2011年9月16日金曜日

   室戸の民話伝説 第六話      狐の報恩(おんがえし)




 狐の報恩《おんがえし》


 佐喜浜生まれの杣人《そまびと》(きこり)・喜之助《きのすけ》が羽根村の山へ働きに出掛けた。江戸幕府が滅び、年号が明治に改まろうとする初冬のことであった。その頃、羽根の御留山《おとめやま》(藩有林)には、杉や檜が何百年も樹齢を重ね、巨木が生い茂っていた。
 喜之助が三十路《みそじ》近くになった頃、廃藩置県が行なわれ、土佐藩が高知県と改まった。それは明治四年七月十四日であった。この日より羽根の御留山や魚梁瀬の千本山、近郷の御留山は、すべて明治政府の直轄となり国有林となった。
 喜之助が働きに来た頃は、まだ藩だの県だのと、差配方が定まらず、けっこうもめごとも多かったという。喜之助は、集落の空き家を借り山へ通った。仕事は順調に進み、あと十日もすれば佐喜浜へ帰れることになった。
 三カ月ぶりに佐喜浜の魚が食える、と舌鼓を打ち楽しみ。今日も馬力をかけて働こうと出掛けた。杣の仲間が伐採する区域のことで手違いを起こし、仕事は昼前に終った。
 帰り道、山の中腹あたり。杣道から右手に三間(五・四㍍)ほどの茂みで、獣の啼く声がする。不審に思った喜之助は、声を頼りに近づいて見た。猟師が仕掛けた罠に、子狐が足をはさまれ悲鳴をあげていた。喜之助は「牛倒し」という異名の持ち主。立派な体格で剛力無双であるが、生まれつき動物好きで優しい気性持ち。「おう、なんぼか痛かったろう」と剛力にものをいわせて、苦もなく罠を引きちぎり、子狐を助けた。喜之助は持っていた弁当を与え、元気づけた。「気をつけて帰れよ」と言いながら子狐と別れた。
 この有り様を茂みに隠れ、じっと見ていた親狐が居た。これを喜之助は知る由もなかった。子狐は喜之助の助けがなければ餓死するか、あるいは猟師の餌食になっていただろう。
 それから五日目の夜であった。喜之助が二町(約二百二十㍍)ほど離れた家に、もらい風呂に行った帰り風邪を引いてしまった。三十路近い今日まで、頑健な体で病気らしい病気をしたことが無かったが、弁慶の泣き所、めっぽう風邪には弱い。三七、八度の熱が出れば重病人となる。その夜も布団を被り唸っていた。
 と、すると、いつの間に入ってきたのか、年の頃なら二十歳過ぎの女が「ご気分はいかがですか」と喜之助の側に佇んでいた。女は水で冷やした手拭いを額に置いてくれた。そして朝まで手拭いを取り替え引っ換え、看病をしてくれた。そんな日が三日間も続いた。何処の誰とも分からない女が、宵に来て朝まで至れり尽くせりの看病をしてくれた。お陰で、喜之助はすっかり快くなった。
 四日目の朝、喜之助は女に向かって「大変お世話になりました」と頭を下げて礼を言った。すると、女は手を振って「何をおっしゃいますか、私こそお礼を申さねば、私は子供の命を助けて下さった貴男様に報いようとしただけです」と言って「それではお大事に」と別れの言葉を残して去って行った。その後、二度と姿を現さなかった。
 喜之助は、何が何やらさっぱり分からない。謎の女は人間では無かったのか、その正体は狐だったのか!、八日前に喜之助が助けた子狐の母が、恩人が風邪で苦しんでいるのを知り、女に化けて看病にきていたのであった。情けは人の為ならず、回り回って我が身の為という故事がある。子狐に施した情けは、喜之助自身の為であった。古来より狐は人を化かすと言うが、そのような狐ばかりではないようだ。母狐が子狐の恩人に報いたという、おはなし。

           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣

2011年9月4日日曜日

 「室戸の民話伝説」掲載に付いて

「室戸の民話伝説」の掲載を始めて、早3ヶ月目に入りました。本来であれば、最初の掲載時にお知らせすべきであり、遅きに失しましたが叱責を恐れず記します。
 投稿は原則、月二話とし、1日と15日を予定しています。物語は総て室戸で生まれたものばかりで、借り物ではありません。お子様方に、どうか読み聞かせてあげて下さい。又、珍しい話しがありましたら、お教え下さい。コメントも大歓迎です。忌憚のないご意見を、お待ち致しています。

