2011年8月15日月曜日

   室戸の民話・伝説 第四話        シットロト踊り


                         シットロト踊り



  今年も旧暦六月十日(七月二十一日)が間近い。この日一日、室戸漁業協同組合所属の漁師たちは一斉に漁を休み、豊漁への感謝と魚類一切への供養、豊漁の願をこめ神社仏閣や船主の家々を巡り終日踊りぬく。シットロト踊りは漁師の念仏踊りであろう。
 いつの時代の事か皆目分からない。奈良師の地蔵堂の庵主(僧名三蔵とか)がある蒸し暑い晩、浜辺に出て涼をとっていた。夜もいよいよ更《ふ》けてきたころ、節《ふし》筋《すじ》面白く手踊りを交えて唄いながら、西に向かう旅の乞食僧《こつじきそう》が一人いた。庵主はその仕草に魅せられ、元の硯ヶ浜まで追っ掛けて、その唄と踊りの伝授を請い得たと言われる。
 唄を教えた主は人なのか何者か、今もって一切分からない。庵主の墓は地蔵堂の右側の大きな自然石の碑と伝えられ祀られているが、その碑文は風化がすすみ剥落《はくらく》して、解読できないのが惜しまれる。
 また、一説に浦の小童《こわっぱ》に苛《いじ》められていた人魚が漁師に助けられ、お礼に豊漁を招く踊りを授けた、と人魚説が伝わる。
 また、今一つは、江戸藩政中期以前に始まると伝えられる。漁師三蔵(定説)が中心となり、漁師が集い夏の不漁期に魚の供養と漁招きをかねた踊りを創始したという。はじめのころは、浮津下町の恵比寿堂と津寺山麓の金刀比羅宮の二ヶ所で踊り始めたといわれるが、今は十数ヶ所で踊っている。
 尚、今は旧室戸町のみで踊られているが、かつては三津や津呂・ほかの地域でも、昭和初葉《しょよう》まで踊られていた、と古老はかたる。
 押船《おしぶね》(櫓《ろ》船)時代の鰹釣り船には大体七名位の乗子《のりし》(漁師)が乗っていた。その中から日頃勤勉に働く者が、それぞれの船から二名づつ選ばれて踊ったもので、不真面目で品行の良くない者達は踊ることができなかったという。鰹釣りの若い衆は「シットロト踊り」に推薦され参加出来ることを喜びと誇りとして、日頃から勤しんだといわれる。シットロトに加われない若い衆は、嫁の来ても稀だったという。
 鰹釣りが沖で鰹の魚群《なむら》に当ると、喜びを満身に表し船上で踊ったと伝えられ。また、大正二年室戸岬南方沖、約20㍄(約37㌖)地点に大漁礁が発見され、鰹・鮪の大漁が続きこの漁礁を大正礁《じ》と名付け、終日踊り明かしたと語り継がれている。また、ある鰹釣り船が三陸沖の漁からの帰り、大漁を祝して船主の庭で踊り、祝儀に祝い手拭いや、反物を貰ったとも伝えられる。日頃の慶事を、シットロト踊りに託していたことがうかがい知れる。
 この踊りの唄は四十八節、あるいは三十六節からできていたと言われるが、現在は十四節が残され、各節に三、四、五の小節があり、口伝《くでん》で唄い継がれてきたもので、歌詞の変化もあったことと思われるが、古典文学の香りを醸している。
 シットロト踊りの、題名と歌詞を幾節か拾ってみる。
  まず急げ
一、ヤー まず急げ ソーリャ急げ
  しんぼし あとから 
  ソーリャ しぐれがア しいてくる
  ヤー あとから ソーリャしぐれが 
  アしいてくる
二、ヤー このごろは ソーリャお寺
  通いのホリヤ よう鳴る
  ソーリャ尺八を みつけた
  アー よう鳴る ソーリャ尺八をみつけ  た
三、ヤー 取り上げて ソーリャ吹いて 
  みたれば よう鳴る
  ソーリャ お節が アー三つある  
  アー よう鳴る ソーリャお節が
  アー 四つある
  
  不動神
一、アイヨー不動の神と伊勢すみ
  アーリャよし当《と》ヤー熊野のソーリャ神当  ヤー
  結んでは アリャうぐいすと
  ソリヤ 当《と》かれたよ
  アイヨーアザイザーヤお若い衆
  何踊ろうよイザーヤ お若い衆
  何踊ろうやアイヤ ヨイヤ
二、ホリヤ 花や あさぎと
  コリヤ 橘と とかれたよ
  アイヨアイザーヤ お若い衆
  何踊ろうよイザーヤ お若い衆
  何踊ろうよアイヤ ヨイヤ
  
  これの殿様
一、イヤー これの殿様に 福の舟作らしょ
  アヤ 福の舟作らしょ  
  アイヤーお舟オヤ踊りはよ
  踊ろうやアヒンヤコーイコーラヨー
  ヒンヤコラサイのヨイヤ
二、イヤー お舟の下積みに 板金《いたがね》を敷か   しょや
  アリヤー板金を敷かしょや 
  イヤ お舟踊りはよ
  踊ろうアヒンヤアツコラサのヨイヤ 
  ヒンヤコラサーヨーヤ
三、イヤー お舟の上積みに 
  小判千両を積ましょや
  ンヤー 小判千両を積ましょや
  アイヤ お舟アリヤ 踊りはよ
  オン踊ろうアイヤオンオノーヨヒンヤ
  コラサのヨイヤ
  
