2012年1月20日金曜日

にわか遍路

         にわか遍路
  順打ち逆打ち、十人十色の苦楽を背負い遍路は行く。軒先に「札所ご案内」を掲げて二十数年、道案内を努める。
 「ありがとうございました」とこうべをたれるお遍路。「お気を付けて」と返す。短い言葉に、偽りのない真が宿り笑顔がのこる。これも一期一会であろう。
  いつか節目に遍路を打ちたい、と思いつつ未だに果たせない。年が明ければ古希も間近かい。この節目を逃してはと気負う。身近に最御埼寺《ほつみさきじ》・津照寺《しんしょうじ》・金剛頂寺《こんごうちょうじ》の三名刹が鎮座する。ものはためしと三山参りに気が馳せる。
  弘法大師空海の聖地、御蔵洞を起点とした。洞窟には二社の神さまが祀られている。空海は神との共存をもって、苦行のうえ二十四歳の若さで三教指帰《さんごうしいき》を著した。
   岬の冬の草花はなぜか黄花が多く、人々の気持ちを温かく和ませる。畦唐菜《あぜとうな》・潮菊《しおぎく》・堆金草《たいきんそう》・石蕗《つわぶき》・薬師草《やくしそう》・なかでもインド北部より中国を原産地とする。中国名「迎春柳《げいしゅんりゅう》」和名「黄花亜麻《きばなあま》」はひときわ鮮やか。お寺への渡来経路は謎に包まれ、ロマンをかもす。
  この花は俳人・浜田波川を魅了した。「最御埼寺の黄花亜麻まことに黄」と吟じさせ、花の気高さを讃えた。
  道草に溺れ、にわか遍路は叶わずじまい。
                                                         (儿)
                高知新聞「閑人調」掲載


