2012年8月17日金曜日

室戸の民話伝説 第28話 九死一生の馬太郎


                         絵 山本 清衣


   九死一生の馬太郎
 室戸岬町津呂・王子宮の拝殿に、さほど大きくはないが、一枚の絵馬が奉納されている。その絵馬には「維持明治十六(一八八三)年旧七月十四日当時七歳、九死一生ヲ得シ、王子宮ノ崇高ナル霊験ニヨルヤ」と、報謝文が書き込まれている。
 この噺は、今から約百三十年前の出来事である。 王子宮の「宮ノ瀧」のすぐ東側に中谷と言う家があり、そこに当時七歳の馬太郎という孫がいた。この馬太郎は三歳のとき両親と離別し、ただ一人祖父母のもとで育てられていた。
 今でこそお宮の周りは、数百軒の家が建ち並び賑わいを見せているが、その頃は六、七軒の家があるだけで、周りは田圃《たんぼ》ばかりで、ひなびた風情であった。 
 明治十六年、夏も盛りの土用であった。浜辺は土用波と台風の余波が重なり合い、かなり高い白波が打ち寄せていた。漁師のお爺さん、今日のような波が高く船を出せない日は、岬の鼻へ磯釣りに行くのが常だった。この時、釣り餌を少々馬太郎に残してやることを忘れなかった。岬が波立つと木《こ》っ端《ぱ》グレが良く釣れる。そのグレを素焼きにして、素麺の出汁《だし》を摂れば絶品である。幼い馬太郎も大好物である。
 馬太郎は隣り近所の遊び仲間とお宮の下を磯伝いに、藁草履《わらぞうり》を湿《しめ》しながら浮き浮きと浮き立つ気持ちを抑えながら、ショウクロ巌に立った。ここが木っ端グレを釣る定位置である。早速、釣り糸をたれた。次々と釣れ、予想以上の釣果である。その釣果に、唯々かまける馬太郎は、時として岬の巌に打ち寄せる大きな白波を見定めていなかった。
 アッと言う間の出来事だった。大波がショウクロ巌と馬太郎達を、一瞬に呑み込んでしまった。友達二人は陸《おか》に打ち上げられたが、馬太郎は渦潮に足を取られ沖へ沖へと流されて行った。
 陸に打ち上げられた二人は、泣きながらも機転を利かせ、「大変だ大変だ、馬太郎が流された」と、叫び続けた。宮ノ前や新町の人々が、わいわいがやがやと騒ぎ立てながら、助け船をどのように出すか、と口々に浜辺に大勢集まった、が波は次第に高く荒く遠くへ流される馬太郎を助けるすべが無かった。
 新町の松井のオンチャンや松下・大西・山村のオンチャン等は何とか助けようと、うけ(鰯《いわし》の生簀《いけす》の浮け木)を担ぎ出し内港へ走った。伝馬船《てんません》を早速漕ぎ出し、外港へ出ようとしたが、波が高く船は後ずさりするばかり、仕方なく引き返した。浜辺の人々から「たまるか、かわいそうに」と、言う声が囁かれた。
 馬太郎の祖母は若い時から非常に信心深く、今日も必死で王子宮と金毘羅宮に馬太郎の命乞いの祈願を続けた。どれだけの時間が経ったろうか。不思議な事に馬太郎の姿が、ショウクロ巌の西方のカンゴ巌の近くに現われた。人々はまさか生きている、とは誰一人信じなかった。幸いカンゴ巌の陸は、小さな入江のようになっていて、いつも、外の磯より波が静かな所だった。馬太郎の姿を見とどけた若い衆二人は、海に駆け込んで行き引き上げた。馬太郎は、あの大きな波の中で海水ものまず、至って元気であった。人々は王子宮と金毘羅宮の両祭神が、馬太郎を両脇から抱え上げていたからだ、お婆の信心が両祭神に届いたからに、ほかならないと讃えあった。

                             文  津 室   儿
          

2012年8月1日水曜日

一木神社・一木権兵衛


一木権兵衛翁肖像
       画 山本茂一郎

           高知県 土佐国安芸郡.室津村..北町鎮座
               無格社   一 木 神 社  
 祭神 一木権兵衛.藤原正利霊
 由緒 正利は国主山内氏の家臣也。慶安中.大守忠義公幕府に請い、室津港を鑿開する。寛文元(1661)年辛巳.始めて正利以て役を菫めさせる。既に歳月を経て、将に功を奏せんとするに至ったとき、港口に於いて高さ凡八・九尺、(2.4m2.7m)長さ拾間(18m)余りの巌ありて、力を尽すと云えども取り除く事が出来ず、この事を更に国家老・野中良継に乞い三千人の増夫を得る。日々督責、槌鑿「ツチとノミ」を以て推破するけれど、依然として砕けない。却って槌鑿を毀損するのみである。
 正利退いて以為く恐らくは、これは神石であって海神の怒りに触れるものであるとして、一日、齊戒沐浴して天神地祇「テンジンチギ」に誓って云った。
この事業を能く竣工させて頂ければ命を捧げる。と、翌日になり終に推破する。碎痕より血迸り出て、数千人大朱に染み水為に赤し、寛文年より延宝七(1679)年に至り、此れ約十九年にして功を奏す。
干時、延宝七(1679)年六月十七日卯刻(午前6時頃)正利六十三歳、於港上、自殺し命を以て天地神明に報いると云う。請人其の忠切を感じ、則その辺に葬り、高さ八尺(2.4m)の碑を立てる。港柱として崇拝する。
明治四(1871)年に至り、一木神社と齊き明治九(1876)年社殿を建設する。

