2011年12月28日水曜日

ロード

          ロード
                            
  知人が単行本を刊行し、その出版祝賀の宴に招かれた。
 この新刊には土佐一円で一生懸命に暮らし、地域を生き抜いた人々の姿が生き生きと描かれる。幾筋もの道が示され、今を生きる私達への大きなメッセージである。
 招かれた方々は高知市を中心に九市七郡にまたがる。それぞれの地域に活路を見出したユニークで個性豊かな人たちだ。こうし方々が語り、出版物に描かれる土佐の民俗や古老の体験談、方言などは、暮らしの豊かさを感じさせる。
 晩秋の夜を和やかに楽しませてもらった。
だが、こうした風俗や方言にはすたれてしまったものもある。日々の暮らしの中で二度と見ることも耳にすることも、体験することもできないことに寂しさが募った。 
 息子の運転に身をゆだね、帰路につく。二時間あまりの道中の終り近く、「かもしれないロード」と書かれた交通標語標識を見つけた。何があるか分からないと想像力を働かせ、安全運転を、ということだろう。
 そう、この先に何かがあるかも知れない。この日出会った人々の「道」と重ね、思いをめぐらせる。
 このロードの先、私がかえろうとしているところには、「老子道徳教」の「道〈タオ〉」や「徳〈テー〉」のようなエナジーあふれる街がある、かもしれない、と。
                                        儿
            高知新聞「閑人調」掲載

2011年12月24日土曜日

紅葉前線

            紅葉前線
                       
  大幅遅れの紅葉前線の南下と共に物寂しさが重くかさなる。四季の移ろいに左右される心情は日本人の特質であろう。来る秋も、また来る秋も同じ心持ちへといざなう。
 心の時代と言われて久しい。ここ片田舎の書店にも、心の癒しを著した有名無名作家の著作本であふれる。
 マスメディアの扇動に因るといってしまえばそれまでだが、確かに少子高齢化に伴う地方の疲弊衰退は誰もが感じとっている。格差社会が言われ、世情に乗り遅れた者は負け組の烙印が押される。政治とカネにまつわる為政者の腐敗、拝金主義のまん延は枚挙にいとまがない。心の拠り所を求めて迷うのも致し方ないことである。  
  ただ、人の心は世に言われるほど病んでいるのだろうかと、ふと疑問を抱いたりする。どっこい、心健やかな人々は数多くいると叫びたい。
 この季節、良寛の本が良く売れるという。私も無性に読みたくなる。無私をうたった良寛の俳句に心の広さ、情け深さを感じとるからであろう。
 良寛の辞世の句が浮かんだ。「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」。この句は貞心尼の句と伝えられるが、いずれにしても貞心尼を慈しむ豊か人、良寛のエピソードである。
                                                            儿
  前回、「寺田寅彦と室戸」に続き高知新聞「閑人調」に掲載

2011年12月22日木曜日

寺田寅彦と室戸

           寺田寅彦と室戸
  「天災は忘れた頃に来る」、と伝説の警句を遺した寺田寅彦。その切っ掛けは関東大震災の遭遇に因る、と日記に記されているとか。
 寅彦が中学生のころ、父利正の申し付けに従い、甥のRと共に室戸へ初めて旅をした。明治二十六年、暮れも押迫った十二月二十一日であった。
 旅の目的は二つ。もし運が良ければ、鯨との壮絶な闘いが見られる! あいにく漁は無く、「浜は寂しいほどしずかであった」と記している。
 いま一つは、ご先祖のお墓参りである。先祖は最御崎寺(東寺)の住職を務めた一海天梁《いっかいてんりょう》和尚である。和尚は寅彦の五代前、吉村左七の弟であり、幼少の頃より学問に秀で東寺に入ったという。
 捕鯨の盛漁期は文化年代と云われる。と同時に海難事故も多発。憂う一海和尚が願主を務め、鯨の供養と海難に遭った漁師を祀る拠り所として、お寺の境内に水掛け地蔵を設けた。地蔵群の中に一海和尚が建立した等身大の地蔵立像がある。この地蔵を恩師S先生が、平成四年春のお彼岸参りで発見した。その台座正面に「法界萬霊」と刻み、浄らかな浄土の国へのみちしるべと願ったであろう・・・。
 寅彦がお参りした一海和尚の墓は、東寺住職たちの墓地に今も祀られている。
                                                         (儿)

