2012年2月26日日曜日

泥打ち祭り

今は昔の話あり。吉良川町・西の川をさかのぼること三里、朴(ほお)の木と呼ばれた小集落があった。
 ある年、疫病がはやり難儀した。村人は相はかり、田を御田八幡宮に奉納した。すると霊験あらたか、たちどころに治まった。神田の泥が無病息災の妙薬となり、村人を喜ばせた。早乙女が若衆に泥を打ちかける風習はここに始まった、という。は昔の話あり。吉良川町・西の川をさかのぼること三里、朴(ほお)の木と呼ばれた小集落があった。
ある年、疫病がはやり難儀した。村人は相はかり、田を御田八幡宮に奉納した。すると霊験あらたか、たちどころに治まった。神田の泥が無病息災の妙薬となり、村人を喜ばせた。早乙女が若衆に泥を打ちかける風習はここに始まった、という。
 白い手ぬぐい、赤いたすき、紺絣のいでたちで、田植え歌をうたいながら苗を植えていく。早乙女たちの舞うがごとしのしぐさはあまりにも美しく、われを忘れ見とれる若い笹飛脚が一人いた。
 それに気付いた一人の早乙女、八人の早乙女に目配せし、突然、飛脚に泥打ちを仕掛けた。驚いた飛脚、身をかわしたがかわし切れない。全身に泥を浴びてしまった。御上の御用を務める身。泥を打ちかけられ、汚辱されてたとあっては申し開きが立たない。小太刀を抜いて一人残らず殺し、自らも切腹を果たした。
 これより泥打ち祭りは途絶えたが、村人は田の中にほこらを建て九人の霊を慰めた。朴の木の末裔たちは、永い時を経た今もなお、お祭りを続けている。
                                   儿
                高知新聞「閑人調」掲載



2012年2月18日土曜日

美人の郷

          美人の郷
  この室戸近在には、不思議なほど美人がおらん。色が黒うて振舞いにも優しげなところがない・・・これにはわけがある、と始まる当紙の企画「県下の古老の話」特集のコピーを恩師が届けて下さった。県内各地に伝わる話しを紹介する本紙の企画「古老の話」で、この回の紙面には父の姿であった。美人の郷を書こうとした矢先のこと、大きな縁を感じた。
  昔は室戸に美人が多かった。東に三津坂のおいちさん、南にビシャゴ巌のおさごさん、西に新村不動巌のおみやさん、それぞれ時代は少し異なるものの、いずれがアヤメかカキツバタ、と競う例え人《びと》がいないほど美人の郷であったという。
  この三人、美しいがゆえの苦しみを背負っていた。それは、もてすぎもてすぎて、もてすぎること。困り果て苦痛に耐え切れず、春霞のなか自ら鬼籍の船に乗ってしまった、と伝わる。遺書にいわく「この苦労は私一人でたくさん。今後、この土地に美しい娘は生まれてくださいますな」と。
  「あかりをつけましょ  ぼんぼりに  お花をあげましょ  桃の花」。桃の節句のころには、明るい園児の歌声がとどいてくる。雅びやかな雛祭りの陰に、こんな悲しい物語が隠れていた。
                                                        (儿)
               高知新聞「閑人調」掲載


   

