり》為替《かわせ》あり。

四月十五日 風雨倶《とも》に猛
 余猶《よな》月発程《はってい》せんとす。諸士曰《いわ》く、今日の如き天気にては此の邊《へん》、海濱の路復《ま》た歩《ほ》すべからず。雨、上より降るのみならば可《か》なれども、雨、下より突くが故に縱《たと》い、簔笠《みのがさ》を着けるも行き難《がた》しと竟《つい》に逗住《とうじゅう》することになしぬ。此の日、岡氏に請い、岡村十兵衛の事歴を記する書類を借覧す。十兵衛の人となり轉《うた》た感心すべし。仍《よっ》て余亦《よまた》十兵衛の伝を作る。今、之を左に掲《かか》ぐべし。
○岡村十兵衛は天和貞享の頃、土佐国安芸郡羽根浦にて分一役を勤めたる者なり。初め延宝八年より度々洪水あり。諸仕成《しょしなし》。材木保佐《ぼさ》木等流失するもの測《はか》られず。民衆困弊《こんぺい》一方ならず。当時御蔵米と称する物、七百四十余石儲《たくわえ》えあれども、左りとて、代銀立用《だいぎんりつよう》の仕途《しと》なきゆえ、之を仰《あお》ぐこととてもできず。大いに当惑いたし居りしに、天和元年に至り十兵衛前吏に交代して高知より此の地に来たり。分一役を勤むることと成りしかば(当時、分一役は大概《たいがい》一年々々に交代し居たるなり)十兵衛も備《つぶ》さに目下の状況を観察して惻隠《そくいん》の心に禁《た》えず。何とか救恤《きゅうじゅつ》の道を立てんものと焦心苦慮いたし、其の為め同郷黒見山の内、松木山、御留山、一個處公儀へ願い出でしに異儀なく御聴届を得たるを幸い、十兵衛は其の手配をなして天和二年戌《いぬ》の六月朔日《さくじつ》より、杣日雇いを右黒見山に送り遣わし、明年、亥《い》の歳四月迄を限り、材木を仕成させしに、松材五萬五千三百六十餘《よ》、保佐木《ぼさぎ》拾八萬四千三百十二束《そく》を得たり。因《よ》って之を上方《かみがた》に売出《い》だし、又は地売りと為したるに高金八十七貫六百八十四匁《もんめ》七分《ぶん》あり、右の内四十五貫二百九十匁九分は杣日雇の入目《いりめ》とし、残金四百二貫三百九十三匁七分を徳用銀と為し、其れを御蔵米立用に為し下せしかば、地中人民始めて飢渇《きかつ》の難を免れ、其れよりは、転じて溝壑《こうかく》に陥る者もなく、散じて、四方に之《ゆ》く者もなく、其の欣躍《きんてき》帝口ならず。誰一人として、十兵衛の功を謝せざる者なかりしとぞ、斯くして又、貞享元年子《ね》の歳と為りしに、不幸なることには前年にも勝る大凶年にて、穀物一切稔らず。加うるに漁事とても之なく、郷浦共、困頓窮迫《こんとんきゅうはく》一方《かた》ならず。渡世向《とせいむき》更に立行かず。日増しに飢餓が逼り、桑を伐り、屋を折くも及ぶべからず。朝に斃《たお》れ、夕死し、其の惨状実に目すべからず。之に因り、十兵衛よりは早々御蔵米相開き、御救助米仕度《みきゅうじょまいつかまつりたく》と公儀へ御伺《おんうかが》ひ申上げたるに、御詮議《おんせんぎ》急速にはこばず、甚《はなは》だ延日となるに付け、老者となく、壮者となく、夜に日に餓死する者愈々《いよいよ》多く、続々鬼籍に登る者あるを見て、十兵衛は独り自から以為《おもえ》らく「郷浦人民旦夕《たんせき》に其の生命を失う今日の場合、徒《いたずら》に米蔵の番人致し居りては実に当浦役相勤めたる甲斐もなきことなり。寧《むし》ろ我身は如何なる御詮議に遭ふとも一己《いっこ》の考えを以て、急々に此の御蔵米を取出し、目前飢餓に逼りて猶、未だ死せざる者を賑救《しんきゅう》するに若《し》かず」と遂《つい》に藩命の下るを待たず、自ら米蔵を開き、それぞれ郷浦人民に配布したりしに扨《さ》ても死あるを期して生あるを期せざりし。土地の民衆今にも絶えなんとする命脈を繋《つな》ぎ留まることを得て、幸いに蘇息《そそく》することと成りしかば、誠に命の恩人なる哉、最早死ありて、生なかりしものを唯だ岡村殿の在りたればこそ、無き所の命をも拾いしなれ、南無十兵衛様と伏し拝まぬ者も無かりしほどなりしが、爰《ここ》に十兵衛は公儀の御下知《みげち》無《これ》之《なき》を一己《いっこ》の料簡《りょうけん》を以て米蔵を開き、取扱い致したる段、其の罪軽きに非《あ》らずとて、厳しく御咎申付《おとがめもうしつ》けられしは、是れ亦、是非もなき次第なり。
 十兵衛は右の御咎めを被り、謹慎致し居りしが、其の間にも屡々《しばしば》人に語りて、云うよう「此度重き御咎め申付けられたる段は、余が不調法《ぶちょうほう》に付、恐人至極《きょうじんしごく》に候へども、浦人共朝夕餓死数多《あまた》に及び、片時坐視《ざし》するに忍びざるより自分の一命に替え、取計《とりはか》らい候事なれば再度交代の所存は毛頭《もうとう》無之も且つ一己の存分相立たざるこそ心外千萬《しんがいせんばん》なれ」と斯《か》くて十兵衛は独り自ら覚悟を定めて、自刃を期し、竟《ついに》同年七月十九日の夜を以て浦役場の一室に割腹したりと云う。何ぞ其の悲しきことや、何ぞ其の悲しきことや。
 十兵衛藩命を待たずして、米蔵を開きたること固《もと》より公儀を軽んずるに似たり。然《しか》れども之を以て千百の民命《みんめい》を救いたるは、其の功実に無邊《むへん》なりと謂わざるべからず。
 而して、己《おのれ》は昨日を以て千百の民命を助け、自らは今日を以て一死を潔《いさぎよ》ふす。痛悼《つうとう》せざらんと欲するも得べからざるなり。而して、其の義の高きも亦実に感すべきなり。亦実に感ずべきなり。
 十兵衛死するの時、歳方《まさ》に五十一、己にして其の事、郷浦人民に聞へしかば、男となく女となく老いとなく小となく、恰《あたか》も赤児の慈母《じぼ》を失いたるが如く、嗚呼《ああ》々々、岡村殿、死し給いしか、我々が命の恩人たる十兵衛様よ、いかで君には果敢《はか》なくなり給いしぞと吾も吾もと死骸によりそいて、連々と涕涙《ているい》をそそがざる者なく、悲哀慟哭《ひあいどうこく》止むことを知らず。終に相会《あいあい》して死体を八幡宮西脇花表《かひょう》の側芝地《そばしばち》に涕涙と共に埋葬したりしが、是よりの後は郷浦民日夜に其の徳を追回《おいまわ》して墓参りにも怠りなく、斯くして又、村民一同より総代を以て此の上は十兵衛遺家族相続の儀、幾重にも宜しく御詮議被仰付度《ごせんぎおおせつけられたし》と公儀へ対し懇願度々に及びたることもありしが、右の願意は果たして、藩廳《はんちょう》より許容せられしや否や、未だ之を審《つまび》らかにせず、歳を経ること百八十八年時・維《こ》れ明治四年村民更に上請《じょうせい》して神號《しんごう》を付することを許され、仍《よ》て祠《ほこら》を建て鑑雄神社と称することに成り、並びに又、其の事を貞珉《ていみん》に刻みて不朽に伝うることを為し、毎年六月十九日を以て其の祭日と定めあるとぞ。榎逕居士の曰く、吾幼にして、岡村十兵衛の話を老父親《ろうふしん》に聞く。老父親義人の事を語るに及び未だ曾て十兵衛を称せざることあらざるなり。吾幼未だ経史《けいし》に渉《わた》らず。
 而して十兵衛の事、一たび之を耳にするに及んで、深く其の義の高きに感ぜずんばあらず。今にして、羽根村を過ぎ、親しく其の祠に謁し、その碑を読み、又其の日記を閲するに及んで、轉《うた》た追仰《ついぎょう》せざること能《あた》はざるなり。古《いにしえ》に言えることあり。捨生取義殺身成仁《せいをすててぎをとりみをころしじんをなす》十兵衛の如き其《そ》れ斯人弞《このひとか》、其れ斯人弞。