室戸港忠誠傳 上下二冊     山田長則 集   桂木素庵 辯
 義人大意
 古語に日、義を見て爲さるは勇なし。身を殺して以て仁義なおなりと聞いた事を爰に書き残す。
抑々吾が南海、土佐の国に豪傑の侍あり一木権兵衛正利とて、開闢以来、一国独歩の忠臣義臣、去る頃、安芸郡室戸港普請の節、一命を捨て遂に其の功を見る。
其の忠烈普く万民の知る所にして、武名千載に輝き日月とひかりを競へり、夫れ賢君有れば、必ず賢臣有ると聞く。末代までも国の誉れ、武道の盛り、十分の時を知る。吾是を唐土に求める。更にたぐいなし。鉄石肺肝、武士の根元なり。抑々本朝、中世以来東西南北、乱世の間けなげなる働きも大分あり。
智勇兼備の士もあまた多けれども、忠臣義士と名指して云えるかくの如きは稀なり。其の功績普く万代に貫き、国の大用諸民の助け南海往来の舟船時として悪風に至りては、此の港に命をたのみ、今より以後覆溺の災いをのがれる人多かりし。其の土地の当繁栄も日々新たにして亦日々新たなり。
是ひとえに義人の肺肝を押し聞き国家を開く初めとこそ身を立て道を行い、先祖を恥ずかしめず。永く子孫のけがれをなさず。義人の志、誰人か及ぶべき。
古今の武士戦功すぐれてる人多く聞こえけれども或は降り、或は不仁の行に道ならぬ事にまぬがるる人々数多あり、義人の如きは、是を戦場に疑うに其の類いなし。況んか治世の時世なり。噫、無双の義臣港々の肝要を開き、終身の本意を違えず。弓矢の家に身を立てる人、誰か賞せねばなかりけり、かかる目出度い武の士は国の誉れと侍れ。             則長  芳園記

 土地絶嶮
 我が土佐の国安芸郡室戸御崎は一国南海の難所の地にして、海中に突出せること幾何里、人々此の地を恐れて御崎とぞ云いにけり。波濤盤渦として満山谷に波打掛け、其の響き天地を動かし、さも順風にて此の地へ来るにも俄に逆風にて風濤、一とつせさりし、所、御崎半腹に船をつなぎ泊りしけるに、纜(ラン・ともづな)絶え、南極星を真空に見なし漂流人々生害年々多かりし、浦戸・甲の浦の用船も此の所に至っては楫(舵)を折り帆を破れ怒濤に遭う時は空しく覆没し、人々是を恐れること云わん方なし。
御崎は紀州熊野の岬に向かい、淡路島より南海に見なし、播州(兵庫県西南部)地よりは南に見なすとぞ。幾何里も南に出たるとぞ。故に南海の御崎という。

 太守公忠義・御乗船慶長以来 神君 五我七道を定め、民太平を唱える中にも、当国・従四位侍従兼大朱公、江府(江戸幕府!)として御乗船にて御出帆、安芸郡室津御崎御通船の時、俄に逆風浪を巻き、帆を破し、楫(舵)を絶つ。
そもいかに御供の人々災難、云わん方なし。室津・浮津の境に御船を寄せ有りける。此の時に御上陸あり。御歩行あらせられ室戸なる、梵刹一宇あり、津照寺と号する。御入あらせられ、是より彼の寺、ますます、御修復あり、翌年奇麗に御作事あり。同国永代覆補を定められ、並びに口禄御寄付あり、是より港、
御普請被り仰せ出之。

 
室津港普請評定初堀の事
 去る程に寛永年中、室戸海、難所の地にして 是国用のため港築き候ばやと国司御一決あり、仝?七年、始めて掘り、弐ヶ年、御普請、又同年中掘り、十九年成就する。休み年あり、慶安三(1650)年まで九年、御普請少(?不明)の普請故、溝の様に掘り、小舟釣り船出入りの用を達しけれ。是を寛永の古港とは言伝える。既に此の地理を案じ、安積氏・衣斐氏・野村氏計なし。
井上氏・江口氏両人して此の地の状を描く。是を江戸へ申し上げ御普請のこと相定まる。

 古港奉行、立石、 寛永七(1630)年より、掘り初め候 小(比?)港の奉行人々立石あり。此の奉行記、立石は(共?)七年より慶安三年の頃の御奉行名なり、後に港掘り、次に随って此の石へ刻附申とて立石の中半より下は、
姓名知(記か!)さえ、後々奉行可刻と申しける。

   

立石図碑文

      国主藤原朝臣土佐太守侍従忠義
        時之奉行  野中主計(兼山)
              安田四郎左衛門
              片岡 加衛門
              小倉 小 介
        二月八日ヨリ八月一日迄
            御普請目付
              祖父江口久衛門

      此碑 港供養石ナリ
        梵字 捧掘営御港成就所
          延宝七(1679)年 建立之

 二度目掘、津呂浦港堀次御普請 慶安四(1651)年正月より初め寛文元(1661
年正月相済む。
同四月引渡し成就。尚寛文元年正月十六日より室津港二度目国普請。諸泛夫、津呂普請成就の後、室津へ引移る。既に寛文元年にも年移りければ御仕置、御奉行、室津(戸では?)港普請以前は小分(?)の小溝故、国用に立不申、此れを之として、大港になさはや、国用第一とぞ?、御家老には野中主計、惣御奉行なり。(誤写か?)
御仕置は渡辺小兵衛、御普請、諸奉行には一木権兵衛とて野中主計宅にて仰とり、兼ねて彼の地は用意にて御用人五十人、普請の仮場指図にて材木山をなし、本陣仮所小屋は津照寺より少し右南かたより、十間に四間の小屋。ご用人小屋は津照寺南左になし、十間に四間役夫小屋、五六十間、寺、西東(南の誤写か?)門前西浮津、方々を小屋十二ヶ所、室戸十三ヶ所、正月十六日、御普請とて御奉行御立(越か?)、人々野中傳右衛門殿、一木権兵衛殿、用人小役人八十六人、十四日高知出足、田野泊、翌出足室戸着。村、人夫二百人餘、
村々出夫の事。同三月二十八日二度目御普請引拂、成就。
寄夫は三十六万五千八百人餘、金 壹千百九拾両なり。室戸港記の文よりとる。