2012年2月17日金曜日

十三・待ち飯 十四・ある者はしよい 十五・大野家源内槍掛けの松



    十三 待ち飯
 三次さんの住む桑ノ木に行く途中、胴ヶ谷があり、その上《かみ》に潜裏《ひそうら》がある。その潜裏では、二、三反の田畑を耕して暮らす一軒家(宮本家)があった。そこのお婆《ばば》は、近郷近在に聞こえた美声の持ち主で、佐喜浜八幡宮の秋祭りには欠かせない存在であった。頭には白い布をのせ草履《ぞうり》ばき、神輿《みこし》の追従組の先頭に立って、神歌(神徳をたたえる歌)の音頭をとった。『あたもせの けふとする日は 七里や八里 神子《かみこ》(巫女《みこ》)に付てわたす』小柄だが、良く通るお婆の美声に郷方の神子は、後に付き唱和した。そのお婆の名前を知らずとも「潜裏のお婆さん・アタモセのお婆さん」の愛称で名を馳せていた。
 伝わるに、約二百年前の寛政年間に佐喜浜八幡宮の大太鼓をつくった。材料は胴ヶ谷から大きな欅《けやき》を伐り出し太鼓の胴を作った事から、潜裏は「胴田本村」と呼ばれ、祭り当日は、御膳頂戴《ごぜんちょうだい》(神より賜る料理)の時には、他の集落や町のお偉方《えらがた》より一番先に膳が据えられたという。そのような習わしで、潜裏の者が神歌を歌わないかぎり、神輿を出す事が出来なかったそうな。
 潜裏のお婆さんは元気で働き者、桑ノ木から浦(町)へ駄賃馬曳きをしていた。ある時、通り掛かりに三次さんの家に立ち寄った。三次さんは少し遅い朝食を摂っていた。その食膳は、黒い麦飯に塩の采《さい》(副食)だった。お婆は「三次さんよ、そりゃ塩の采じゃいか、辛うて喰えまい。これから浦に行くきに、干物でも買ってきちゃらあ」と云って、三次さんの家を後にした。桑ノ木から二里半の下流、佐喜浜の浦に下り仕事をすませた。お婆さんは約束の干物を買って、桑ノ木に帰り着いた頃はもう夕暮れ時であった。早速、三次さんの家に立ち寄った。すると三次さんは、朝飯時のままの格好で座っていた。お婆さんは「三次さんよ、晩飯を喰いよるか」と、問いかけた。すると三次さん「いいや、お婆が干物を買ってきちゃると云うたきに、待つちょうったがよ」と、答えた。これには、潜裏のお婆さんも開いた口が塞がらなかったそうな。
 今は、三次さんの前田家も宮本家も、阿波の現・海陽町に移り住み、両家の屋敷跡には石垣や柚子《ゆず》、柿の木や梅の木がよすがを残し、潜裏も桑ノ木にも誰一人住んでいない。
   十四 ある者はしよい
 三次さんの伯父さんに、小銭を貯えている人がいた。ある歳の大晦日の晩に、三次さんがお金を借りにいった。三次さんの話しを聞いていた伯父さんは、小銭の入った大きな箱を出してきて「この銭は来年の米代、これは采代、これは着物代」などと、来年入り用の銭勘定をして、それぞれの品物の名をつけた箇所へ積み上げていった。伯父は「三次よ、ある者は都合がえいきににゃ」と云って、銭箱を仕舞い込んでしまった。そのような訳でお金は借れず、すごすごと帰ってきた。
 明けて正月元旦。三次さんはご来光を拝み、段集落へ年始の挨拶に向った。その途中、田圃《たんぼ》の畦道《あぜみち》で、伯父さんに出会った。三次さんは突然伯父さんに飛び掛かり首を絞めた。伯父さんは「三次、三次、元旦早々どうしたら」と目を白黒させたが、なおも、じわりじわりと締め上げた。伯父は「誰ぞ来てくれー、三次が、三次が」と、呼び掛けるが、通りかかる人はいない。三次さんは、畦道から雑木林に突き転がして、こう云った。「伯父さんよ、力のある者は元旦早々から間に合って、都合が良いきにのう」と云って、振り返りもせず段集落に向った。その後、伯父さんは三次さんに一言も自慢話をしなくなったという。
   十五 源内槍掛けの松
 佐喜浜漁港の上に、かつての佐喜浜城主大野家源内左衛門貞義が長宗我部元親と戦う為に本陣を構えた。その折り、槍を松の枝に掛け英気を養った由来の松があった。
 この噺は、三次さんが五十歳、文久元年(1860)のことで、源内が槍を打ち掛けて、二百八十数年が経ち老大木となっていた。松は港の上に大きく枝を張り、一幅の名画の趣をかもした。親しみを憶えた枝を伐るは忍びないが、船の出入りに支障をきたした。枝を落とさねば、と話は出るものの伐り人おらず、誰もが尻込みをした。誰云うとも無く、白羽の矢を三次さんに立てた。
 数日後、三次さんが浦(町)に塩を買いに来た。これを幸いと相談を持掛けた。三次さんは気安く「伐った木が港に落ちるが、かまんか」と、問う。「かまん、落ちた枝は船で外に引っ張り出すきに」三次さん「ほんなら」と云って、次の朝、大きな鋸《のこぎり》を持ってやって来た。松の木にするすると登り、「この辺で良いか」と聞く。誰かが「えい」と応えた。三次さんは両足を踏ん張り、股の間に鋸を当て挽《ひ》き始めた。さすが杣人、忽《た》ちまち枝を伐りはらった。身軽さはもとより手際の良さ、見事な仕事ぶりに、見物人は皆唖然としていた。伐り終えた三次さん、曰く。「昼までに、岩佐に行かにゃ」と、一言残して風の如く消え去った、という。
 この松は昭和六年(一九三一)の時化《しけ》で倒木し、往時を偲ぶよすがは今は無い。 
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。
                             文 津 室  儿
                             絵 山 本 清衣
                 無断転載禁止