2011年12月17日土曜日

室戸市・津呂港開鑿のあらまし

室戸市・津呂港開鑿《かいさく》のあらまし

 最蔵(勝)坊こと小笠原一學は、島根県・石見国(銀山)の出身。戦いに明け暮れる戦乱に無常観をおぼえた一學は、三千石の俸禄を投げ打って毛利家を辞任し、法華経の写経に取り組み六十六部衆(廻国聖・日本全国66ヵ国を巡礼し、一国一ヵ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教者)となる。
 最蔵坊が六部姿で土佐に辿り着いたのは、元和三(一六一七)年頃であろうか。室戸岬の岩屋・御蔵洞《みくらどう》(弘法大師空海が大同二(八〇七)年修業し、求聞持法《ぐもんじほう》を修法した、と伝えられる)に住み、室戸山最御崎《ほつみさき》寺(土佐東寺)の荒廃無住を嘆き、再興した。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を目にした。凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、最蔵坊は津呂港の開鑿を自ら企画した。
 
 当時の津呂港は僅かな「釣舟出入りの窪地」であり、最蔵坊は元和四(一六一八)年十一月、藩主山内忠義に願出て許可を得、最初に津呂港の開鑿に着手した。時の土佐藩執政野中兼山は、藩の海路参勤交代の途中に避難港の必要性を痛感していたため、土佐藩を挙げて取り組み、工期は七十一日間という驚異的な突貫工事で竣工した。三年後の元和七(一六二一)年七月に室津港の開鑿に執りかかり、翌八年六月に浚渫し、藩主忠義公を仰ぎ御船入の儀(竣工)を行っている。
 
 最蔵坊の土木技術は、石見国小笠原氏は祖父の代から大森銀山(平成十七年世界遺産登録・石見銀山)の採掘に関与し、直接経営を含め十数年間従事して、銀の採掘運搬や砂鉄の踏鞴吹《たたらぶ》きなど「土木工事と冶金・工具」や銀の積出し港、温泉津《ゆのつ》(島根県の地名)の築港保守に対する知識と経験は非凡なものを有し、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
 
 尚、津呂港・室津港間の距離、僅か四㌖内に二つの港の必要性に付いては、津呂港は港口を東向きに設置、室津港は港口を西向きに設置した。これにより、気象よる波高・風速などの変化に対応し、避難港の役目を三百九十二年
後の今も果たし続けている。

 室戸市の基幹産業・農水産業を顧みれば、農業は約四百年前に入植した崎山段丘、また、二百年前に入植をした西山段丘に農地の拡大を図り、温暖な気候を活かした促成・抑制栽培を確立し、今に至っている。
 漁業では約四百年前に始まった古式捕鯨に辿り着く。そしてカツオ漁、マグロ漁へと変遷を重ねてきた。あたかもそこに鯨がいたから、魚がいたから漁業が始まった、と誰しもが思い、当り前のことだと思っていた。
 その思いが一変したのは、室戸ジオパーク推進協議会の発足による。「時間をかけて成長する付加体形成や地震による隆起、大地の誕生を目の当たりにできるのは世界的に珍しい。そこが室戸である」と海洋地質学者が話してくれた。要は地質の動きによって室戸半島が形成され、たび重なる南海地震に起因する地殻変動が海成段丘を形成した。
 海から続く段丘に遮られた海洋深層水は湧昇流となり表層に富栄養を運び、魚群の食物連鎖を形づくり、一大漁場・宝の海を生んだ。今以て室戸市民は、太古より地質・地形が育んだ大地の恩恵を受け続けている。

 