四月十六日 風雨
 昨日に同じ。加うるに東西両川満水にて通行止めと為る。発程《はってい》せんと欲するも得《う》べからず。已《や》むを得ずして、逗住《とうじゅう》す。午後、和田亀之助君招き飲ましむ。亀之助君産業、已《すで》に裕《ゆたか》。而して、最も慈善家を以て名あり。人能《ひとよく》く之を知る。君、本年歳六十位一歳、親戚故旧《こきゅう》因って其の寿を為す。時に和田家に勤めて云う者あり。此の祝節に当り俳優を高知より迎え、一同の演劇を開き、以《もっ》て、卿人の耳目を楽ましむれば如何《いかん》、君、之を聞き、不可を鳴らし且つ曰く、吾れ是《かく》の如きことを好まず。而して、此の吉良川には東西に二つの川あり、橋なし、旅客不便を感ずること尠《すくな》からず。吾、死する後は知らず。
 未だ死せざるの間は(矢《ちか》)誓って、此の事を為さんと果たして其の言の如くす。今日、現に往来の人をして、其の便を得せしむること鮮少《せんしょう》に非ざる也。其の他、平常貧民を助け、不幸の人を恤《あわれ》む。例を挙げて言うべからざるものあり。誠に感ずべきの翁なり。

四月十七日至十九日
 風雨、未だ歇《やま》まず。河水《かすい》益々増加し、未だ発程することを得ず。

四月二十日
 午時《ごじ》(昼時)前発。水猶《みずなお》路上に溢れ、動《やや》もすれば河の如きものあり。左の傍《ほう》、山岳多く、巌石を以て骨と為し、肉と為し、奇形を呈する者少なからず。而して其の間、常に無くして偶々《たまたま》有る所の飛瀑《ひばく》を見ること一両のみならず、蓋《けだ》し先日来の大雨に困って生ずる所のみ。此の邊又枇杷《びわ》を作ること多し。味も亦極めて佳なりと言う。
 稍行《ややゆ》き山を登り西寺に詣《もう》です。当日は祭日にて子女群衆す。寺、其の名を聞くよりも小なり。唯《た》だ地の山上に在るを以て眺望少しく佳なるのみ。寺の傍ら別に境を為し、仁王門より入りて、大師堂、及び大日如来、薬師鐘撞堂あり。是亦記するに足らず。加うるに此の域内へは女人の入ることを禁ずるが故に□
□本日の如しと雖《いえど》も猶《なお》、蕭《さび》しき塩梅《あんばい》なり。
 坂を下る頃合い、鯨舟の騒動するを見る、言う者あり、今日は、鯨魚《いさな》を捕し得るも亦測《はか》るべからずと。同行諸士皆日《いう》、鯨魚の獵《りょう》あらん乎《か》、是れ実に一大見物ならんと、吾、土陽(土佐)の地に生まれ、鯨肉時に之を食うことありて、未だ一回も鯨魚を観たることあらず。 今日にして、捕鯨の実況を観ることを得ば何よりの楽しみならんと、心大《こころおお》いに勇み、気を励まして行く。
 室津に抵《いた》る。同處諸士《どうしょうしょし》、途《みち》に吾㑪《ごさい》を要して、一亭にに小休せしむ。港を一見し、并《ならび》に一木神社に謁す。嘗て聞く室津の港は往昔《おうせき》一木権兵衛の身を殺し以て開鑿《かいさく》する所なりと。今の一木神社は即ち、権兵衛を祀る所なり。祀《し》、
《おうせき》港上一山麓《こうじょういちさんろく》に在り。小さきものにて且つ殆ど廃壊《はいかい》す。之を神社として置く以上には今少し結構に致して然るべし。一木氏の功業は実に感ずるに餘りあることなり。一個巨大の石碑を高知公園の如き場所に樹立しては如何やと思う。吾、今旧記を安し、左の文を作る。此れに之を掲載すべし。
 口は以て、食を入れたり。以て聲をだす所なり。人にして口なければ、累日《るいじつ》ならずして、乍《たちま》ちに枯死せんとす。港は社会にして港なければ貨入る能《あた》はず。産出だす能わず。港の無かるべからざる。猶、其の口の無かるべからざるごときか、土佐の国東西に亘り数十里、南方挙げて皆海。而して吾川郡浦戸港以東、港の称すべきもの、其の初め唯々極東甲浦に有るのみ、其の餘未だ曾て大船を容《い》るるに足るものあらず。遺憾《いかん》何ぞ言うべけん。況《いわ》んや本国東岬の如《ごと》き、寔《まこと》に海南の絶際にして渺々《びょうびょう》たる大洋の中に突出し、其の海波瀾《うなばら》常に踊騰《ようとう》、潮汐極めて、迅激《じんげき》動もすれば、即ち風怒り、浪驚き凡そ来住する所の船舶一朝に其の難に會《かい》すれば、柱折れ、楫《かじ》摧《くだ》け、進退之を如奈《いかん》ともすっべからず。船覆《くつがえ》り人溺れ、鮫魚《こうぎょ》の腹中に葬らるゝにあらざれば、則《すなわ》ち極外窮《きょくがいきわ》むべからざるの鬼域《きいき》に漂放せられ、生きて、再び、還ること能《あた》はざるは、蓋《けだ》し又、実に少なからざるに於てをや」宜矣哉《むべなるかな》、大守《おおかみ》山内忠義公の時に方《あた》り、室戸鑿港《さくこう》の議起こる。初め寛永七年より慶安三年に至るまで、(其の間二十一年)之を開鑿《かいさく》し、之を修築すること大凡《おおよそ》両三回、而して、猶、未だ大船を入《い》るゝに足らず。寛文元年、再び議し、更に改鑿《かいさく》せんことを謀《はか》る。野中良継命ぜられて、之を総督《そうとく》す。渡邊小兵衛《わたなべしょうべえ》副たり。而して、且つ其の役に當る者を一木権兵衛と為す也。権兵衛已《すで》に任ぜられて、事に鑿港《さくこう》に従う。日々、四五千の工夫を使役し、處理《しょり》する所を誤らず。歳積《としつ》み、日累《かさな》りて業幾《ほと》んど成る。唯《ひと》り湊口《そうこう》に巨巌の在る有り。三個相聨《つらな》りて屹立《きつりつ》す。曰《いわ》く鮫礁《さめばえ》、曰く斧礁《おのばえ》、曰く鬼牙礁《きばばえ》、高さ七八尺、長さ十間餘、其の状皆奇鋭《みなきえい》、剣の如く、戟《ほこ》の如く、啻《ただ》に港口を壅塞《ようそく》するのみならず。船脚之に觸《ふ》るれば一瞬にして粉塵と為らざること希《ま》れなり。