2012年2月8日水曜日

漁招き

         漁招き一
  お鼻の(岬)春は早い。日溜まりに身体をあずけると、まどろみに誘われた。
  この町の生業は藩政時代初頭の捕鯨に始まり、鰹・鮪漁へと移り変わった。
捕鯨は壮絶な鯨との戦いのほか、時に荒れ狂う海との闘いであった。生業がいかに過酷であるか、「板子一枚下は地獄」との俗諺が物語る。
 今となっては隔世の感のある当時の有様は、動力も無い、通信手段も無い、ひたすら人力と組織力、は彼らの最善の工夫の結果であろう。だからこそ、命を張るためには、宗教も必要だった。社寺の存在や祭りは、組織にとって生業の盛衰を神仏にゆだねる気持ちだと感じとる。
  旧正月を済ませ、初漁に向かう船に出会う。龍宮神社の沖で右回りに三度廻った。航海の安全と豊漁を祈願する習わしである。
 夫を送り出した妻たちは、お鼻の龍宮神社へお参りに行く。拝殿に立った妻たちは、赤い腰巻きの裾を絡げ、大切な物を少し見せていわく、「龍宮様、龍宮様、家《うち》の人たちに大漁を授けてくれたら、今度は全部見せちゃる」といって龍宮様に掛け合う。龍宮様も好き者か、これに応える。妻たちは、喜びをお礼参りに添え約束を果たす。
  まどろむなか、今に続く俗習が混在した。
                                                         (儿)
              高知新聞「閑人調」掲載