  海面位置の推移
 永禄八(1565)年 紀貫之の頃・海面は今より、6.0m~8.0m上だった。

 天正九(1581)年 この頃の海面は今より、約1.8m上だった。

 慶長九(1604)年 二月三日午後十時・慶長の大地震 地盤上昇不明 
           津呂・室津で400人死亡 人口の半分

 宝永四(1707)年 宝永大地震M8.4 2.0~2.5上昇
           津呂・室津で1844人死亡

 延享三(1746)年 大地震で加奈木大崩壊 地盤上昇不明

 宝暦五(1755)年 この頃の海面は今より、1m上昇

 天明二(1782)年 この頃の海面は今より、約0.9m上だった。

 寛政元(1789)年 地震あるも津波無し。 地盤上昇不明

 天保三(1832)年 津呂港・室津港津波で破壊する。

 天保八(1837)年 大波(津波?)で津呂港・室津港大破壊

 嘉永六(1853)年 津波のみの記録

 安政元(1854)年 安政の大地震 室戸岬1.2m隆起

 昭和二十一(1946)年 南海地震M8.1 津波3m 隆起0.9m~1.2m

  海面の位置は大雑把に云って、約  m上にあった。  
以上、室戸を襲った南海地震は、両港の浚渫を余儀無いものとした。

                       
                              多 田  運



                             参考文献
                        

                                                                                                  
 最蔵坊小笠原一學について
        山本 武雄

室津港の移り変わりと年表
(1565~1985)