2012年1月15日日曜日

五・ニク狩  六・握り屁  七・三次さん夫婦

               握り屁

    五 ニク狩
「ニク」 佐喜浜ではニホンカモシカの俗称を「ニク」と云っていた。国の特別天然記念物指定の保護獣である。野根山街道付近には多く、崖を好み、食性は植物食で、広葉草本の葉、芽、樹皮、果実や苔を食す。牛科の動物で、大きいものは子牛ほどある。
 このニクを加奈木の潰《つえ》から、古畑の雨ヶ谷で見つけた三次さん。隣りの善助爺《じい》さんに「善兄、雨ヶ谷にニクが来ている。善兄は長襦袢《じゅばん》を着て、潰の下の河原で踊りを踊って下され。儂が捕まえるから」と、嫌がる善助爺さんを雨ヶ谷へ連れ出した。三次さんは、吉良川越えの峠を登って、雨ヶ谷の潰の背後へ隠れながら行った。雨ヶ谷の頂きには三頭のニクが、木葉や苔を食《は》んでいた。善助爺さんは、三次さんの指図通り、俄《にわか》づくりの女形《おやま》姿に変身して、赤い長襦袢で優雅に舞っていた。不思議な光景に目をとられたニクは、首を傾《かし》げていた。三次さんは、棕櫚縄《しゅろなわ》で拵えた投げ縄を、今ぞとばかりに投げた。投げ縄はニクの首に上手くかかった。吃驚したニクは崖の頂きから下向きに跳んだ。三次さん、これを放しては一大事と、縄を握り締めたまま気絶してしまった。そばにニクが息絶えていたという。三次さんは、善助爺さんの介抱で九死一生をえ、二人は捕らえたニクを桑の木に運び、段と両集落の全員で鱈腹《たらふく》喰ったという。
   六 握り屁
 岩佐の関所の役人、北川三郎兵衛という侍が、高知の城下へ所用があって行くという、三次さんは願出て、お供をさせてもらった。高知の城下の賑やかさは、佐喜浜八幡宮の秋祭りの賑わいさながらで、唯々目を見張るばかり、山の中の三軒や暮らしの身にとっては、何もかも吃驚することばかりであった。
 向うから家来を二人連れた侍が来た。「北川さん、三次の首が飛ぶか飛ばぬか、あの侍に屁《へ》をかましてみましょうか!」と云って、屁を放してそれを握り、目をこすりながら、向うから来た侍にドンと突き当たって、握っていた掌《てのひら》をパッと広げた。何せ、三次さんは食い物はろくな物を食っていない。その屁の臭いことといったら。「無礼者、それへ直れ、手討ちに致す」と、突き当てられた侍の、怒ったの怒らなかったの。顔を真っ赤にして刀の柄《つか》に手をかけた。三次さんは惚《とぼ》けながら平身低頭をした。三次さんは「どうぞ、堪えて下さい。儂は桑ノ木の三次という、ド百姓でございます。生れて初めてお城下へ出て、失礼を致しました。どうかお侍様気の済むようにしてつかさいませ」と平身低頭、頭を下げたが、そこは三次さん右足を後に引き、斬り付けて来たら、ヒラリと後へ跳び退く用意と覚悟は出来ていた。所がそのお侍、かなり人の良い、心の広い方であったらしく「そうか。初めてのお城下見物か、仕方がないのう、以後気をつけて歩け。しかしながら、百姓の手と云う物は臭いものじゃのー」と云って許してくれたそうな。
 城下からの帰り道、北川さんとこの話を繰り返し話しては笑い、笑っては言い続けながら、岩佐に帰った、という。
   七 三次さん夫婦
 三次さん夫婦に女の子が生れた。家族は途端に忙しくなった。ことに嫁さんは目が廻るほどに。嫁さんが「赤ちゃんを、ちょっと抱いていて」といって、三次さんの膝《ひざ》の上に置いて家事にかかった。そのうち、赤ちゃんがむずかかって泣き出した。三次さんは赤ちゃんをあやしもせず、抱いたままであった。赤ちゃんは火がついたように泣きおらぶ。嫁さんが勝手から飛んできて、「まあ、お前様は子守もろくにできない。極道されや」と、怒ったが、三次さんは平気の平左衛門「お主は子を抱いてくれと云ったから、云った通りに抱いたままよ。あやせとも守をせよとも云わなかった。それやのに極道されと云われては、割が合わない。世の中にお主ほど得手勝手をいう者が居るものか」といった。
 また、これによく似た噺で「火を見ていて欲しい」という噺がある。三次さんの嫁が夕餉《ゆうげ》の仕度をしていたら、三次さん仕事から帰ってきた。小忙しい嫁は「釜の火を見ていて」と云って出て行った。用事を済ませて帰ってみると、ご飯が焦げ付く匂いがする。あわてて飯釜を開けると、すっかり焦げ付いている。それでも三次さんは、薪をせっせと竃《かまど》にくべていた。嫁が荊棘《ばら》になって怒ると、「お主は火を見ておれと云ったから、云った通り、煙の中で涙を流しながら、火が消えないように焚いていただけだ。何が悪い。お主は飯炊きをしておれとは云わなかったぞ」と、言い返したそうな。まことに、奇人・変人の躍如ってことでしょう。
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。