 当地では、室戸岬のことを敬愛を込め、お鼻といいます。今は廃れかけていますが、強いて使いました。
                      

2012年2月2日木曜日

八・金蘭 九・柿の木 十・夏冬 十一・腕立ち 十二・万との腕くらべ



    八 金蘭

 杣人の三次さんがある日、桑ノ木山で黄葉の寒蘭を見つけた。喜んだ三次さん早々に持ち帰り、野根山杉の古株に植えた。やがて桑ノ木集落に晩秋が訪れ、黄葉の寒蘭に黄金色《こがねいろ》の花が咲き、香りが集落に漂った。佐喜浜は、県東部一、二と云われる寒蘭の自生地である。さすがの人々も、この様な見事な蘭は見たことも無く、これこそ伝説の金蘭だ、ともて囃《はや》し話題となった。
 このころ、土佐藩主・山内の殿様が野根山越しに東部の巡視に来る運びとなった。佐喜浜の庄屋・寺田は、殿様の長旅をお慰めしようと、献上品をあれこれと考えあぐねた。やっと思い付いたのが、三次さんの金蘭であった。早速ことと次第を三次さんに話した。すると、お人好しの三次さん、二つ返事で承知した。
 桑ノ木から野根山街道に登った所に「小野《この》お茶屋の段」という広場がある。(注「お茶屋の段」とは、大名行列が休息する場所で、野根山街道沿いには数ヶ所あった)
 さて、殿様の一行が小野にお着きになり、しばしのご休憩となった。そのとき、庄屋は恐る恐る金蘭を献上した。すると「おお、これが噂に聞く金蘭か。まことにもって見事じゃ」と、いたくご満悦され、金百両を下賜《かし》された。いくら珍しくとも、たかが山の草。それが百両という大金に化けてしまった。佐喜浜の人々は、この話しで持ち切りとなったが、意に返さない三次さん、一言、「殿様も大層な無駄遣い者よ」と、ちくりと皮肉った、という。
 浦人が「三次さんよ、あの金蘭は何処にあったか」と、尋ねる。無欲な三次さんは「桑ノ木の奥の谷の、南斜面に枯れた栂《とが》の大木がある。その根元だ」と教えた。それ行けとばかりに、欲の皮の突っ張った連中が行ってみると、栂の枯れ木がある。しかし、白骨林というべきか、無数に枯れ木が立ち並び、どの木の根元なのか、さっぱり見当がつかない。そこで、引き返してもう一度聞く。三次さんは、ここぞとばかりに「知れたことよ。あの蘭を採った時には、枯れ木の雲の梢に一羽の鷹《たか》が留まっていた。その鷹が目印よ」といって、煙に巻いたという。
   九 柿の木
 桑ノ木集落のすぐ上流に、段と言う集落がある。そのまた上に、段ノ上《かみ》に一軒家があり、その墓地の側に今も大きな柿の木がある。この柿は三次さんが植えたものだという。段に早い秋が訪れると柿の実が熟す。その熟柿を狙って、百舌《もず》が来ては食い散らかす。三次さんにしてみれば「せっかく儂《わし》が植えた柿を、百舌ごときに食われては沽券《こけん》に関わる」とばかりに、刺し鳥黐《とりもち》や釣り針に夜盗虫《よとうむし》、小さな蛙を餌に仕掛けて捕っていた。この頃から、日本一の百舌捕り名人と云われ始めた、という。   
   十 夏冬
 三次さんの奇人変人ぶりの一つ。当り前であるが夏は陽射しが強い。そこで三次さん、綿入れの長襦袢《ながじゅばん》に長ズボンをはいて陽射しを避けた。冬は陽射しを全身に浴びようと、薄い袢纏《はんてん》で手足や胸をはだけて暮らしていた。健康に気を使った人、と云えばそれまでだが、自然児三次さん、躍如の所以たりや。
   十一 腕立ち
 三次さんは、薪割りの名人だった。石を当《あ》て木がわりに百掽《はえ》の保佐《ぼさ》(雑木・燃料木)を割った時、石の当て木はわずか三ヶ所の傷を残すだけでだった、とか。   
   十二 万との腕くらべ
 三次さんの所へ、阿瀬郷《あせご》の大男の万《まん》が、保佐の割り競べをしにやって来た。時間を定めて始めたが、割った保佐の数は同じであった。万「流石《さすが》に噂に登る三次さんじゃ。儂と引き分けるとは大したものよのう」三次さん「いいや、この勝負は儂の勝ちじゃ」といった。良く見ると、保佐を割るのに、万は石を当て木がわりにしていたが、三次さんは木を当て木にしていた。その当て木が半分切れていた。三次さんは「見てみよ、儂は木の当てを半分切っているぞ。その分だけ、儂の勝ちよ」と嘯吹《うそぶ》いたという。
 「阿瀬郷の万」について、阿瀬郷とは、野根川最上流、県境の平家の落人集落である。ここに、杣を生業とする働き者の夫婦が居た。この二人の間には子供が授からない。それを見かねた久尾集落の村人が、阿瀬郷の氏神に御籠《おこも》りすることを進めた。氏神は熱心に祈願する夫婦に応え、男の子を授けた。夫婦は、その子を万と名付けた。万は健やかに育ち、二、三歳にして野山を駆け巡り、川に遊び、十二歳にして父の仕事をこなした。成長した万は、父母に別れの言葉を残し森へ消えた。
 再び姿を現した万の姿に夫婦は驚く。全身毛むくじゃらの大男となっていた。万は家を出た経緯《いきさつ》を語る。「あのまま父母のもとで暮らしていては、人を喰っていた。だから森へ入り苦行を重ねた、と告げた」が、万の性情は変わらなかった。父母が病に臥せると、家の前に薬草が山と積まれていた、という。「阿瀬郷の万」の話は、四国内に広く伝わる。
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。           
                          文 津 室  儿
                          絵 山本  清衣
 

2012年2月1日水曜日

鬼のおしえ

          鬼のおしえ
 若いヒイラギの小枝にイワシの頭を添え、鬼門や玄関の戸袋にさして邪気を祓う。節分の定番である。
 しかし待てよ、我が町は漁師町。少し前まで、磯で日干しになったバラブク(ハリセンボン)や、鋭いとげが沢山あるホネガイをかざしてあった。近ごろとんと見当たらない。地域性が廃れた。鬼も頭をかしげる。
  今夜はどの家も年男や家長が豆をまく。「福は内、鬼は外」と、おうむ返しに歌う。和やかなひと時が流れよう。
 本来、家中は鬼ばかり。福は居なかった。先ずは福を呼び込む。鬼を追い払う。払えども払えども、鬼は出て行かない。どうりで我が家は鬼ケ城。
  豆に打たれ哀感きわまる鬼たちを「鬼は内」と、優しく迎える風習が山形市の旧家にある。また、東京都小平市では「鬼の宿」なる所があり、さまよう鬼たちを一手に引き受け慰める。奈良県吉野山の蔵王堂では「福は内、鬼も内」と言って全国の悪鬼や邪鬼を集め、仏法の功徳をもって改心させる、という。
 鬼を滅ぼさず情けをかける心根は、日本人の心情であろう。鬼にまつわる行事は各地にわたる。鬼がいう。「腹立てば  鏡を出して  顔を見よ  鬼の姿がただで見られる」といった。 俗諺に教えられた。そう、今夜から福の笑顔に倣おう。
                                                      (儿)
              高知新聞「閑人調」掲載