険も亦、甚《はなは》だしと謂うべし。只《ただ》、其の之を除かざるが為にして、功《こう》未《いま》だ全《まっ》くこと得《え》ざるなり。権兵衛因《よっ》って策を為し、土豚《どとん》(土嚢《どのう》!)七万五千餘を作り、之を以て大堤《たいてい》を三嵓《がん》の外に築き、巨木を列《つら》ねて之を打破せしむ、嵓極《いわきわ》めて堅く鎚《つち》損じ、石變《へん》せず、屡々《しばしば》之を為して、屡々此の如し、日移り、人倦《う》み、如奈《いかん》ともすべからず。(此の間又、一木氏の所業を外より種々に非難し、嘲弄《ちょうろう》する者もありたりと言う。権兵衛是に於て藩廳《はんちょう》に上申するに大《おお》いに役夫《えきふ》を増さんことを以てす。藩廳之を許し、更に三千の工を増さしむ。新工、旧工と咸力《みなちから》を合わせ、各々鐡鎚《てっつい》を手にして鑱鑿《さんさく》す。嵓猶を前日の如くにて、労の費えあり。功の見るべきなし。権兵衛苦慮する所甚だ少なからず、衆口皆曰く、「此の處神の惜しみ給う所にして、此の岩石の下には何か怪敷者《あやしきもの》の其の居を托《たく》することにてもあらん歟《か》。左《さ》ればこそ、岩石之を碎くと雖《いえど》も破ること能わざるならん」と権兵衛の曰く、「吾多年寝食を安ぜず、粉骨虀身《ふんこつさいしん》、事《こと》に此に従う。其の功も亦幾《ほと》んど八九分に至りて、唯此の岩石の為に成を造ること能はず。空しく幾多の日子《にっし》と幾千の人夫を費やし、無念遣る方なし。此の上は更に心を清め、大いに祈願を込め、此の一念を貫くべ志《し》」と因って沐浴して拝祈《はいき》し、且つ立誓して曰く「権兵衛苟《いやしく》も此の役に當り、大いに心魂《しんこん》をを凝《こ》らし、是に及びし處、唯だ此の岩石未だ除かざるが為にして、功、其の完《まった》きを造る能わず。施《よ》って夥しき日子を費やし、人夫を役し、国主を始め奉り萬人に對して何等かの面目を相立たず、伏して願わくば、少しく燐察を垂れ給え、神若《も》し愚臣の祈願を採納し給いて、早々此の岩石を破砕することを得せしめ、港、成就することを得せしめなば、愚臣其の時に至り謹んで、一命を捧げ奉らん」此《か》くの如くに祈願すること一昼夜、翌暁《よくあかゆき》自ら衆を率い、大いに力を励まして、打破せしむるに堅岩忽然《こつぜん》として摧裂《さいれつ》し、破片粉の如くに散る。衆人の欣躍《きんやく》豈《あに》啻《ただ》ならんや(或は言う岩摧けたる時、果たして羶血《せんけつ》の併出《へいしゅつ》するを見たりと、蓋し、岩石は礦物《こうぶつ》之動物にあらず。安《いず》んぞ羶血の併出すべきあらん。密かに考えるに、彼の岩石は最も銕質《てつしつ》を包有《ほうゆう》し居り、其れ故にその堅きことも他の凡岩の比にあらっず。而して、其の銕汁《てつじゅう》に参加するに潮水《ちょうすい》を以てする為め、恰も鮮血の如きものを目撃したるならん歟、又其の権兵衛神に祈りて、後に思いの外摧裂《さいれつ》し、易《よ》かりしは他なし。良心一定して今は早、何とか摧裂せざることの有るべきと確信し因って、以て、手を下したればなり)皆曰く、「不思議なる哉、々々々々々々、義士の一念、鬼神之に感應し以て此に至れる歟」と仍《よっ》て湊口《そうこう》に土豚七万五千餘を以て潮を防ぎあるものを取除け、又は切放ちしに潮水暫く時にして、港内に注入し、復《また》、遺憾とする所なし。看る者、吾も吾もと口々に歡呼《かんこ》して曰く「慶すべき哉々々々々々、港其れ此れに至りて成就す。何ぞ、其の多幸なることや、是よりは如何なる船舶も自由に出入りすることを得べきなり」と。
 果たして、之を實施するに誤る所なし。まこと寔《まこと》に一木氏の功なる哉。寔に一木氏の功なる哉。蓋《けだ》し、此の工、事を寛文元年に始め、延宝七年に至りて畢《おわ》る。歳を累ねる大凡《おおよそ》十九年、工を役する弐百参拾六萬五千七百人、米を費やす四萬五千石、金を費やす弐萬五千両と言う。而して、一木氏自ら以為《おもえ》らく、今にして此の港、漸《ようやく》く成就する。吾復《また》、餘念の存する所なし。吾初め、神に誓うに、岩摧裂《さいれつ》し
港成就せしならば、謹んで一命を捧ぐべしとの事を以てす。今、目前に岩摧裂し港成就して吾一命を神に捧ぐべきの期迫る。男子何為《なにす》れば神に對して誓う所を破るべけん、と。
殊に家族を高知より呼寄せ、舒ろに遺言を子孫に為し、竟《つい》に、延宝七年未歳《ひつじのとし》六月十七日申《さる》の刻《こく》を以て、室津港上に自刃す。時に年六十有三、鳴呼《ああ》何ぞ、其の悲しきことや、鳴呼何ぞ其の悲しきことや、同處、津寺境内山麓(西脇)に葬る。権兵衛、姓は藤原、諱《いみな》は政利、覺岩院常譽居士《かくがんいんじょうよこじ》と戒名す。
 碑を建つ。高さ八尺、刻するに右の戒名を以てす。歳を閲《けみ》すること壹百有九十八年、時維《こ》れ、明治九年、有志者周旋《しゅうせん》する所あり。
一小祀殿《しでん》を築造し、永遠吊祭《ちょうさい》の處と為す。之を一木の神社と號す。毎年六月十七日を以て、祝日と為す。参拝の人、東西より雲集せざる無しと云う。猶、此の一木権兵衛の事績に就いては、別に詳しきもの手に入りたれば、是も携《たずさ》え歸《かえ》るべし一の小説にも相成《あいな》るべくと考えられ候《そうろう》云々《うんぬん》。
 室津にて休憩中、報ずる者あり、曰く果たして津呂沖にて鯨魚の獵ありと。吾等一行之を聞き、喜《よろし》きこと一ならず。飛ぶが如くに足を早めて、津呂に抵《いた》れば、其れの處、海濱に暄聲《けんせい》湧くが如きを耳にしつつ、人群の山を成すを見る。同伴の人、皆曰く、甚だ異《あやむ》べきことなり。彼の處は平常鯨を引上げる場處《しょ》にあらず。何故なれば、今日に限りて、場處を違え居ることなるぞ。訝し々々々と愈々進んで、之に近付けば先ず、第一に、言うべからざる
悪臭を以て、吾等の臭神経を驚かしたり。左《さ》れど辟易すること無く瀕《せま》りて、之を見れば、鯨は鯨に相違いなけれど、已《すで》に大半腐敗したるものにてありしなり。此の際は已に半分ほど裁《きり》り捌《さば》き居りて、其の截肉《せにく》は一々沙上に並べ置き、猶、其の半分ほどに成りたる魚の軀《からだ》
へは魚切りと称する者、長柄、若しくは包丁を持って登り行き、一方の端から其の肉を切り頽《くず》す。之を切り頽せば、或いは縄にて沙上に引上げ、或いは鍵《かぎ》(熊手)にて(其の鍵を持する者は、之を鍵引きと称す)陸に運び行く。其の傍近《ぼうきん》は腥血《せいけつ》の為に海水悉く赤色を成し、其の最中に截捌《きりさば》きおる鯨の側《かたわ》らへは○○
○の者夥しく来たりて、肉の小切れを拾い、或いは偸《ぬす》む。甚だ熱ヶ間敷《あつかまし》く見受けたり。
折々は水を掛けて之を逐い。或いは叱咤《しった》して
之を攘《はら》えども、手ひどくは致さず。是も習慣の存する所なりと云う。良《やや》あり、縄を鯨の頭にかけ、数十人の者が寄ってたかって其の縄を取り、音頭が采配を振り、木遣歌《きやりうた》を謡《うと》て衆を勵《はげ》ましつつ遂に之を沙上に引上げたり。