                         文 津 室  儿
                         絵 山 本 清衣

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2012年1月9日月曜日

おどけ花

         おどけ花
  数十年ぶりに「おどけ花」が咲いたぞ、と知人の知らせ。はやる気持ちを抑え案内を請う。
 この行事は室戸岬津呂に古くから伝わる一月の奇習の一つで、初嫁の家が舞台となる。最御崎寺のご本尊、虚空蔵菩薩の初祭り十三日。初嫁の家の者たちが、お参りに出掛けた留守を狙って行われる。
 仕掛けるのは近隣のおばちゃんたちである。
門口には竹竿、長さ一丈(約三㍍)余り、先端に扇を二本開いて付ける。一本は初嫁の実家の弥栄を、いま一本は嫁ぎ先の弥栄を念じる。
 扇の要に、女性の袋帯三本を二つ折りにし結ぶ。要より三・四尺下に、角樽を結び喜びを添える。袋帯には福招来をかけ、初嫁の末長い幸せと、早く子宝に恵まれることを祈念して飾ってあった。
 この花を仕掛けられた家は、簡単な手料理を作り近隣者をもてなす。近隣者も、有り合わせの料理を持ち寄り歌い興じる。主として女性の祝宴である。
  埋もれた伝統に花を咲かせたのは、未婚者の多さに憂い少子化を憂いながらも、地域を愛するおばちゃんたちの底力と知恵であった。この花が咲き続けることを念じながら見せてもらった。
         この奇習を「花立て」ともいう。              (儿)
             
               高知新聞「閑人調」掲載
 
 
 

2012年1月5日木曜日

                           風 
  せわしなくも、のどかさを秘めた年の瀬の風習をどこに運び去ったのか。畳を道端に出しお日様にさらす。障子の張り替えと大掃除にかかる。餅をつく杵の音も聞こえない。さりとて、新しい風習も見当たらない。
  千の風ならぬ師走の風は、祖父を思い出させ焼き芋の香りが甦る。墓掃除のお供をした。一抱え二抱え三抱え、と落ち葉を集める。落ち葉の中に、子供のこぶし大の薩摩芋を放り込み落ち葉焚き。
 掃除も終りに近づくころには、焼き上がった芋の香りがそこかしこに漂う。真っ黒に焦げ上がった熱々を頬張る。その美味さは格別だった。
 信心深く、先祖を敬う祖父は、文久三年生まれ九十三歳で身罷った。五十数基の墓に眠る先祖の人となりをよどみなく語ったものだ。その話はまるで昔話や伝説を聞く思いだった。中には地域に密接に関わった人もいて、親しみや温もりを身近に感じさせた。
 かつて、春秋のお彼岸、夏のお盆、そして新年を迎える暮れの墓掃除は家族総出の行事であり、故人と語り合う場所であった。今、そこは空ろである。
    風が囁く。おおつごもりは近い、早く掃除に来るように、と。祖父からの伝言だった。
                                                      (儿)
              高知新聞「閑人調」掲載