  はりんりきさま
一、ハアー はりん力馬の馬乗りはヨー
  ヤー はりん力馬の馬乗りはヨー
  ヤー 親の はしみじみと
  親の はしみじみと 
  オン踊ろうアイヤおんおどろうよ
  ヒンヤコラサのヨイヤ
二、ハアー 親に隠れてメが出たかヨー
      殿に隠れてメが出たかヨー
  ヤー 親と殿ごに隠れては
  アイヤ 順礼踊りはヨー
  アー踊ろうアーイヤ踊ろうよ
  ヒンヤコラサのヨイヤ

  西方《かた》
一、ヤー西方ちや 叔母子の方から
  細衣一反 出て来た
  細衣一反 出て来た
  トントヂャ シットロトのヨイヤ
二、イヤこーれ ここで染めよも染めようや
  書こうも書こうや
  かたおば何とつけようや /\ /\
  トントジャ シットロトのヨイヤ 
三、天竺で御染申した
  肩に浮雲 腰に有明
  裾には近江の湖
  ヤ裾には近江の湖
  トントヂャ シットロトのヨイヤ

  引踊り
一、アー今年のヤー年は目出度い年じゃ
  アーリャ浪速のソーリャ寺の
  鐘を鋳る 浪速のコリヤ 寺の
  鐘を鋳る ヨイヤソリヤ
  トントロトントロト エイヤサのヨイヤ二、アー恋しき人は尋ねてこんせ
  ヤー堺のソーリヤ浜の北の町《ちょう》へ
  堺のコリヤ 浜の北の町へヨイヤ ソー  リヤ    
  トントロトントロトントロトエイヤ コ  ラサのヨイヤ
三、ヤー兵庫の鋳物師《いもし》は鐘鋳《かねいり》の上手
  ヤー息子はアリヤ 刀の方に上手
  息子はホリヤ 刀の方に上手ヨイヤコリ  ヤ
  トントロトントロトントロト エイヤコ  ラサのヨイヤ
 等々と十四節が残っている。

 踊りの構成は音頭、太鼓、鉦《かね》それぞれ一名が囃子手となり三十数名の踊り子(男衆)が車座に踊る。揃いの浴衣《ゆかた》に赤い襷《たすき》、藁草履《わらぞうり》に手甲、投網笠。この笠の周りには五色の紙垂《かみしで》が幾重にも短冊状に貼られ彩り豊か。笠の上には手製の縫いぐるみの猿が円錐形状に数十匹飾られ、愛らしい。踊り納めると飾りの縫いぐるみ猿は、「難を去る」縁起物として遠洋への出漁者や旅立つ友の無事を祈って手向けられる。
 シットロトの語源は、鰹節製造十二工程の、頭切り、生切り、を指して執刀《しっとう》(解体処理)より転じているといわれ、また、「しっかり踊ろう」から転化したともいわれる。「しっとーと」「しとと」情の細やかなさま。しっぽり。しめやか。の古語に由来する説がある。舞姿や、リズム、歌詞が醸しだすものは、後説に近いと思うが定かでない。
 赤銅色に日焼けした顔に、海の男とは思えぬ優にやさしい舞姿が心にのこる。
  なお、このシットロト踊りは、昭和三十七年高知県無形文化財として指定された。                      
            文 津室  儿
            絵 山本 清衣

「声ひろば」「後免」もう一つの由来


 終戦記念日十五日の今朝、高知新聞「声ひろば」の欄に掲載された(「後免」もう一つの由来)の原文を掲示します。  
   
     ・後免・もう一つの由来
 本紙、月曜カルチャー「土佐・地名往来」も、回を重ねること四〇六回、約八年と有余月が経過し、静かなフアンが数多いる。
 さて、去る八月一日、同欄に掲載された【後免室戸にも残る小字】を拝読した。子供のころ、爺婆や近隣の翁嫗に聞かされた、もう一つの由来を記してみる。
 土佐藩初代藩主・山内一豊公が帰藩の折り、室戸沖で遭難しかかった。その時、一人の僧が現われ、船の楫を執り室津港に無事に送り届け、一豊公は難を逃れた。一豊公は礼を尽くさんと、そこここに僧を捜すが見当たらない。僧は津照寺に向かっている、と聞きつけ後を追った。本尊の地蔵菩薩がびっしょり濡れていた。一豊公はこの本尊に霊験を強く感じ、楫取延命地蔵菩薩と名づけた。
 一豊公はこれを機に、この地に海難救護組織を定め、住民をこれに当たらせ租税を免除した。曰く、土地の開墾開拓による免除と異なり、人命救助を行うと云う特異な例である。これが「ごめん」誕生の、もう一つの由来である。
 『ごめん』の名が初見される「八王子宮當家記」に依れば、この集落の男衆は、往昔藩政時代吉良川住民の二、三男が移住して来たものである、と伝え。「土佐鰹漁業聞書」には、しばしば御座船の水夫として召され、藩主の信頼が篤かった、と伝えている。