三嵒(ガン・いわ)奇怪
 既に寛文之中、普請に至っては、西浮津(現・室津・室津川の誤りでは?)川より高く石垣を築き、浮津川より水の通路を塞ぎ湊内堀立て南に嶮巖一帯にして、土小石かってなら湊口となさけ、行口あせさりけりと、二月十七日よりは、湊の口一帯、大盤巖を碎き、石地を堀立て郡々人彼は雲の如く集まり、日々四五千人の群集をなしたる。かかる所に嶮嵒あり、斧巖とて高さ八尺(2.4m)、鮫巖とて七尺(2.1m)、鬼牙嵒とて高さ七尺、或は浪を出たり、或は浪を沈めたり、船これに向かうに必ず損する。鬼牙巖は海中へ向出たること六七軒(間?)(土責)七万五千を以て海底を西浮津の方向に築き、潮を塞ぎ役夫昼夜、瓶を以て水を干し三嵒少し出たり、湊内つつみ土俵をきりはなし見れば瞬間に湊内に水引、三嵒益出たり。役夫三千餘人、手毎に鉄槌・大鉄槌を以て三嵒を碎く、口も碎けず、雨四日、一日大雨にて休息なり。既に大鉄槌・小鉄槌禿げて山 山の如き積立て処々あり、湊上、廣小路なる処にて鉄槌禿げるを斗桶にて斗(はか)り、小役人へ馬に着け相渡す。其の有様云わん方なし、実に一国の大普請とぞ人々驚き申さぬはなかりける。
既に野中傳右衛門殿にも是地御見聞、両一日御滞留あり。否 御帰りあり。
萬端一木権兵衛殿へ御まかせあり。此の度三嵒砕くに付き、野中へ免御用御指立の一通あり。人役、五郡、高岡郡、吾川郡、不残、出役、相触れ、十九日より大郡、人々村々多分残りなし。人役は前に十増せり、下役御用人六十人。夜は火の用心の番人、一刻一刻、十六人小屋を廻り厳重に見えけり。
廿大日より三嵒砕けがたきにつき、大鉄槌五千餘、小鉄槌数千丁、御用人別府五兵衛、濱田清より夫々村々役人へ相渡す。大小槌、別紙目録、御奉行目付所、一木権兵衛殿へ其の日即刻引合本陣へ持参。四つ時(朝の四つ時であれば午前10時)(午後の四つ時であれば午後10時頃から午前6時頃までの間)御奉行本陣より帰る。今日、四つ時より三嵒へ役夫の指図あり。万端如是・役人人々大槌小槌を以て先に三嵒打ちかかりけるに、こは少しも砕ける事なし。如何とも作すべき様なし。是に仍て、御奉行始め、五奉行役人の申し伝える。此の巌は開闢以来多分海底にあり候故、中々難しく砕けよし出者あり。
両三日役夫碎くとても少しもその甲斐なし。種々手を尽しけり。人々恐れ怪しみけり。惣奉行所へ申し達す文言は不知。野中の御答書翰あり。
「如是返翰」湊中 一国の用に立申事に無之、兎角ことの溝、不及是兆候儀普請に着手前、急度改り申所に附候。若し相滞り候はば、奉行人初きはあし者無念にて相成り候ことの外、人少々而計(対?)候よし。及候 御老?其の外用人とも、さしこし所申、直ちに可申付候、早々増人を入り候様に可申付し不宜。
                六日。         野中傳右衛門
一木権兵衛 様
 既に三月大日にも成りければ、野中の書状、七日室戸本陣着。別紙に曰く、室戸着浦奉行方へ申し達候御用あり、村々急送を以て、相届可申者也(相届け申す者なるべし か?)江ノ口より室戸迄。

同士、嘲、一木氏
 扨も当月には太守公、東寺御参詣として室戸普請をも御一覧のためとて此の度御通りありける時、家中同志某一木氏へ申す。御苦労千万、数日之忠勤、しかし、大地を御堀りあり、定めてこの池には鯉鮒を養うにはよかるべし。
拙者は時々遠路ゆえ見物はいたしがたし儀と申し嘲る。一木氏は少しも動ぜず、性質静かにて実に一方の義臣の器と此の時見えたりという。

義人誓天感應
 三嵒砕け難しきに港口西へ引き寄せ、入り口に役人認めて指図出て来たり。けれども何分一木氏には後日のため、又々潮の指引にて今日とても、潮西の地はかかりーーーママ  
申、ぬい如し 不及と申しければ、御用人一言に平向(閉口か?)し、何分三嵒の地へ入り口とぞ申しける。その夜一木氏其の三嵒に寄せ滄々たる大海に向い海神に誓いありぞ曰く武士の任、戴天の所君命を以て当今普請の役に当り、君命至って重き處、賢君又仁愛の至る處也。之、これ南海漂没の人民、此の地昔より其の数を知る事なし。君至って仁愛の感、発する所なれば、神必ず哀愍有らん。否、不肖なれども此の役、功成るに至り候へば、奉、君に奉った命、則、隊・脱?性と成て君に捧と滄々たる大海に向い誓い申したる。
かくて義人の忠誠にて南海漂没の人民をなからしむ。永く幾代までも国の助け、義人の念力偏に天地を動かし神明も感應ある。
やがて本望、遠?(達の)しける。忠臣義人とは申しける。されば侍の情は岩をも通すとは、此の人なるべし。