2011年12月15日木曜日

桑の木の三次さん噺




    桑ノ木の三次さん噺
   
 今から約百五十数年の昔、幡多郡・現四万十市中村に中平泰作さん。安藝郡・現室戸市佐喜浜には前田三次郎さんと云う、二人の奇人奇行剽軽者《ひょうきんもの》が、文化文政時代(1804~1829)の頃に生れた。この時代は日本の町人文化が最も栄えた時代であり、両雄は生れるべくして生れた、と云えましょう。
 佐喜浜川に沿って二里半(約10㌖)ほど遡ると、桑ノ木という小集落ががあった。そこには前田三次郎さんと言う奇人奇行の剽軽者が暮らし、民話噺の種を沢山残してくれている。仕事は杣《そま》・木挽《こびき》きが本業であったが、野根山街道の保全・道の修繕や柴苅などを請負っていた。仕事に掛ける実直さは目を見張るものがあり、どの仕上がりも際立ち、誰の目おも納得をさせたといわれる。三次さんが残してくれた、幾つかの噺を披露致します。
    一 猿の真似
 さて、猿の真似の噺は三次さんが未だ若い時のこと、岩佐(岩佐の関所)の山の神、日吉神社の山祭りに招かれ、直会《なおらい》(酒宴)も終り、友達と家に帰る時のことでした。「おい相棒、オラは此処から木から木へと伝って家に帰る。一遍も地に降りずに帰ったら一升買うか!」これに相棒は吃驚《びっくり》したが、
「猿じゃあるまいし、木の上をどうしてオンシが一遍も降りずに家まで帰れるか!」と高を括って、よし一升買う、と賭けに応じた。一升と云うのは酒のことじゃ、と云うが早いか街道脇の椎の木に登った。三次さん「相棒よいか行こうぞ」と合図をして下の木の枝から枝へとまるで猿じゃ。木を揺すってその反動を利用して次々と、木を伝って、ぴったり桑ノ木口の我が家の側の川原へ降り立った。時間にして、およそ一時間余りであった、という。相棒の男、一升賭けてあるので三次さんに遅れまいと、下り坂を生爪《なまつめ》を剥すほど駆け降りたが、三次さんはとうとう地上へ降りること無く、猿の姿、様子をそのままに家に帰り着いた。とうとう酒を一升買わされた相棒。「三次という奴は何をするか分からん奴じゃ」と嘆き、一升賭けに後悔したと云う。
 三次さんは時々猟師もした。その時の話、「猿を鉄砲で撃ったら。弾の当たらん奴は枝からすぐ落ちる。占めたと思って拾いに行ったら、逃げていない。弾が当たった奴は、木の枝にしっかりとしがみつき落ちてこない。そいつが当たっている証拠じゃという。また、朝早く猿が目を覚まして、水を飲まないうちなら、捕らえよいものじゃ。オラ四、五匹捕らえたことがある」この鉄砲の話は本当であろうが、猿の目覚めの水話は眉唾ものであろう、と囁かれた。
    二 三次さんの川渡り
 佐喜浜川は全長四里(16㌖)に足らない短い川だが、源流は野根山街道に至り、高低差は約千メートルに及び水の流れの速い川である。この川に、大正三年(1914)木製の橋が架かるまで、旅人やお遍路さんは大変難渋をした。人家三十軒くらいの根丸集落に木賃宿や遍路宿が十数軒ぐらい生計が立ったのは、この佐喜浜川の出水のお陰であったろう。「三次さんの川渡り」はこの頃の話である。
 何しろ三次さんは変わり者。猪《いのしし》が川を渡る時、脇目も振らず一直線に渡ったのに倣ったのか、三次さんは川を渡る時、対岸に目標を定め、その目標に向って最短距離、一直線に渡る。自分の決めた目標より三十㎝外れてしまうと、元に帰って始めからやり直した。
それで三次さんの川渡りは、一度で済むやら、二度、三度、五度もやり直すやら、全く、いつ渡り終るか見当がつかなかったという。
 そんな三次さんが、町へ用足しに来ていた。川端に来てみると、一人のお遍路さんが川を渡れなく困っていた。持ち前の侠気に富む三次さん『背負って渡してやるぞえ、お遍路さん』と声をかけた。お遍路さんは文字通り、渡りに舟と喜び、三次さんの背中に負ぶさった。背負われたお遍路さん「三次さんの川渡り」という、一癖のあることは知る由もない。三次さんは、お遍路さんを背負って向こう岸へ渡るのには渡ったが、予想外に流れが速く、目標から大分下流に着いてしまった。三次さんは『お遍路さん、降りんとうせよ、妙に気色が悪いきに。もう一遍やり直しをやるきにのし』少し分かりにくい方言であるから、お遍路さんは無論納得がゆかない。無理に背中から降りる分けにもいかない。三次さんが、二度、三度と渡り直しをした。背中のお遍路さん恐れ入って、「もうこのへんで降ろして下され、三次さん、勘弁して下され」と悲鳴をあげ泣き出したと云う。
 異説に、三次さんは、何度渡り直しても目標に到着できず、延々と渡り直した。遍路さんは「もう何処でも良うございます。降ろして下され、と泣きだした」という。そこで三次さんは、遍路さんを背負った元の出発地点に戻り、降ろしたという。
     三次さん噺、次回に続きます。
           