山撼《うご》き、地震《ゆる》ぐが如く覺えたり。
 蓋《けだ》し、此の鯨は「ナガス」と称する種類のものにて、長さ僅かに八尋位(鯨にはセビ、ナガス、ザトウ、イワシ、コクジラ、マッコ等の種別ありと言う)鯨にしては大きなるものと謂うげからず。又、其の之を得たるは、本日より四五日も以前に其の鯨が海中にて海虎《しゃちほこ》の為に噛み殺され已に死したる後、海面に浮び在るを認めて、取り来たりし譯《わけ》なりとぞ。其れゆえ、今日と為りては已に腐敗し居りたるなり。已に腐敗し居りて悪臭甚だし。
之を平常の場處へ引上ぐれば、臭気を其の跡に遺すことを恐る。其れゆえ之を平常と同じからざる他の場處へ引上げたるなり。話を聞く。此の鯨は已に腐敗し居りて、其の肉、最早食うべからず。去れど、其の價《あたい》は壹百五十有餘圓ありと。噫《ああ》斯の鯨の如きは悪臭堪ゆべからざるほどに、腐敗し居るにもせよ、猶、且つ此《かく》の如きの価値あり。而して、世上政党の仮面を蒙《こうむ》り悪臭鼻を突くばかりに腐敗する者、果たして壹百有半の価値ありや、甚だ訝しく存するなり。斯《か》くする中に夕陽背山《せきようせざん》に春《うず》
く比《ころお》ひと為りしにぞ吾等は此處《ここ》を辞し旅館に赴く。途《みち》にして津呂の湊を看る。津呂港は往昔、忠義公の時に丁《あた》り、安積幸良《あずみゆきよし》、衣斐勝光《えびかつみつ》、野村成正《のむらせいせい》、等をして、其の責めに任ぜしめ、以て開鑿《かいさく》する所と為し、事を寛文辛丑《かのとうし》正月十六日に始め、工役を用いる参千六萬五千有餘、黄金を費やす壱千百九十両、成りを三月二十八日につげたるものなると言う。黄昏、旅館に入る。夜に及び有志者四十名可《ばかり》。懇親会を開く。余之が為に、一番の演説を為す。終りて置酒《ちしゅ》す。演説も亦絶えず。午前二時に至って寝に就く。
四月二十一日 晴れ
 朝、発歩して行く、同伴する者多し。町外れより少しく行きたる處にて思わざりき海濱《かいひん》
岩際《いわぎわ》より呼び聲を発し、吾等を招く者あり、至れば則ち當地有志者、某々君《それぞれくん》等酒を瓢《ひさご》にし、
肴《さかな》を筥《はし》とし、此の處沙上に開筵《かいえん》して豫《あらかじめ》謀《はか》り、吾等を途に要して一杯を勧め、以て、吾等、今朝の行を送らんとするものなり。亦是1奇《き》なり。乃《すなわち》献酬《けんしゅう》之を数番《すうばん》し、更に行き、山を登りて東寺に詣です。山上、面白くも無き、可笑しくも無き處に、大きくも無き、美しくも無き一宇《う》を認む。之を遥拝處《えつはいしょ》と称する由なり。四国巡礼の徒、男となく女となく来たりて拝祈する者、尠《すくな》からず。
 稍《やや》隔《へだ》たりたる處に祖師堂あり。更に行けば、元《も》との本堂にて、今其の屋葢《やね》もなく板壁もなく雨には濡れ次第、風には吹かれ次第、只《ただ》、柱などの組立のみ残し居りて、哀れ至極に成り果てたるものあり。昼にても、狐、梟やうのものの住まいそうに見受けたり。再び修繕するは曷《なん》の時にかあるぞ。其の前に仁王門あり。是は何とか言う党派の如く、幾んど頽《くず》れんとして纔《わず》かに存するのみ、此の仁王門より内本堂の在りし場處へは今も女人を入らしめず。本《もと》は女人を禁制すべきほどの霊地にてありしや知らざれど、今は狸の跋扈すべきほど荒れ地に成り居るなれば、女人入りたればとて、何の仔細《しさい》も無かるべけれど、巡礼の者誰も彼も此に至りて、其の餘りに廃壊したるを見るときは、一度に愛想をつかすことと成り、都合悪しきことも有るべければ旧の如く女人を禁制すること寺の為に得策ならん。右の外、古き時代には種々の建ち物もありし様子なれど、今は大概滅びたるよし。転《うたた》に気の毒に存ずるなり。寺僧の品行に就いては、色々聞き及びたる次第もあれど、此には挙げざるべし。檀家の人々には今少し注意して可なるべしと言うことを一言し置くのみ。
 初め、吾以為《おもへ》らく本堂の邊に登り臻《いた》ば、東南西三方を1目に見開き、其の觀、最も巨にして、且つ最も壮《そう》ならんと、地を選ぶこと善ならざるが上に、榛莾《しんもう》の蔟々《ぞくぞく》として眼《がん》を遮《さえぎ》る
もの多く其の價豫想の半分にも當らざりしなり。昔日は群猿《ぐんえん》の戯《たわむ》れ居りて、見物の一端ともなりし由なれど、今は其れとても居らず。東南に向いて、坂を下る。始めて、東海の森々たるを眺め改觀する。坂を下り詰めたる處、某の一隅《ぐう》に岩窟《がんくつ》あり。内に子安観音《こやすかんのん》を安置す。是より山を西に負い、海を東に扣《ひか》えて北行《ほっこう》す。山形奇峻《さんけいきしゅん》、樹木も亦珍異《ちんい》、目を喜ばすもの饒《おお》し、稍行《ややい》く、更に二つの大巖窟《がんくつ》あり、大きさ家の如し、右の穴には天照皇太神《てんしょうこうたいしん》を祭り、左の穴には御所の神社を祭るとの話しなり。総《すべ》て、此の邊は奇岩怪石、最も多くして、或いは海際に在り、或いは断岸《だんがん》の間に聳え、神鬼剡《しんさんきえん》、幾《ほと》んど形状すべからず。縱《たと》い如何《いか》なる名畫工《めいがこう》と雖《いえど》も此の處に来れば、必ず筆を捨つることなるべし。況《いわ》んや余が如き文章に拙《つたな》き者を以て、其の萬一《まんいち》を描出することを得べけんや。之を聞く岬の極南、最も觀の奇異なるものありと、余《われ》れ今日、東寺に登り、同處より坂を下りて、此に来りしを以て、極南の海岸を通らず、旋《かえ》って憾《かん》を遺《のこ》したり。更に行く山は漸《ようや》くに其の奇を失えども、海濱の模様は転《うた》た面白く、大濤の岩に觸《ふ》れて白波空に漲《みなぎ》り、瓏珠玲玉《りゅうじゅれいぎょく》、躍《おど》るが如くに飛散するなど、其の觀甚だ俊《しゅん》なり。路傍何とも知れぬ藁《わら》小屋
比々《ひひ》として之あり。如何なる譯《わけ》のものかと問えば、網など藏《おさ》め置く所なりと答える。
 十二時三津に抵《いた》り、岩貞官馬氏宅に小休し、昼食を供せられる。午後三時椎名に抵り、多田嘉七氏、家に茶を喫し、五時過ぎ、佐喜浜に抵る。植松龍太郎氏、植村馬七氏等の迓《むか》うる所と為り、某覊舘《きかん》に投ず。夜、懇親の宴を張る。会する者、四、五十名、余之が為め演説す。門外には高く響く者を波濤《はとう》の聲と為し、場内に畳なり満つるものを自由の空気と為す。