念力貫(抜?)岩
 既に日を重ね、港口の三岩には大槌小槌、禿缺(ケケカク)数を知らじ。
当日、三岩に取りかかり、除くべきこと御奉行御指図とて前日の役に付き、寄夫とも三岩は砕きがたき事、結勺力を費やし、岩は其の儘さも甲斐なし。されども今日も又々百姓とも合力にて除くべき御下知前日の通り。
役夫等は蟻のもぶれ附たる様にたかり、その岩を砕くに思わず砕けて粉になり、
其の砕けにより、赤き血、泉の様に出て、又は散るもあり四方八方一帯血の岩なり。こは如何にもと人々怪しみ、七八百人と其の岩の血に染まりたり。
戦場に立ちたる思いにて皆々その岩を砕きたり。以前に引替り、除きよきこと云わん方なし。こは不思議只事にあらずと人々囁きあえり。此の時より人々義人が聖天申し、後に思い合いたる人ありとぞ。

一木氏格式勤事考
 一、寛文元(1661)年ヨリ              御普請奉行
    格式御留守居組、
 一、同七年ヨリ                    御普請奉行
    格式御小姓組列 御普請奉行 後而、馬廻りに進む

一木氏分限世禄考
 一、分限    七百石     知行、役知共
 一、御蔵米  二十四石
 一、五人扶持  御蔵米
 右分限七百石の餘、寛文七(1667)年御加増被仰付、勤功あまたあり人々知る所、布師田村(現高知市)の権兵衛井流 高岡大噲(口偏でなくサンズイ偏が正字)後掘(再掘り)一木掘りと云う。
仲(沖)島境、論笹山一対汰野市野開 指図其の外累々。

寛文普請御奉行   
 御家老     一万石知行             野中主計
 御仕置役                      渡辺小兵衛
 御普請奉行                     一木権兵衛

延宝御普請奉行
 御家老惣奉行                    孕石小左衛門
 御仕置役                      松下彦四郎
 御仕置役                      不破甚右衛門
 御普請奉行                     一木権兵衛

堀次大普請
 延宝五(1677)己年港堀次大普請、正月十一日前年の如く小役人右十人立、兼而、前年より小屋修補、本陣に至るまで、夫々小役人御用意相達す、諸郡人役不残、村々日割りを以て順々通々御用相勤めさせ、浮津川より南まで石垣を高く築く。其の高さ二丈(6m)餘、南北長さ前年に百増、港奥行き五十間(900m)餘堀次。此の度別而結構、港内石垣夫々御成就。別て前年に万増し、役夫諸事厳重に相見えたり、同七年六月一日成就。
諸雑費、公役夫、百七十三万千百五十人。御金 拾萬千三百両餘。
初堀 中堀 後堀 御普請都合入用 寄夫 百七十六万五千餘。
費金 拾萬弐千五百餘両也。
 桂井記云う。人役は弐百萬以下にては、あるまじと云う評。

一木氏再帰室戸
 斯て普請成就に至得者 諸事引渡可有と高府へ罷り帰り可申。此の度用意出来、家来とも其の仕度致させ、両四人御召連れて浮津の浜まで罷り帰るに怱々一体しびれ一歩も進みがたし。これは不思議とて、始め元室戸へ帰れば、其の足の軽きこと、云わん方なし。又、翌日、始め元、浮津の地に掛れば一体しびれ一足も西に向い候はず。これは不思議なる哉とて、又々室戸へ御返り有れば、義士申しけるは過ぎにし日、港口岩、一命の捧げによって成就に至る事、吾日頃此れを知る。然れども公役の重きを以て高府へ罷り通り、再び当地へ罷り越し一命可捧云處、斯く帰るさの有様は天のなす處。嘗て帰り不可申、是時の至れりと云う。御用人とも高府へ罷り返り夫々引渡可申旨述べられたれば、人々その通りにて御仕置へ引渡相済、其の由。室津へ相達したれば、一木氏へ兼ねて引渡しの始終を相待を并。子孫方遺言もありければ、兼ねて十八里の遠路を罷り越し可申旨、申し達しありたれば、十六日子孫人々罷り越し公辺(汀?)渡し與に相済み、目出度くして万代不朽と唱えたる。

(義士)一家遺事
 扨は一木子孫方は俄に山海を越えて、室戸役家へ罷り出可申旨、謹言只事にはあらず。十五日より十六日夜は港の上、石崎(波止崎?)には定紋付の幕を張り、一木氏の遺言・骨髄に通り、御御供の人々さも冷むかり、是を聞き感涙衣を湿し讚嘆の聲、天を動かすばかりなり。十七日卯の刻(午前6時)暁、意ろ静かに役察にて御生害(自ら命を絶つ事)有りたれば、人々驚きあへぬ。自殺の身体、人々その体想に驚き入り、千載美談、一人義臣天下無双と賞したるも此の時なり。



贈号文字由来
 東寺・津照寺僧にも、義臣の体想、凡夫に非ずとて、驚感人々不斜やがて法号贈られたるとぞ、東寺権大僧都、時の大知識にて此の段は御自識あり。
此の方よりも文字極められ、室津・浮津の諸人も、吾が父の如く歎し惜しみ、晴天六月十七日も諸人の涙に曇り涼風港を吹く。夜の嵐も、十七日の夜の風も諸人の涙に曇り、こは如何なる今月今日と義臣を相惜讃歎かぎりなし。
高府人々、義臣功業第一と賞讃不斜。
則ち贈号は覺岸院常譽と溢る。覺岸は以前の三岩の義にとる。常譽は文字の通りと云う。

津照寺法要供養
 扨も室戸浮津諸人は厚く供養致し、報恩申渡し旨にて二七日には供養、導師東寺大僧都御坊兄権師、津寺大和尚、位小僧八人、祭文役者、香花師、對揚、師表白師等なり。室戸浮津惣中、焼香いたしたる名順帖一巻あり。