2012年1月1日日曜日

三 自然児三次さん  四 鴉退治



    三 自然児三次さん

 三次さんの住んでいた桑ノ木集落は三軒家で、浦(町)から佐喜浜川を遡ること、約二里半(約10㌖)の奥地である。桑ノ木の谷口から山口(双方地名)の在所まで約1㌖ほど、この地は両側の山がせまり川幅が極端に狭くなっている。そのためこの辺りを、狭門《せぼと》又は瀬細《せぼそ》といった。こういった地形のため水流も激しく、夏は涼しいが、冬になると風が吹き抜け、川風の寒い事は思いの外であるといわれる。
 昭和の始め頃まで、この川沿いの人々・特に女の人たちは、冬の間は駄賃馬曳《だちんばひ》き(馬に炭など荷物を背負わせ、駄賃で運ぶ意)の副業をしていた。
 冬枯れの夕べ、早朝、この瀬細の川風に吹き曝《さら》されて馬を曳《ひ》いてゆく寒さは、また一入《ひとしお》である、といわれた。
 三次さんは自然の侭を、自然の侭にやってのける人であった。ある日、中尾集落の知人の厄抜けの宴に招《よ》ばれた。夜が更けるまでご馳走になり、千鳥足で桑ノ木の家に帰っていた。夜道の川筋二里は寒く楽ではない。それに、夜風に逆らって歩を進めるのは疲れる。三次さん「ええい、ここらで一口寝てやれ」と、ばかりに河原の石を枕に風呂敷をかぶって寝てしまった。そこに、まだ薄明かりの瀬細の河原を、急ぎ足で駄賃馬を曳く頬被《ほほかぶ》りの女姓が「河原の馬道に風呂敷が落ちている、誰のだろう!」と草履《ぞうり》の先でポンポンとける、と「まだ日は出まいが」という声がした。まさか、人とは思いの外、駄賃馬曳きは吃驚仰天《びっくりぎょうてん》した。「ありゃありゃ、こりゃー人様かえ、こんな所で捨たって居るとは、一体全体お前様は誰ぞ」と声をかけた。「おらあ三次よ。そんなに蹴《け》ったら、首の骨が折れるが」「まあまあ、三次さんでしたか」と。
 すべて「三次さんが」で方《かた》がついた、といわれる自然児であった。「それ以来瀬細の風呂敷は拾われん、拾っても使えない」といわれ、拾う者は居なかったという。
   四 鴉退治
 三次さんの職業は杣・木挽きであったが、鳥を捕る事も名人であった。ことに百舌《もず》を捕る腕にかけては、まさに日本一だと自慢するほど上手であった、という。
 桑ノ木谷の出口に「みなと」という保佐《ぼさ》(雑木・燃料木)の集積場があった。奥山で伐った保佐を、ここで掽《はえ》(一掽は、長さ60㎝×高さ150㎝幅×600㎝)て石高を調べ、大水の出た日、下流へ流すため大勢の杣人が働いていた。(保佐は阪神へ出荷)そこにずる賢い鴉《からす》がやって来ては、杣人の弁当を盗み山へ運んだ。三次さんも時々やられた。三次さんは、ずる賢く弁当を盗む鴉が大嫌いであった。そこで最も難しいと云われる鴉退治に挑戦するため、綿密に計画を練った。
 三次さんは、ある秋の夜明けから鴉退治をはじめた。山陰の泉の沼地に、鴉が集まりガァガァと話し合いを開く。沼地の間際には、身体《からだ》を炭窯《すみがま》の煤《すす》で真黒に塗り染めた三次さんが、両手に「握り飯」を持ち座っている。鴉は握り飯は喰いたいが、どうも怪しいとの思いか!、ガアガア鳴くばかりで寄りつかない。やがて第一日目が暮れた。
 三次さんの女房も似た者夫婦である。帰らぬ三次さんを心配するでも無く、またどこかで大法螺《おおぼら》を吹いて居るだろう、と思う程度で太平楽な女房であった。
 二日目の朝が来た。鴉は早朝にやって来た。昨日の人間に似た怪しい木の枝が、握り飯を持ったまま今朝も夜露に濡れている。。鴉は大した危険はなさそうだと話し合った、が念には念のためにもう一日様子を見よう、とその日も山へ帰ってしまった。
 三日目の朝が来た。鴉は囁き合った。「これはどう見ても木の株だ。枝の先にある握り飯は、杣人の忘れ物だ。喰わんか、来い来い」と云ったが早いか、四、五羽の鴉が一斉に握り飯に集《たか》った。その瞬間であった。三次さんは目にも留まらぬ早業で、渾身の力を込め、両手に二羽ずつ鴉を握り絞めた。鴉はバタつき踠《もが》くが後の祭りであった。三次さん、にんまりしながら桑ノ木の家に帰った。すると女房は吃驚仰天である。真黒い男が、真黒い鳥を両手に提げて立っている。「お前様は、一体どなた様で」「どなた様とは、これ如何《いか》に。お前の亭主の三次様よ、よくよく見ろ」といった。三次さんの女房、これには本当に呆《あき》れ返り、魂消《たまげ》たそうな。
 「儂も随分と何かにと殺生をした。喰わぬ殺生はするものでない、と云うから鴉を喰ってみた。鴉だけは喰うものではない。白粉《おしろい》臭くて、喰えたものではない」と、後日人々に語っていたそうな。
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。

           文 津室  儿
           絵 山本 清衣
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