           文 津室  儿
           絵 山本 清衣
                    無断転載禁止

2011年12月13日火曜日

名沖配・竹蔵と銛の達人・銛の丞




  名沖配・竹蔵と銛の達人・森之丞

 寛政十二年(一八○○)というと、伊能忠敬《いのうただたか》が、後に世界に誇る「大日本沿岸海輿地《よち》全図」作製の為、蝦夷地《えぞち》(北海道)に測量に向った年である。その後、文化五年(一八○八)四月、六十四歳で四国に入り、二十一、二、三の三日間、室戸路を測量している。
 この頃、竹蔵は奈良師に生れた。竹蔵は浮津組(他に津呂組あり)頭元《とうもと》・宮地組に属し、何時の時代に何歳で羽差《はざし》となり、沖配《おきはい》となったかはっきりしない。(羽差・沖配とは、古式捕鯨の役割名であり、沖配に正副二名。羽差各船一名、計十二、三名。網方、漕ぎ方総数約三百名で一船団を組織していた)竹蔵が沖配に昇格したのは、恐らく嘉永元年(一八四八)、五十歳頃に沖配になったと思われる。
 竹蔵が沖配に昇格するや、年々歳々大漁が続いた。しかし、追々に老齢に及んだため、土佐藩(この頃、捕鯨は藩営)に後任者を推薦して隠退した。所がその後、不漁が続き藩は困り果ててしまった。藩の鯨方総裁は竹蔵を再び沖配に命じた。ところが不思議と豊漁がつづいた。竹蔵は再び隠退をした。しかし、彼が隠退すると又も不漁となり、如何とも為す事が出来なかった。藩は竹蔵に三度目の復職を促した。しかし、竹蔵の家族や親戚は、三度復職をして幸いに大漁を得れば名誉なるも、万一不幸にして所期の漁事を得ない時は、これまでの名誉も一朝にして水泡に帰してしまう、との理由で強硬に復職を反対をした。しかし、本人竹蔵は敢えて意に介せず、自分が復職をすれば必ず豊漁して見せるであろう、と断然諸人の忠告を退けて復職をした。
 当時老齢に達していた竹蔵は、終日沖に出ることが出来なかった。その為、鯨方は納屋船と云う背子船一艘を新造した。舳船《へさき》には茶筅《ちゃせん》をあしらい、艏《みよし》には左右一対、海の守り神・「龍神と子持ち筋」をあしらい、右舷左舷の両舷に半菊模様と鯨のミホトと乳房(鯨の繁殖祈願)を図案化して描いた。どの背子船より美しい、「竹蔵船・納屋船」がここに誕生した。  
 山見番所より鯨発見の合図を見るや、即刻、竹蔵を納屋船に座乗して現場に急行する事にした。勿論乗組みの水主《かこ》(漁師)たちは屈強な者のみを選択した。そしてその結果は、竹蔵が声明した通り豊漁を三度果たしたのであった。これを藩主は非常に喜び、竹蔵に出府を命じた。竹蔵は城下に行き参殿、藩主の御前にて褒詞を賜り、又名字帯刀を許され、竹蔵に名字の希望あるや否やを下問した。竹蔵は郷里を出るに際に、山下と言う名字を考えていたが、突然の事で、失念してしまい苦慮の結果、自家の周囲の竹垣を思い浮かべ、竹村という名字を希望した。藩主はただちに、竹蔵に竹村と云う名字を授けた。これが竹村家の始祖である。
 明治三年(一八七○)三月、七十一歳の高齢に達し、藩に御暇を願い出し、これを受理され、遂に十月十二日、永年に亙る輝かしい海上生活に幕をとじた。

 他方、森之丞はもと平四郎といった。何処の在所か、その生年については正確なものは無いが、「銛うちの達人・羽差」であったことは、安政五年(一八五八)二月二日の宮地家文書記録にある。「一ノ銛(一番先に投げる銛)、羽差・森之丞、褒美として銀四十匁《もんめ》」を貰ったと伝えている。平四郎を森之丞と改めたのは、浮津組頭元・宮地佐仲から「お前は銛の達人だから、以後、銛ノ丞と改めよ」といわれて改名したとの話である。
 彼は長年羽差を勤め、沖配に昇格したのは明治二年の秋といわれる。
 明治三年正月九日の巳《み》の刻(午前十時頃)三津沖の網代で背美鯨を二頭発見し網を入れたが、惜しいことに二頭とも前網から抜け出した。その内一頭は沖へ沖へと逃げ出した。背子船はこりゃ逃したら一大事と、必死に力漕をつづけて追い回し、大灘《だいなん》(山が見えなくなる沖合)に出て無事に突き捕った。
 その時、一の銛は赤船・沖配・森之丞船。二の銛は下船《しもぶね》・羽差・竹八船。三の銛は羽差・常作船だった。残る一頭は六ヶ谷前の磯近くに逃げたが、とうとう見失ってしまった。しかし、その翌二月十日の正午頃、三津沖で突き止めて凱歌をあげたのである。
この時の褒美として、一の銛森之丞の船へは、吉米一石を、二の銛、三の銛にも、それぞれ六斗四升の褒美米が下された。更に一の銛、森之丞へは酒一斗、鯨肉・目方二貫目を下された。なお、藩主から名字帯刀を賜り、森之丞の功績を讃えた。森之丞が泉井家の始祖といわれる。
 竹蔵と森之丞の二人は、古式捕鯨の申し子であり、一時代を謳歌したと云えよう。しかし、時の移ろいは早く、近代捕鯨の波は浮津・津呂両浦にも容赦なく打ち寄せ、古式捕鯨の終焉《しゅうえん》は間近に迫っていた。
           