四月二十二日 曇り
 海は晴れんとす。山は雨《ふ》らんとす。二つのもの相争う。勝敗未だ知るべからず。午時前《ごじぜん》発す。水尻に至り小休す。是の邊に至るまでは風光の敢《あえ》て記すべきなし。更に行き、淀ヶ磯に遭《あ》う、俗に、飛石、跳石、殷々《ごろごろ》石と言うもの皆、此の處に在るなり。昔より、非常の難所なりと八釜敷《やかまし》く聞こえたるほどにて、固《もと》より常の路にこそ有らね。近来は追い追いと金を費やし、工を加えし事もありしよしにて、然程に難所と称すべき様も見えず。其の殷々石と称する處は浜の石を捲き上げ、捲き下ろし、濤聲《とうせい》殷々《ごろごろ》々々と響く、それゆえゴロゴロ石とは名付けたるとかや。今は波打際に細沙《さいしゃ》生じ、ゴロゴロの響きも昔の如く甚だしからざるよし。
 大いに進んで、其の山坂を踰《こ》え、野根川を渡り、野根村に抵る。同處諸士《どうしょしょし》の案内に遇《よ》り某逆旅《それぎゃくりょ》に投ず。諸士来り、置酒《ちしゅ》す。此の夜、雨甚《はなはだ》し。野根村高知を距《へだて》ること二十餘里、加うるに野根山の険あり。人の高知に往来する者甚だ多からず。陸ならば徳島に行くを高知に行くよりも便なりと為し、海ならば大阪に行くを、高知に行くよりも便なりと為す。其れ故、高知の間化を輸《ゆ》することは至って少なく、品物は多く大阪に仰ぎ、人馬は多く阿波に往来す。土佐の風一分に居る。阿波の風一分に居る。大阪の風一分に居る。