 一金子     拾弐両         室戸惣人中
                     浮津惣人中
 右の者、一木権兵衛様御供養香花料として両組申合せ、御布施目録如件。
                          津寺方丈

義臣ノ衣装鎧兠(ガイトウ・よろいかぶと)
 斯て人々は義臣の衣装に至るまで賞讃し、かかる目出度い武の士の具は家の守りとて人々分ち取り、又は船の守りとて錦の袴きりぎりになすこそ取り去りけり。海に沈めし紫威鎧兜は明珍(姫路市の明珍鍛冶師・現五十二代)長門宗政の作。又、太刀は相州(神奈川県)行光の作なり。
後に海中を詮鑿したる人あり。だれとも其の武士の具、行方なし。定めて竜宮へ相納め候と皆々今は申しける。

諸人築忠義墳
 木石ならぬは人の心、善なればこれを感ず性は善なりと聞く、中あれば是を慕う、南海はこの海の中にも性は善なり。漁夫、賊の女までも、老若男女群衆をなし海辺にありける岩を曳き上げ、津寺なる梵刹の西山中に大いなる石塔を新たに建立する。是一向に義臣の忠誠を感じ衆人築きあへり。義臣を敬慕し斯文字彫り付け出来、不日に成就、此の事あまねく所へも相聞え、永く一国の美談とは申しける。
石碑図曰く自然石、高さ九尺七寸(2.91m) 幅三尺二寸(96cm

斯くて一木氏の方より申し来るには、此の度、忠死も表向き作法あること申され、病卒と文字相添え可申事、これに付其の心得にて彫り成就に候。
扨こそ諸人義臣を賞讃し、百ケ日に到り候而、者は日密諸々の草花山をなし焼香朝夕忠義墳に絶ゆることなし。香の煙に雲を起せり。
播州(姫路市・赤穂市周辺)竹本屋、兵衛、とて同行三人、———
二人は熊澤先生の門人儒者なり。当国順拝の折り柄、室戸に一日泊り、旅屋亭主、義臣の忠功の次第、一々夏の夜の月西寺の岸に入るまで物語ければ、三人とも一入感心し治世にてもかかる武士のありけるは、何分当国大守様の御仁君に基づく所、何故かかる忠臣の侍ありけると賞讃しけり。翌日忠義墳へ参詣し、竹本屋の和讃あり。この時あまた人々の和歌・京・大阪の人々和歌の訪杯あり、
手向ける忠義墳尊崇益々高し。                
            

義人書簡遺事
 口上書を以て申し残すこと
港八・九を成就に到候得共、先度殊の外入り口六ケ敷(むつかしく)候に付、増夫入候而相文候得共、至って難題至極と申し、此の上は武士の道の心得にも御座候へば、神明へ捧げ申すべしの誓文、明、御見分けの通り述べ本意候事、一日千秋の大祝、拙者本懐の至り、死後、御推案可被、不朽不具
   十六日     一木権兵衛正利  花押
 津寺方丈御房  殿
津寺に義人の手文あり。此の一ケ通の文遺事は一日住侶御他行にて対面なし。残念に相思い一書残されたる事ぞ。
官裁一木氏二代相続
 去る六月十七日、一木権兵衛病卒と相届け、御侍頭右の通り相届無相達、八月十四日相続被仰付、目出度くよろしく後は御馬廻りなり。


三岩跡奇怪
 港成就の直後、三岩は義臣の誓天て不朽の港たる事、普く人々の知る所、南海道にては第一の堀港なりとて諸国諸人申しける。皆々此の港の石を築き岩をたたみ、岩を切り、水を通し様々の仕度には目を驚かせり。
入り口は嶮岩高さ八九尺、横十八間半、其れを砕き、皆々取り上げて後、三岩の跡と思い候所に大釜をかけ可申、忽ちに岩の根砕けて残りあり。
其の岩を御釜とす。漁夫相唱える。是、去る御普請の節の血の岩の取り残しなり。此の奇岩、小分、のこり故如何、答は後世、如是、奇岩もて、金岩、有糸
?や、故余、小分、永方?、百千年、(意不明の所多し・・・棟造)
今は、此の岩、夜、潮にひたし見えざりけり。今又、見る人なし。然れども其の御釜岩に非禮不敬の時は必ずそのしるしありと云う。
曰く朝夕出入り漁士、諸国大船とも其の岩根想い得て港、出入りありけり。
是一重に奇怪なり。後、御分一役、小屋、新たに出来、国用第一、国家を開き始めとこそ。

忠義の跡書
 一木氏事は、大守忠義公様の御時より此の港の御普請の以後、慶安の頃御覧相済ませ、延宝の頃御成就。港は凡成就に至り候節、港の入り口と覚え候当りに三岩あり、各高さ七・八・九尺、此の岩除き不申は入り口空けず。
寄夫、日に夜な夜な鉄槌を以て其の岩を砕くに、却って槌禿げて、岩其の侭なり、是に付一木氏、野中傳衛門殿へ此の事申達候に増夫、御意あり三千餘人
一時にかかり砕くに、又幾万丁も禿げ、石鑿幾万丁も折れ、少しも岩碎くる事なし。数日の間、手を尽くしたる。是に付、一木氏決定して曰く、此の岩は天の関所候、謹而、一心に海岸、海中に向い誓って曰く、我此の役に当り、此迄堀なし候所、此の一事にて港、空しく相成り候。時は無念に付、依って早々岩砕き成就の日に至り候得ば、我不肖ながらも一命を捧げ可申上天に誓い申し候て、翌日是を碎かせば忽ち砕けて粉となり、其の碎より赤き血、泉の様に出、
寄夫七百余人も岩の血に染みたり。誠に前代未聞の奇怪なり。
義臣の念力天地を感じ、清心すぐ様、受納ありければ、是、古今珍しきこと、一国のこの鉄石の心底の者は又もあるまじ。港成就又堀普請成就の後、去る延宝七年曙のころ、静かに最期みちたり。義臣が功を感じ申さぬはなかりけり。