           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣

                       無断転載禁止

2011年12月4日日曜日

第11話 岩戸の立岩と大力久之丞



              岩戸の立岩と大力久之丞


 貞享《じょうきょう》の時代。元・上の内集落の、岩谷川に架かる橋の東袂《たもと》に、自然石の堂々たる立岩があり、この石碑には、
「貞享二(一六八五)年乙丑《きのとうし》  右寺道
 従是西寺八町女人結界
  二月吉日立之 左なだ道」
と刻んである。所謂《いわゆる》「女人結界《けっかい》(禁制)の道しるべ」であり、「これより西寺領八町内へは女性は入ってはいけないとの意味である」
 この立岩は、岩戸神社の鳥居から約百㍍余り西方の道から、浜への小道の傍らにあった。平成十四年(二00二)に完成した、国道五五号線・元海岸道路工事のために現在の位置に移され、三度目の移転という。碑文の年号、貞享二年から推し計れば三百二十五年ほど前の話になる。今もなお、石碑の周りは一木一草無く清掃され、お墓のように花が添えられ、奈良師の中村家がまっている、と言われる。
 この「岩戸の立岩」に纏《まつわ》る逸話は色々様々に語り継がれている。
 むかし貞享の頃、奈良師に「中村久之丞」という漁師がいた。ある年の秋、岩戸八幡宮の奉納相撲に挑んだ。かかっていってもかかっていっても負けてばかりで、地団駄《じたんだ》踏んで悔しがった。もっと力が欲しい、もっともっと力を、と来る日も来る日も願っていた。
 そのような久之丞の様子を見かねた、隣りのお婆《ばば》が「久之丞や、そんなに力持ちに成りたければ、金剛頂寺・西寺の金剛力士・お仁王様に願《がん》を掛けるが良い。きっと力を授けてくれよう」と教えてくれた。
 久之丞は喜び、早速三七、二十一日間の願を掛け、丑《うし》三《み》つ時《どき》(午前二時から二時半)にお参りを続けた。遂に結願《けちがん》の日を迎え、お寺に登って行くと、山の上から大きな岩が幾つも幾つも落ちてきた。久之丞はその岩を受け止めては側に置き、行く手を塞《ふさ》ぐ岩を片付け片付け、道を開きながら仁王様の前に佇《たたず》んだ。久之丞は仁王様に「今夜は結願の日でございます。どうぞ力をお授け下さい」とお願いをした。すると、仁王様が笑顔でおっしゃった。「力はすでに授けてあるではないか。気が付かぬか」「お前は、岩を片付け、道を開き、ここに来たではないか!」と笑顔を重ねた。それに気付いた、久之丞の喜びは一入《ひとしお》であった。
 久之丞は力を授かった証に、形の良い岩を肩に担ぎ帰ることにした。途中に、黒い牛が道に長々と寝そべっていた。その牛を一跨《ひとまた》ぎにできた。これもご利益の証かと驚きながら、一休《ひとやす》みと、肩の岩をひょいと道端に置いた。暫くの間に身体も安まり、さて帰ろうと、岩を担ごうとしたがびくともしない。
