2012年11月1日木曜日

室戸の民話伝説 第31話 津照寺のご本尊


               絵 山本 清衣


三一話  津照寺のご本尊

 宝珠山《ほうじゅざん》 真言院《しんごんいん》第二五番札所 津照寺《しんしょうじ》、通称・津寺《つでら》は、大同2(802)年この地を巡錫《じゅんしゃく》「僧侶が、各地をめぐり歩いて教えを広めること」していた弘法大師空海が開基したと伝わる。ご本尊は楫取延命地蔵菩薩《かじとりえんめいじぞうぼさつ》で、空海自身が一刀三礼《いっとうさんらい》「仏像を彫刻するとき、一刻みするごとに三度礼拝すること」の古儀に則った力作であり、南路志は「秘仏・弘法作。四国八十八ヶ所随一也」と讃えている。 
 さてこの津照寺には、火と水に関わる二つの物語が伝わっている。
   火の物語
 今昔物語《こんじゃくものがたり》を繙《ひもと》けば(地蔵菩薩火難自出堂ノ話)とした題目に、「今は昔。土佐の国に室戸津《むろとのつ》と云う所があり、そこに一つの草堂《そうどう》(草ぶきの家・寺)があり、津寺と云う。そこは、海の岸(みぎわ)にして人里遥かに去って難渋しーー」と書き起こし「そのお堂の垂木《たるき》の木尻《きじり》(端)は皆、焦《こ》げていたーー」という事実を紹介して、その理由について述べている。 
 この室津浦に住む老人が、お堂の垂木の木尻の焦げた縁起を語っている。先の年、この地に野火が出て山野ことごとく焼けた。一人の小僧がどこからか忽《たちまち》に現れ出て来て、室津浦の人々の家ごとに走り回りながら叫んで云った。「”津寺只今、焼け失せなんとす。速やかに里の人、皆出て火を消すべし”」と。周りの人々、小僧の叫び声を聞き、津寺に走り来てみると、お堂の四面の辺りの草木が、皆焼け掃いたようになっていた。お堂は垂木の木尻が焦げているが焼けてはいなかった。しかもお堂の前庭には、等身大の地蔵菩薩や毘沙門天、それぞれが本堂より出て立っていた。但し、地蔵菩薩は蓮華座に立たず、毘沙門天は邪鬼を踏んでいない。この時、室津浦の人々、皆これを見て、涙を流して泣き悲しんで云った。「”火事を消すことは、天王(神仏)の為すところ也。人を催《うなが》し集める事は、地蔵菩薩の方便なり”」と云った。
 この小僧を捜し尋ねるが、辺りにそれらしい小僧はいない。浦人は、この事を見聞きし、不思議で慈悲深い菩薩たちだと云って尊だと云っう。
   水の物語
 土佐藩初代藩主・山内一豊公が帰藩の折り、室戸沖で風浪に翻弄され遭難しかかった。そのとき、一人の僧が現われ、船の楫柄《かじずか》を執り室津港に無事に送り届け、一豊公は難を逃れた。一豊公は礼を尽くさんと、そこここに僧を捜すが見当たらない。僧は津照寺に向かっていた、と聞きつけ後を追った。本堂に立ち入ると、御本尊の地蔵菩薩がびっしょりと濡れていた。これを見て驚いた一豊公は、この御本尊に霊神を強く感じ、楫取延命地蔵菩薩と名づけたという。この御本尊地蔵菩薩には、自ら鎮火の霊力と衆生を水難から救済する慈悲の大愛をもっている、と云えよう。
   呼称「ごめん」の誕生
 一豊公は遭難を機に、この地に海難救助組織を定め、浦人をこれに当たらせ租税を免除した。曰く、土地の開墾開拓による免除と異なり、人命救助を行うと云う特異な例である。これが「ごめん」誕生の、一つの由来である。
 『ごめん』の名が初見される「八王子宮當家記」に依れば、この集落の男衆は、往昔藩政時代吉良川住民の二、三男が移住して来たものである、と伝え。「土佐鰹漁業聞書」には、しばしば御座船の水夫として召され、藩主の信頼が篤かった、と伝えている。

                            文 津 室  儿