港成就石図
 延宝七年港成就の日、供養碑石建立、御祈願、津寺大和尚住十七日、阿口羅明王、護摩供御、祈泉僧、二夜三日御祈祷、国土安全、別ケ当ユ諸人繁栄、丹誠、抜祈、可也、請願三日ママ?て一方立碑、石図

          
統論
 世に伝う一木権兵衛、功栄専ら忠臣と称す。是は本朝神武天皇以来抜群の忠臣、希代の英傑と云う。良く一木氏の義胆を伝うに、忠臣と称えるは天下にこの人なり。往昔、楠木正成を上忠臣と称しけるが、是は天子に命ぜられ禄の為になす所なり、楠、もし利運に乗じ本意を相達しなば、定めて大国、如何程も賜り申すべし。されば楠、数国を領し後代を栄えさんとの事を以て知るべし。
禄の為になさざる一木氏に比べるに、一木氏は死を一事に極め、国家を開きその身又、後栄をうにあらず。身を捨て道に死すは臣の当る所と云う。
功をたて、後の事を願う筋なし。是を以て考えうるに、一木氏は楠にまさる。
況又、君に忠し、民に功あるの先言に至は楠、却って一木氏におとれり。
時を論ずれば楠は乱世、是は治世なり、乱にして刃を用いにあり。治世にて、刃を踏むは難きにあり。一木氏は治世にて死を極めるもの天下の大忠と云うべし。されば一木氏の功は一国の大用のみにあらず。
四海外、異朝に至るまで、一木氏の手柄による事、そのあたり知るべし。誠に誰人か肩を並べん。近時赤穂の家臣其の大夫、大石内蔵助等四十余人復讎(復讐)、忠臣と称しけれども、これは主人の讐を報いる道、計りなり。是は全く義にして忠にあらず。只世上の希代の敵討故忠臣と称ける。是は愚昧の評する処なり。忠とは云い難し。此れは義人なりとて知るべし。凡、忠臣と申すは国に功あり民に功あるを以て忠臣と謂はるべし。されば、我が師、室鳩巣先生、赤穂復讐の始終を著して義人録と題せり。忠臣録とは言はず、を以て義人たる事知るべし。
     元禄161703)年刊 
 忠臣と云うは一木の如き、是真の忠臣なり。君に功あり民に功あるを専らとし、人民の助け広く申せば天下の助け、不朽を永く万世に委ねり。
忠と云い、義と称して誰人か之をいなまん。其の大功を民に蒙るに至っては大石返って一木氏に及ぶべからず。されば一木氏は本朝独歩の忠臣と称すべし。
天下の臣たる者一木氏の如く忠義を忘れずんば、国中堅固にて、忠義たいたいにあたる処に顕れ申すべし。凡世上を論ずるに歎に命を失うあり、是は血気のなすなれば、同日の論にあらず。又慾の壁の譬は今日天下を譲り、明日は死に極まるべしというは、粗食非人たりとも、僅かに一日の天下は、頼むにあらずや。是、人々覚えるある処なり。誠に天下にも替え難き命を抛ち、万世に其の手柄を残す。鳴呼、和漢古今ためしなし。精忠国士の譽とぞ、数歳の人に於て天下希代の忠臣とや、感にもあまりあり。










一木氏系図
 一木権兵衛藤原正利 中世元祖
 寛文元(1661)年・御普請日付
同七年小姓組列被仰付 都合七人扶持二十四石 右七年加増被仰付
室津港普請奉行ス、其ノ功業国用万人ノ助ケヲナス
延宝七(1679)年己未六月十七日、普請成就良否損命、分限、七百石、家富饒當代無並トアリ。三男二女アリ。
 室津諸人延宝年中、其ノ地へ墓築キ表向キハ室戸ニテ権兵衛病気宅へ帰リ病卒ト相届ケ、然レドモ此ノ時、権兵衛忠死其ノ名高キ故、後々ハ自宅ニテ自殺トモ云ウ故、両親ハ公辺へ相対表向キニヨル。実説ハ世間家々ノ筆記ニ相伝ワル如ク室戸港上ニテ忠死。
嫡子
 山之凾政次  早世
 
 女子   中村九兵衛 嫁ス   享保年中、断絶
 
 市之助  後改 新兵衛、御馬廻リナリ、横山某養子トナル。
      知行、二百五十石 享保元年九月卒

      文九郎 宝暦三年卒

      泰兵衛 寛政二年卒

      内蔵之助 御馬廻知行二百五十石 世山氏、又、後ノ本系今ノ
       横山性、一木氏ニハ他族トナル。鳴呼痛哉、於レ是血
       性断絶、養子女ヲ娶ル。故ノ池家トナル鳴呼痛哉

 阿古   
       前、元親公ノ侍、正保二年百人衆ニ被招出 忠義公様
       横矢件助宣               御用相勤ナリ
      嫡男
       清左衛門  早世

      二男
       曽一兵衛
        阿古二子ナリ 宝永六年、百人衆指上ル
        横山氏養育、御馬廻一家終ル
       
       為之丞  充実ト云ウ 同養育御馬廻リ
      
       鴻然   
        仮(後?)改三省、良忠ト云ウ 横山氏養育御馬廻一家

       壹作良朝  自ラ郷浪人トナリ 天保八年

       孫之助  天保十一年、依病辞、嫡子、出孫作


       喜三郎  早世


       女子                     (記載ナシ)