岩をその侭に家に帰り、座敷に上がると根太《ねだ》が折れ、箸を握ると粉々に、手にする物がすべて損なわれる始末。有り余る力に困った久之丞は、再び仁王様に「どうぞ、向う倍力(相手の倍の力)の力に、かえて下さい」とお願いして、直してもらったという。久之丞は娘・「おなか」にも力を分け与えたという。
 久之丞が道端に置いた侭の岩が「岩戸の立岩」と伝えられている。その後、久之丞は大阪の港で北前船の船員と大喧嘩をし、船の帆柱を振り回し相手方数人を海に叩き落とし、勇名を馳せた。後《のち》には、五十集船《いさばせん》(貨物船)の船頭になり、神戸・大阪に行き、五人抜き、十人抜き相撲をたやすく果たし、向うところ敵無く、誰もが久之丞の剛力に目を見はったという。
 また、こんな話もある。
 あるとき、大阪の豪商鴻池《こうのいけ》家に鯨肉を届け、明日は帰ろうと準備をしていた。その矢先に、空は暗がり時化模様《しけもよう》となった。二日ほど足止めを喰らった久之丞は、浜辺をぶらぶらと歩いていた。すると、五、六人の男が、がやがやと何かを掘っている。何を掘っているか見ていたら、大きな錨がちょこんと首を出していた。「そりゃ、どうしているぞ」と久之丞が聞いた。「どうしている!、見たら分かるだろうに。昨日の時化で埋もれた錨を、掘り出しているのだ」「これだけ集《たか》らねば、掘り出せんのか」「これが一人で、引張り出せるか」「ほんなら、おらがやってみようか」「おお、引張り出せたら、お前にやるわ」「よし、約束したぞ」と言うなり、久之丞は手を錨にかけると、いとも簡単に、スポッと引き抜いた。皆が目を丸くしている間に「約束じゃ、もらって行くぞ」といって、軽々と肩に背負い、砂浜を歩きはじめた。所が、妙に錨が揺れ動く、と思ってふり返ると、錨の爪に五人がぶら下がっていた。「どうぞ返してくれ。わしらは掘るのに雇われている。これを取られたら、仕事にならん」と泣きを言った。「そうか、そしたら返してやる。ちょっと、退《ど》いていろ」と五人を遠ざけておき、錨を二、三度振り回して、砂浜に投げ込んだ。元よりよけいに、埋もれてしまった、という。
 久之丞から力を分けてもらった娘、おなかの話。『娘・おなかは、西下町の漁師の女房になったそうな。亭主が沖から濡《ぬれ》れて戻る。おなかは亭主に盥湯《たらいゆ》をさせていたら、夕立がきた。「おい、おなか、雨が降ってきたぞ、夕立ぞ」「まあ、慌てず静かにしてていて下さい」と言ったかと思うと、亭主ごと盥を持ち上げ、どっこい、と家の中に入れたという。 今に、この家の子孫は、みな力持ちだという』
 筆者が子供の頃は、みんな久之丞に肖《あやか》りたく、今風に云えばチッシュを口に含み、唾液と絡ませ紙団子を作り、その紙団子を東寺や西寺の仁王様に投げつけ、くっついたところから力を授かる、と云って良く遊んだが、今その風景は見当たらない。 
                          