四月二十三日 雨甚し
 午時前《ごじぜん》に至りて歇《や》む。然《しか》れども未だ晴れず。午後演説会を開く。会場狭隘《きょうあい》にして三百人以上を容るゝこと能わず。溢るゝ者は場外に在りて、壁越しに聞く。聴衆《ちょうしゅう》多くは今回を以て始めて、政談を聞く者なりと言う。其れにしては議論能く徹底したるやうに覺う。植松龍太郎君、一題を演じ、余二題を演ず。昨夜以来若しも降雨の甚しかりしこともなく、今日も朝より天気にてありしなば、聴客如何ほどに夥《おびただ》しかりしや測られざりしなれど、奈《いか》んせん、昨夜より雨強かりしゆえ、谷々に水溢れ、橋梁《きょうりょう》無くなりし個處《かしょ》も尠《すくな》からず。其れが為、報告も十分には行届かず、遠方より来らんとするも、来ること能わざり者多かりしなり。夜開宴す。列座する者、数十人余又演説すること一番、更深《こうふこ》うして止む。

四月二十四日 晴れ
 本日より歸途《きと》に就く。晩朝駕籠《ばんちょうかご》を以て発す。淀ヶ磯を過ぎ、佐喜浜に午食《ごしょく》し、椎名に抵《いた》りて、多田嘉七氏の家に宿す。夜、傍近《ふきん》の農男農女、樵老《しょうろう》、樵壮《しょうそ》余が此處《ここ》に一泊するを聞き傳え、吾も吾もと推《お》しかけて来りて、今日の方向を指示せんことを請う。皆、是期せずして集まりたるものなり。吾、懇々《こんこん》と之が為、説教す。皆、悦んで返る。

四月二十五日 陰
 晩朝発。歩して十連坂を踰《こ》ゆ。途《みち》にして雨降る。午後室津に着す。宮田氏の家に宿す。當處及び津呂等の諸士至る。

四月二十六日 雨
 午後に至り霽《はる》る。浮津捕鯨社を会場と為し、一大懇親会を開く。来たり會する者、一百有餘名、尾原澳竹《おはらおうちく》君、開会の主旨を陳す。余之が為に一場の演説を為す。終わって置酒《ちしゅ》。更に又、土居《どい》より遠来せらるゝ、畠中六朗君、佐喜浜より来たり會せらるゝ植松龍太郎君等の演説あり。自由の聲、波濤の聲と與《とも》に響き渡りて、山岳を揺《うご》かし来る。斯の如き盛会は當地にて多く有らざりしことなるべし。
四月二十七日 晴
 午後演説会を浮津捕鯨社に開く。恰《あたか》も其の頃より天気變《へん》じ、雨降り、雨益々甚だしくして盆を傾くるが如く、或いは電閃《でんせん》きき、雷轟《らいとどろ》くほどの事にてありければ、少しく遅れて来たり、掛けたる者の中には其れが為、到着する能《あた》わざりしも少なからざりし由なれど、本日當地にて、演説会の有る事は豫《かね》て、高々と聞こえ居りしことゆえ、東は椎名近在より、西は吉良川近在より、遠きは、三四里ほどの處よりも竸い立ちて、運び来る者多く、聴客の数乍ちにして七百有餘にも及びけるにぞ、第一に尾原澳竹《おはらおうちく》君登壇《とうだん》し、次に清水泉《しみずいずみ》君、演説し、其れよりして、余は二時間半の時間を以て、三題を演説したりしが、其の聴衆は余に對《たい》して、最も熱心の耳を差向けたり。凡、演説の場合には聴衆の聴神経、直ちに演説者の発言器と聯絡《れんらく》し、聴者《ちょうしゃ》と言者《げんしゃ》とは有形上如何ほどの距離あるにもせよ、無形上に於は、一方の鼓膜は直ちに一方の口唇《こうしん》に切迫するのみならず、更に進んで、胸内《きょうない》に入り、臓腑《ぞうふ》に入るほどにあらざれば、面白くはあらざることなるが、本日の如きは幾んど此れに至らんとする趣にてありたり。右終り有志諸士、余を慰労するが為なりとて、更に宴席を張る。列座する者六十五人、会場が捕鯨社にて、有るほどにて、流石《さすが》に鯨飲《げいいん》する豪傑達もありたるように見受けたり。余は酒に於いて價い、走卒《そうそつ》にも當たらざるべし。 