 市三郎 父権兵衛、跡式相続 
        宝永年中、御馬廻リニ進厶 同五年断絶ス
        市三郎ハ真辺大次兵衛門妹ヲ娶ル 女子ヲ生厶 名・浮代

       女子
        浮代ハ一木断絶後、池田惣五郎ニ嫁具ス
        惣五郎無嗣、家名断絶ス
        尤モ女子一人アリ、此人 片岡国之丞ニ嫁ス





室戸港忠臣略記
 土州・安芸郡室戸崎は日本第一の海難関所、去るによって御崎と云う。
新に堀立ての室津港 寛永年中初・延宝年中成就 ここに一木権兵衛とて、
 格式御小姓組、次にこの家御馬廻り分限七百石、知行役地共
義人あり。权(権・はかる)は港口の巖は数万の役夫も鉄槌を断。其の堅き事類なし。これより一木氏誓日、我此の役に当り巖砕き、成就を得ば、君の為に命を捨てたれば命を抛て成就を誓はん、夫れより翌日砕かせば忽ち砕け散り、義士の念力、天晴忠臣・天神地祇も汭受あり。天下士臣の耳目を驚かせり。
千年、万年、億兆不朽の港々、不朽の忠義、最後の場所は室戸縄取り手柄を来世に顕せり。

琉球国・有銘拝書
 (◦山田長則著――室戸港忠誠伝に対する江戸大儒の批評)
 林大学顕評日、(寛政年間―12年 1800年)
  刹身為牲仰神助天下之忠臣、不可不伝誠是祢矣

 安積艮齊評日
   此翁刹身開港、 建百世之長利、可謂不世之豪傑矣、 安政三年春三月

 室戸港記   野中良継












一木神社     由緒に関する事項
 神社名に関する事項
  神社名の沿革 延宝七年乙未六月十七日より梵文覺巖院常譽霊位と奉号、
  石塔を建立して奉齊

  安政四年巳年、石塔破損に付、塔を立替え霊位を神儀となす

  明治四年、一木神社と改称

 祭神に関する事項
  主祭神  一木権兵衛藤原正利霊

 鎮座に関する事項
  鎮座の由来と境内地の沿革 明治九年より昭和九年まで室戸町大字室津字
  北町 寶珠山・津照寺の麓に鎮座
  昭和五年十二月二十二日より寶珠山中腹、現在地に鎮座

 神殿造営に関する事項
  社殿の沿革、明治九年社殿建築
  本殿及拝殿 流造り
  大正五年  造替え 本殿春日造り   拝殿 流造り
  昭和五年  造替え 本殿春日造り   拝殿 権現造り

 一般崇敬に関する事項
  崇敬者、区域の沿岸 延宝七年以来、室戸町全町民の崇拝する戾たり

一木権兵衛墓     神石御釜礁

   遺烈碑
                            鳥居

                        手水鉢
湊   (室津港)     南路誌
 満潮の時は船出入り有り。干潮の時は猟(漁)船も出入りなし。
 浦戸より拾八里二十一町
 長百四十三間 幅三十六間より四十三間迄、但し丁子に西の方向、深さ五尋。
 地面、一町九反二十四代(畝では)、右湊先年は只今の形の通り成り。入江の
 小湊にて大手取込む。

河田小龍と室戸



河田小龍と室戸 
略記


          晩年の河田小龍

                     



                          平成二十一(2009)年晩夏
                          多 田  運

上段 室戸市教育委員会所蔵 絵馬下絵  下段 讃岐・金刀比羅宮所蔵 絵馬
 
 河田小龍が初めて室戸の地を訪れたのは嘉永五(1852)年二月、二十九歳の時であった。『室津に遊び捕鯨をみる』と小龍年譜に記されている。このころ津呂組・浮津組、両捕鯨組は藩営であり、藩の特命を得ての旅ではなかったか・・・!!
この七月、数奇な運命に翻弄された漂流民・中浜万次郎ことジョン万次郎がアメリカより帰国。藩命により万次郎の取調べに当る。後に坂本龍馬に大きな影響を与えたという『漂巽紀略《ひょうそんきりゃく》』取調書を十一月に草する。十二月、公務にて再び室戸へ東行する。翌嘉永六年正月に『漂巽紀略』を藩主に献上する。 又この頃、小龍は捕鯨について二つの漢詩を吟行、「捕鯢行」と「鯨鯢歌」を遺す。
 因みに、龍馬(20歳)が小龍(31歳)宅を訪問し、世界情勢を聞き学んだのは安政元(1854)年の年の暮れとも、翌安政二年の年初であったともいわれている。
 
 安政二(1855)年五月、小龍は讃岐の金刀比羅宮に絵馬「捕鯨図」を奉納している。この絵馬を依頼したのは、当時・津呂組鯨方頭元《とうもと》で元浦の奥宮守馬正好であり、正好は勢子船数隻を以て浦戸湾に赴き、小龍と門弟数名を迎えたと説話が遺っている。小龍、初来訪の『室津に遊び捕鯨をみる』嘉永五年二月は、既に絵馬奉納の打診をうけての訪問と思われるが過当であろうか。
 
 室戸市教育委員会所蔵の捕鯨絵馬下絵は、元、吉良川多田家・昌幸氏が所蔵していたものを、昭和五十八(1983)年に同委員会に寄贈したものであり、委員会は翌五十九年室戸市文化財に指定する。尚、同多田家には四枚の捕鯨絵図を所蔵されていたそうで、その内の一枚が現存のもの。散逸した三枚が誠に惜しまれる。
 この下絵について、当初小龍の署名落款が無く訝る者もいたが、島村泰吉先生が小龍の孫に当り、小龍の研究を重ねている宇高隨生氏・京都在住に教えを請うた。 平成二年七月三日、宇高氏は老体(当時87歳)を厭わず来訪し、捕鯨絵図を見てこれは間違いなく小龍の作品であると認定した。と喜びを記すと共に、絵馬下絵について『まさにこの絵は小龍の最も充実した年代の作品と考えられ、他の捕鯨関係絵画類に比べて卓越した力感溢れるものとなっている。小龍という優れた画家が、その充実期において現場に臨んで、写生した作品であることがこの絵の価値をいっそう高めているということができるだろう。』と泰吉先生は賞嘆を付している。
 