                          文 津 室  儿
                          絵 山 本 清衣
                無断転載禁止


2011年12月1日木曜日

室戸の民話・伝説 第10話       菜生谷の蝦蟇


菜生谷の蝦蟇 


 むかしもむかし、室戸岬町が津呂村であったころの話です。津呂村は耕作地が少なく、蔬菜類《そさいるい》の栽培を菜生《なばえ》地区に頼っていました。菜生地区は、春は菜の花からとの古事に倣い、年中温暖で菜の花が絶えない土地であります。その菜の花に由来して生れた地名が、字《あざ》・菜生であると言われます。縁先では、昔から初老たちが草履《 ぞうり》作りにいそしみ、製造が盛んであった、と聞きますが今この風景は見られません。
《あざ》 この菜生谷の近くに、大層腹の据わった孫太郎という猟師が住んでいました。むかしのこの辺は人家もまばらで、田畑の周りは、笹藪が多く昼間でも淋しい所でした。
ところが、田畑の作物が何者かに荒らされ始めた。里人は、「何者か、突止めなければ」と困り果ててしまった。里人は頭を突き合せ相談を重ねた果てに妙案を得ました。鉄砲撃ちの名人・孫太郎に頼み込むことだった。
お人好しで、物怖じしない孫太郎のこと、即座に「おらが仕留めてやろう」と、気前よく引き受けてくれた。
 孫太郎は、それからと言うもの昼間は猟に、夜は畑のそばに番小屋を建て、見張りを続けた。
 ある日のこと。孫太郎はいつものように猟銃を肩に掛け、鼻歌まじりで陽気に菜生谷の奥へ猟に入った。孫太郎がひょいと振り向くと、生茂る雑木林の暗がりから、大《おお》鍋釜《なべがま》を被った正体不明のものが、目を凛々《りんりん》と輝かせてこちらを見ていた。孫太郎は咄嗟《とっさ》に「これは化け物じゃ、うっかりすると、こちらがやられる」と思った瞬間に鉄砲をぶっ放した。確かに手応えがあった、が姿が見えない。「えらい、すばしこい奴じゃあ」と、いぶかりながら探し回る。陽は傾きはじめた。探し切れぬまま里に下りてきた。
 いつか年も暮れ、大晦日の晩の事であった。「明日は正月、ゆっくりするか!」と、久しぶりに番小屋を離れ、我が家で晩酌をちびりちびりと飲んでいた。孫太郎、どうした事か番小屋が変に気にかかる。ほんのりと頬を桜色に染めていたが、ひょいと猟銃を肩に掛けると、通い慣れた夜道を番小屋に向かった。空は星が満天に輝く夜であった。
 番小屋に近づくと、何者かが囁く声を耳にした。孫太郎は足を止め、雑木に身を隠した。雑木の葉陰が孫太郎の姿をすっぽりと覆い隠していた。耳ざとい孫太郎の耳に『今夜は大晦日の晩じゃ、孫太郎は来まい「鍋・釜」を脱いで、踊ろう、踊ろう』と歌っているのが聞こえた。
 孫太郎は目をしばたたせて、じっと一ヶ所を見つめた。確かに畑の真ん中で異様は者が踊っている。孫太郎はそれが何者かぴんと頭に浮んだ。「山の中で遭った、あれじゃ」ほろ酔い加減とはいえ、腕自慢で太っ腹の孫太郎のこと、銃を構えた。幸い至近距離だった。
一発の銃声と同時に、天にも届く悲鳴があがった。その声は里人の耳にも届いたという。「当たった」と、思った瞬間に孫太郎の前をふっと何者かが走り去った。再び薄気味の悪い闇の静寂に返った。
 眠れぬ夜を過ごした孫太郎は、元旦の朝である、が身を起こすが早いか畑に向かって突っ走った。踏み荒らされた畑の真ん中には、一つ、血のしたたる鍋釜が転んでいた。
 孫太郎は、血の後を追った。血は菜生谷の奥へ奥へと続いていた。すると突然、目の前に大きな洞穴が立ちはだかった。洞穴は暗く何も見えない。数秒か!、数分か!、後に孫太郎の目もやっと暗闇になれた。孫太郎の目前には、見た事のない巨大な蝦蟇《がま》(がまがえる)が死に絶えていた。
 猟師・孫太郎は、生き物を殺生する生業《なりわい》である。仕留めた獲物に畏怖畏敬《いふいけい》の念を忘れていなかった。蝦蟇のために、小さなお堂を作り、御霊《みたま》を祀ったと伝えられている。
 その後の菜生地域は、田畑も荒らされる事なく、平穏が続き里人は孫太郎に感謝の気持ちを持ち続けたと言う。現在の菜生地域には、鈴木孫太郎神社が祀られている。ただ祭神はこの物語の主人公・猟師の孫太郎とは関係がない、とも言われている。 今、その真実を知るすべは何処にも見つからない。

                              文 津室  儿
                              絵 山本 清衣
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