四月二十八日 晴
 馬を以て発す。途にして時々小雨に遭う。吉良川に小休し、羽根に午食し、今回は中山を山越に越えずして岬廻りに砂地を歩み行き、岩間を飛び行き、加領郷《かりょうごう》に出て、奈半利を経て田野に抵《いた》り、□號《そごう》旅館に投ず。本日来る所の途上、元《もと》變より羽根變に至るまで、北方断崖絶壁の間、奔水千尋《ほんすいちひろ》の上より潟下《しゃか》し、餘沫空《よまつぞら》に漲りて勢い最も壮なるものあり。或は緑葉紅花の側に濛々《もうもう》白波を雨《ふ》らして、觀、最も美なるものあり。吾等をして、眼眸《がんぼう》を慰養せしむる少小に非ざりしなり。午後、浄土寺に於て演説会あり。時、稍晩《ややおそく》くなり居りたれば、余は二時間餘りを以て、一題を演説したり。終わって懇親会を自由亭に開く。会する者四十余名、席上演説を為す者続々として顆《おびただ》しく出で来たり。自由の音聲《おんせい》をして、自由の楼上に山岳も撼揺《かんよう》するが如くに響き渡らしめたり。

2011年7月10日日曜日

     室戸の民話・伝説         第二話 泥打ち祭り

                泥打ち祭り

 吉良川町・西の川を遡ること三里、長者野の奥に朴《ほお》の木と言われた、戸数十二、三戸の小集落があった。村人はこの集落の名にたがわず、豊かで平穏に暮らしておった。
 ある年、集落に疫病がはやり難渋した。村人は頭を集め相はかり、集落の美田を吉良川御田八幡宮に奉納した。すると神の御加護か霊験あらたかなり、たちどころに疫病は治まった。神田の泥が無病息災の妙薬となり、村人を喜ばせた。早少女《さおとめ》が若衆に泥を打ちかける行事、泥打(どろんこ祭り)ち祭りはここに始まった。と言われる。
 明暦元(一六五五)年卯月(陰暦四月)十日、この年も村人や早少女が待ちに待った泥打ち祭りの日であった。
 ここ長者野は昔から美人の多い所で、吉良川小町といわれ、七浦に知れ渡っていた。白い手拭いで姉さん被り、赤い襷《たすき》、紺絣の出で立ちで、田植え唄をうたいながら苗を植えていく。早少女の舞うがごとしの仕草はあまりにも美しく、近郷近在の若衆連は我を忘れ見とれていた。なかには、この小町娘を女房にしようとたくらむ若者も、そこかしこに多くいた。元々娯楽の少ないこの農山村は、泥打ち祭りが一つの男女の集いの場で、祭りが縁となり結ばれた男女も少なくは無かった。
 一通り田植えが終れば、いよいよ泥打ちが始まる。あらかじめ泥を塗られても良い着物で来る者や、中にはこの上なく粧《めか》し込んで来る伊達男もいた。泥を塗ろうと追い駆ける早少女、塗られたくも有り、また塗られたくも無い若衆たちとの戦いが一時続いた。いつの間にか、その中に若い笹飛脚が一人いた。
 それに気付いた一人の早少女は、七人の早少女に目配せしあい、突然、飛脚に泥打ちを仕掛けた。驚いた飛脚、身をかわしたがかわし切れず、全身に泥を浴びてしまった。御上の御用を務める飛脚。泥を打ちかけられ、汚辱されたとあっては申し開きが立たない、とばかりに小太刀を抜き一人残らず斬殺してしまった。惨事の模様は、一面血に染まった田中が物語っていた。飛脚も自ら切腹をして果てた。
 その後、この田の付近から夜毎、人魂が飛交ったり早少女達の忍び泣く声が聞こえたという。村人達はこの不幸な早少女や、飛脚の霊を慰めるため田の中に祠を建てて祀った。
 以後、早少女達の忍び泣く声や、人魂も飛ばなくなったという。この悲惨な出来事より、泥打ち祭りは途絶えたが、朴の木の末裔たちは、永い時を経た今もなお、お祀りは毎年欠かさず続けられているという。

                                                                           文 津 室  儿
                                                                           絵 山 本 清 衣


 