 拙子も数々の古式捕鯨絵図を見る機会に恵まれたが、小龍の作品に勝るものは無いと言って憚らない。下絵の中には作者の遊び心か、小龍と思われる人物が(画面中央・右下より四隻目の勢子船・艫《とも》の位置)描かれ、その姿は写生に徹した小龍の姿勢そのものである。
 後で記すが、下絵から完成作品に至る数々の素描画には、古式捕鯨そのものが凝縮されている。 山見番所にて鯨の来泳(発見)に始まり、勢子船が鯨を勢子(狩子)する。網船は鯨の前方に網を張る。網を被った鯨に羽差が銛を投ずる。頃を見計り下級羽差(若い)が手形を切る(鯨を船に繋ぐ行為)。持双船が櫓《やぐら》を組む。(仕留めた鯨を地方《じかた》(陸)に運ぶために持双柱に結えるため)地方には轆轤《ろくろ》が描かれるなど、古式捕鯨に魅せられた者にとっては、まさに垂涎の的である。
 文化庁は昭和五十四(1979)年五月、讃岐国琴平山鎮座の金刀比羅宮の境域に現存する金毘羅信仰、就中海上信仰を包含する〈金毘羅庶民信仰資料〉1725点を一括「重要有形文化財」として指定した。その中に『漁労絵馬』の部に小龍の絵馬が含まれ、宝物殿に大切に保存されている。
 
 奉納絵馬に記されている文字

   額縁上    奉献(横書) 一三《縦》五・二×一六《横》七・二cm
   額縁右    安政二稔夏五月吉祥日
   額縁左    土州 津呂組 鯨方
   画面右下   川田 維鶴《いかく》 (小龍の本名)

   裏書     奉掛土刕《としゅう》藩中
          奥宮守馬正好
          奥宮保馬正孝
         取次當處
          櫻屋玄兵衛
   
   ◆ 勇壮極まりない土佐津呂組の捕鯨を色鮮やかに描いたもの。
    唸り飛ぶ銛、勢子の鬨の声、鯨の咆哮が聞こえるような優れた
    貴重な絵馬。と称賛している。

 
 小龍は金刀比羅宮奉納絵馬が取持つ縁で、津呂組・浮津組、両捕鯨方関係者(鯨肉問屋等)との絆が深まり、太田鯨呑(栗太郎)や久保野珠山(繁馬)が安政三(1856)年に弟子入りする。愛弟子太田鯨呑の旅館を、詩に詠じた光景をもとに「鶴影楼」と命名した。「鶴影楼」(現在の太田旅館)主人、鯨呑こと太田栗太郎は捕鯨の問屋、扇屋の後裔である。寺田寅彦ゆかりの捕鯨絵巻の原所有者扇屋太三右衛門の家である。外に数人の弟子がいたと言われるが名前は分からない。又、明治期の網捕鯨の幹部・多田嘉七や津呂の前田稼一郎等とも交流があり、室戸の有力者を弟子に持ったことから、小龍は「初鰹を土佐で最初に食べるのは、殿様と自分だ」と言っていたそうである。また、鯨呑は鯨肉の上質なものや、初鰹などを手土産に小龍を訪れていたという(宇高氏談)。と、泰吉先生は「河田小龍と室戸」の中に書きとどめている。あらためて絆の深さを知る。 
 小龍の絵は今以て室戸の旧家を始め書画嗜好者宅には多く、家宝として大切に愛でられている。
  


                  


 この三枚の素描画は、高知県立美術館所蔵「捕鯨図下絵」紙本彩色、一巻、二七・○×五七二cmより抜粋したもの。



「鯨鯢十種略図」全図

   中下・克鯨  中上・赤頬鯨又は星鯨  右下・背美鯨  右上・座頭鯨

   左下・長須鯨  中上・槌鯨  中下・鰹鯨・ミンク  右上・鰯鯨

   左下・多加末津(高松)シャチ  中上・真甲鯨・マッコウ
三枚の素描画「捕鯨図下絵」には、遠く山見番所には白木綿旗を二枚掲げ、背美鯨二頭の来遊を告げている。そばには鯨の行動を勢子船に知らせる「採」が描かれている。


 勢子船六隻には白船(総指揮者)・赤船(副指揮者)や赤舳《みおし》船(舳先を赤く塗っている船)青舳船(舳船を青く・・・)・半菊模様と子持ち筋をあしらった極彩色(夫々役割在り)の勢子船・その艫廻りの造りを写している。
当時の鯨方頭元・奥宮家の家紋、丸に並び千鳥・下方に子持ち筋をあしらった大印旗、仕留めた鯨を地方に引き上げる轆轤まで添え,更に「鯨鯢十種略図」(四枚)として背美鯨を始め十種類の鯨が描かれている。
 又、早銛、中銛、大銛、樽銛など銛先の形状や寸法、銛が生鐡で造られている事を添書き銛綱の様子まで描き、掲げれば枚挙に暇が無い程に古式捕鯨の道具に始まり漁法をも伝え、まさに捕鯨絵物語である。 


           鯨骨(肩甲骨) 墨?  三○・五×四五・五cm  太田旅館所蔵                                              



















                    参考資料
                      河田小龍 幕末土佐ハイカラ画人
                      室戸史余話  島村泰吉 著
                      坂本龍馬写真集
                      金毘羅庶民信仰資料集(抜粋)