2011年9月1日木曜日

  室戸の民話・伝説 第五話        観音様と子供たち

観音様と子供たち

 江戸、幕末の文久二年(一八六二)八月初め、とある真夏日のことであった。室津郷・領家《りょうけ》の小さな庵のご本尊・観音菩薩様と、近くの子供たちの間に繰り広げられた、珍妙な出来事の話である。領家と言えば幕末の志士、中岡慎太郎の妻、兼《かね》の生まれ里である。兼は庄屋、利岡彦次郎の長女で、十八歳で慎太郎に嫁いでいる。文久元年には慎太郎が、翌二年には坂本龍馬が土佐藩を脱藩するなど、時代は明治維新への激動最中であるが、片田舎の領家では穏やかに時は流れていた。
 領家集落の人々が深く信仰している庵、観音堂に仏の道を修業している若いお坊さんがいた。その日は室津浦(町)に用事があり、お坊さんは外出した。この庵や領家の家々に泥棒が入った話などついぞ聞かない。平穏な里で外出の時は、どの家も開け放し、表戸を閉める習慣など全くないところ。
 その日、庵の庭で遊んでいた近くの小童《こわっぱ》ら五人が、お坊さんの留守をよいことに、庵へ上がり込み騒いでいた。その内、庵の中央に安置してある二尺位の観音様に目をつけた。一番年上のガキ大将が「あの仏さんを持って川へ遊びに行こうや」と言い出した。観音様を崇《あが》めるものとは知る由もない五人の小童たちは、ガキ大将の言うがままに従《したが》い、観音様を小脇に川へ遊びに行くこととなった。
 庵から少し離れた所に室津川が流れる。その川に庄司ヶ淵という所があり、この淵には猿猴《えんこう》が住み、夕方遅くまで遊んでいると淵に引き込むといわれる。また、夜な夜な白馬が飛びかい、子供らを攫《さら》うという空恐ろしい淵である。夏の夜は肝試《きもだめ》し、昼間は子供たちの絶好の水遊び場であった。その淵で、観音様をあっちへ投げこちらへ放りして遊んでいた。室津浦で用事を済ませたお坊さんが、ちょうどそこに通りかかった。小童たちが大声をあげながら、何やら黒いものを投げ合っている。何ごとならんとよく見ると、これはしたり、庵へ安置してあるはずの観音様を、水遊びの道具にしてもてあそんでいる。お坊さんは、吃驚《びっくり》仰天《ぎょうてん》するやら、腹が立つや、「こらッ!観音様に何をしよるか。勿体無《もったいな》いことをする小童ども、こっちへ来いッ!」と呼び集めて河原へ正座させた。「この観音菩薩は阿弥陀如来の左脇にいて慈悲深く、人々を救うために現われたという仏様である」と観音様の尊いことを長々と諭して、今度こんな悪さをしていたら、罰が当って、目が潰《つぶれ》れてしまうぞと脅しつけた。目が見えなくなるというお坊さんの言葉に、子供たちは震え上がって「もうしません、どうかこらえて下さい」と何度もなんども頭を下げ謝った。
 お坊さんは観音様を元の位置へ安置して、その夜寝所に入った。間も無く、お坊さんは風邪を引いた覚えもないのに、夜半から三九度という高熱が出た。それから二日間高熱続き、看病してくれる人とてなく、お坊さんは弱り切り難渋していた。三日目の明け方であった。坊さんがうとうと微睡《まどろ》んでいると、夢枕に観音様が現われ、「ご坊は、私が子供たちと楽しく遊んでいるのに、子供を叱って、折角の楽しい気分を台無しにした。その報復《むくい》として高熱を出して苦しめた。ご坊が平素仏に仕える善行を賞して、今日から平熱に戻してやる。これからは子供を慈しむように」とお告げを下すとかき消えた。観音様のお告げの通り、その日から平熱にもどった。今までは、子供が庭で遊んでいると、迷惑そうに、大声で追っ払っていたが、それからは子供を優しく慈しんだそうな。 
 子供たちと戯《たわむ》れた観音様は、高さ二尺・木像立像にして、欅《けやき》であろうか木地そのままに、台座は三重蓮華座のお姿で、今なお、領家の庵・観音堂に、外観は総黒漆塗り、内壁は金箔の厨子に収まり、里人の信仰を今に受け続けている。
 昔から日本人は観音好きと言われる。例えば、四国八十八ヶ所寺の内、約三分の一の三十ヶ所寺が観音菩薩を本尊としている。更に、観音菩薩だけに焦点を絞り、三十三ヶ所寺の観音菩薩霊場が北海道から九州路にかけ、各地に七十ヶ所寺に及んでいるといわれる。この事が、如何に観音好きかを如実に物語っている。私たちは、仏教に措ける各宗派の枠を超え、観音菩薩を主人公とする般若心経や観音経や十句観音経に親しみ、そこに、生きる知恵を学び心の拠り所としてきた。観音菩薩は、まさに日本人の心の象徴であると共に、史上最大級の神仏といえよう。
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           文 津室  儿
           絵 山本 清衣