2011年7月5日火曜日

室戸の民話・伝説  第一話      佐喜浜の鍛冶屋嬶

この「室戸の民話・伝説」は、室戸市教育委員会生涯学習課の厚意により、平成22(2010)年4月号より、・広報むろと・に連載され、継続されています。これより、順次掲載致します。お楽しみ頂ければ幸いに存じます。                                                               
佐喜浜の鍛冶屋嬶
昔々、それは長宗我部元親の頃と言うから、かれこれ四百年も前の話である。元親が四国平定の足掛かりに、阿波の牛岐《うしき》城(別名浮亀《うき》城)を攻めておった。ところが元親の家来の一人、その妻女が、戦場にいる夫の身を気づかい会いに旅立った。それがなんと身重でありながら奈半利から野根山越え、名にし負う難所、野根山街道を越していたそうな。装束峠を少し越した所で、急に産気づき苦しみだした。 そこへちょうど、一人の笹飛脚(超特急便)が元親の本陣を目指し急ぎ足で通りかかった。飛脚は公用人で勝手なことは許されないが、とても優しい飛脚は、女性を一人こんな深山に放っておけば、狼が出てきて大変なことになる。そのうえ、陽は遥かな山並みに傾き夕闇は間近い。飛脚は印籠の薬を飲ませ優しくいたわった。少しでも人里近くまでと道を急いだが闇夜はすぐそこに迫っていた。峠からわずかばかり下ったころ、飛脚は、遥か山裾の佐喜浜川のせせらぎの音をさえぎる、無気味な獣の唸り声を聞いた。「狼だ。しかも二匹や三匹ではない」俗に「狼の千匹連れ」という群れである。なんとかしないと、と困り果てた飛脚の目に、黒々とした杉林の中にひと際そびえる巨木が映った。上の方にはちょうど女一人が横になれそうな枝が張っていた。 飛脚は、労力を重ねがさね、身重の女を木の股に引きあげた。その時は狼らの吠え声が間近に迫っていた。飛脚自身も巨木に足場を調え終ったころには、鬼火のような狼の瞳が木の下にあちこちと、見え隠れしていた。 やがて狼は火を吐きながら、木を駆け登ってきた。飛脚は間合いを見計り、一太刀ひとたち、確実に狼を仕留めていった。半時の死闘で狼の死屍は山とかさなった。狼は飛脚の手練の技に恐れおののき、引き潮のように姿を消した。その時、飛脚は、『これは敵わん。佐喜浜の鍛冶屋嬶を呼んでこよう』と人の言葉を話す狼が居たことを記憶に留めた。 しばらく経つと、再び山が騒ぎ、前にもまして多くの狼が群がり押し寄せてきた。その先頭に、体毛は総白色にして所々燻し銀。身体は驚くほど大きな老狼が、何か得体の知れない釜のようなものを鎧兜《よろいかぶと》のように被り、悠然と木の下に進み来たかと思うと、恐ろしい吠え声を発し一気に杉の木肌を駆け登ってきた。飛脚は、太刀を神に念じて一刀のもとに打ち込んだ。確かな手応えが有った。狼は悲鳴を上げて転がり落ちていった。と、一瞬にしてそこに静寂が戻った。その静寂に、一筋の明かりと温もりが灯った。力強い産声が夜半の岩佐の原生林に響いたのは、まもなくであった。 飛脚は妻女と赤子を里に届けた数日後、無事に公務を終え、岩佐から佐喜浜川を下り鍛冶屋嬶捜しに向かった。何としても、あの不思議な狼らの「佐喜浜の鍛冶屋嬶を呼んでこよう」と言った叫び声と、異様な狼の姿を忘れることが出来なかった、からだ。 佐喜浜に着いた飛脚は、小さな谷川の畔に人里をはばかるように、ヨシ竹やウバメガシに囲まれた一軒の鍛冶屋を捜し当てた。鍛冶屋の親父に「お嬶殿に会いたい」と請うと、「嬶は、数日前の夜半に、便所へ行った時、足を踏み外し頭を怪我して寝ている」と言った。鍛冶屋の親父の答えに、さすがの飛脚の胸も妖しく高鳴った。 訝る親父を説き伏せ、お嬶の寝間に通された飛脚は、青白い顔をして頭に白い晒しを巻き、静かに眠っている美しいお嬶をじっと見つめていた。お嬶には別段異様なところも見出せず、飛脚は苦渋に満ちた。が、やがて何かを決断した。懐から懐紙を取り出し細かく引き裂くと、手早く紙縒《こよ》りを作り、念じるような眼差しで紙縒りをお嬶の耳の穴に差し入れた。すると、奇怪なことにお嬶の耳は犬か猫の耳のように、ピクピク、ピリリと動いた。それを見るや、飛脚は抜く手も見せず、ただ一刀のもと、お嬶の心臓の真上に刃を突き刺した。お嬶は噴き散る鮮血の海に、躍り上るように四肢を震わせて息絶えた。嬶の斬殺を目の当たりにした親父は逆上し、飛脚に飛び掛かったが・・・・・、瞬く間に美しかった嬶の姿は見るも恐ろしい狼の姿に変貌した。嬶の寝床の床下には獣や人骨が累々と散乱していた。飛脚の勇敢な狼への挑戦は、名にし負う難所、野根山街道を明治中葉の頃まで、安全な官道街道として賑わい続けたという。  
祟りを恐れた里人は、今の佐喜浜支所前の一隅に小さな供養塚をつくり、後々祟りがないようにお祀りをした。鍛冶屋の子孫は逆毛が生えていると言われたが、そのような事はない。嬶には子も孫も無かったはずであるから。 後日談に、この伝説の狼とは女山賊であったという。実《げ》に恐ろしきは人間なりけり、とか。

文  津 室  儿                                 絵  山 本 清  衣                             
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2011年7月1日金曜日

「声 ひろば」へ・座頭鯨復権・を投稿

7月1日:71歳繋がりでブログを開設致しました。お付合い頂ければ幸いです。
今日の室戸は雨、梅雨明けはまだ先の気配です。初ブログを記念して、高知新聞(声・ひろば)の欄へ「座頭鯨の復権」を投稿しました。
採用掲載に繋がりますでしょうか・・・!お楽しみ下さい。

不採用の対応として、投稿原稿を掲示致しました。コメントを期待しています。

座頭鯨の復権
7月1日付本紙朝刊「声ひろば」欄で元吉勝美氏の(また「珍クジラ」かよ)を拝読した。文面を察すれば、ペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」の歌碑に副えられるザトウクジラの絵に付いて、異議を唱えておいでのようです。氏は土佐を代表するクジラは、マッコウクジラとニタリクジラとのお説です。この説も現代は通じましょう。
しかし、日本人が最も長く親しみ、鯨体を隈無く利用し、畏敬の念すら以て接したクジラはセミクジラです。土佐に置いても例外ではなく、四百年近い土佐古式捕鯨の様子を描いた、古画やクジラ玩具に至ってもセミクジラがモデルです。なお、延宝3(1675)年太地の太地角右衛門頼治が「網掛突捕漁法」を開発したのは、手羽が発達していて旋回能力に優れたザトウクジラを捕獲するために生れた、と云っても過言ではありません。セミクジラとザトウクジラは古画に多く描かれています、がマッコウクジラは皆無に等しい。むしろ、鯨油のみの採取を目的とした、米国捕鯨の古画には数多描かれています。土佐の座頭鯨の、復権の一助になればと思い筆を執りました。