2012年3月25日日曜日

シイの実

         シイの実
 植物研究家、小林史郎氏が本紙「所感雑感」に寄せた「初夏の野山が呼んでいる」を読ませて頂いた。種子植物の果実は一年で成熟すると考えていた者にとっては、シイの実の謎にビックリ仰天した。      
 この季節の本県の低い山を「もこもことしたブロッコリーのような形の大木が薄い黄色に色づいているのが遠目によく見えます」と描写する小林氏。これがシイの木の花で、たくさんの花の穂がそう見せている。文面を再現させていただくと、「枝をよくよく探すと小さなシイの実ができ始めている。これは去年咲いた花が結んだ実で、今年の秋に熟す。今年咲いた花が実るのは来年になる」、とのことだ。
 実に十九ヵ月、象の妊娠期間二十二ヶ月に迫る長い時間を要している。にわかに信じ難く、シイの木林に足を運んだ。事実であった。種の神秘を少し教えていただいたことがうれしい。
 小林氏は、「複雑で微妙で多様な営みがあるということにわくわくしながら、初夏の野山に出向いています」と結んでいる。今まさにわくわくする季節であり、秋の彩りとは趣を異にした快さがある。氏にならって出かけよう。
                                                      (儿)
              高知新聞「閑人調」掲載


2012年3月20日火曜日

初がつお

     初がつお

 「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」という句は、重ね重ね耳にしても新鮮で、清々しい。自然のエナジーを宿しているからか!
 土佐のカツオ漁業は寛永一八(一六四一)年に、室戸岬津呂浦の郷士山田長三郎が、藩の許可を受け二隻の鰹船をつくり、立岩崎の磯のくぼ地に船曳場(坂本港)を設け、カツオ漁を行ったのが土佐の創始と伝わる。また、幡多郡以布利まで出漁をして、地域一円にその漁法を伝え指導を怠らなかった。この事績は地元民の誇りである。
 長三郎は、ほかに酒呑童子を負かすという酒豪伝説の持ち主である。今につながる末裔はその血脈にたがわず豪快である。
 カツオ漁は江戸時代から明治にかけて多様な漁法が行われたが、網漁の衰退とともに一本釣り漁のみ生き残り、カツオ漁といえば一本釣りを意味するようになった。
 今、漁業の不振にあえぐなか、県内二○○五年度の経済統計で産業別生産額が一位となった市町村をみると、水産業は今なお室戸市である。
 「今一度、水産を選択すべき候」であろう。         
                               儿
              高知新聞「閑人調」掲載

2012年3月14日水曜日

十九・虎杖 二十・偽の聾唖 二十一・最も暑い夏 二十二・口髭と耳朶



 十九 虎杖
 三次さんはある時、虎杖《いたどり》(イタズリ・土佐の方言)の伸びる様子を見てやろうと思った。中里の虚空蔵庵の河原にやって来てきた。四寸(12㎝)ほどの虎杖を見つけると、三次さん虎杖の側にごろりと横に寝ころび、一心不乱、瞬きもせずに見つめ続けた。夜が来た。三次さんは、まるで倒れた地蔵さんの格好で動こうともしない。朝が来た。寝ずの番で見続けた。虎杖の旬は、春もたけなわ四、五月頃、虚空蔵庵の長閑な朝の景色は一幅の絵画である。通りすがりの人々が「三次さん、伸びたかえ」と問い掛けた。すると、三次さん「うん、伸びたには伸びたが、いつの間に伸びたか分からんきににゃ」と答えた、という。
 この三次さんの「虎杖の成長を・・・」は奇行噺中でも、最も趣のある類であり、まさに禅問答である。

二十 偽の聾唖
 ある時、三次さんが借金をした。何を思ったか、偽の聾唖者に成りすまし、借金取りが来ても、取り合わなかった。こうして、聾唖で三年間押し通したが、ついにばれる日がきた。保佐《ぼさ》の川流しの際、川水が少ない時は川を塞き止め、充分に水を溜め、一気呵成に堰を崩し保佐を流す。この堰を崩せる人は三次さんしかいない。と或る日、三次さん堰崩しに雇われた。手はずは、「堰の留め具をはずした瞬間、岸に逃げ込む」いつになくもたついた三次さん、逃げ込む前に堰が切れてしまった。三次さんたまらず、潜り込み保佐と大水を遣《や》り過ごした。やがて静かになった水面に浮かび上がり一息ついた。岸で見ていた人々は、最早三次さんもこれまで、と思った矢先、無事に浮かび上がり大喜び。「三次さん、大丈夫か」との声に、ついうっかり「おお、大丈夫じゃ」と応えた。これでついに、偽の聾唖がばれてしまった。そこで、借金は皆が小分けして払ったそうな。
 この話は、誰もが三次さんに敬慕の情を以て接する。それを妬む者が、汚点を付すためにたくらんだ作り噺だと伝わる。

二十一 最も暑い夏
 元治元年(一八六四)三次さん五十四歳の夏であった。八月二日、岩佐の関所(投獄された武市半平太を救おうと、嘆願を協議した場所)に人々が満ち溢れた。土佐勤皇二十三士が阿波に旅立つ朝であった。
 この頃の三次さんの仕事は、杣や小作、野根山街道の保全であった。木を伐り草を刈り、それはそれは見事な仕事ぶりであったという。岩佐の関所の誰もが三次さんに親しみをもち、身内同然の存在だったそうな。ことに伴頭の川島惣次さんや番士の北川さんに可愛がられ、関主の木下嘉久次、慎之介の兄弟は物心がついた頃から随分なついていたという。この日、十六歳になった慎之介さんの顔が随分大人びて逞しく見えたという。
 一ヶ月後、岩佐の関所に歴史的な悲しく切ない話がとどいた。三次さんは、三人に思いも掛けない形で再会する。それは、罪人として唐丸籠の中にいた。阿波の海部で囚われ、田野郡奉行所に送られる二十三人を、岩佐村七十余人が見送った。三次さん、面会を申しでた。許され。三人は異口同音に「おう三次さんか」と、小さな唐丸籠の穴の向うで微笑んでいた。「三次さん達者でな」と惣次さんが声をかけてくれた。束の間の再会であった。二十三人は、三日間に分けられ送られた。田野に着いた一向は、詮議の機会も与えず斬罪に処せられた。奈半利川が処刑の場となり、川が血で赤く染まったという。悲しい知らせは、その日の内に岩佐に届いた。三次さんは三日三晩泣き明かしたという。三次さんにとって、この年は生涯で最も暑い夏になった。
 時は移り、明治三年(一八七〇)岩佐の関所は廃止となり、二年後に岩佐村も廃村となった。生涯で最も暑い元治元年の夏以降、ユーモアに満ちた三次さん噺は聞かれなくなった、という。
  
二十二 口髭と耳朶
 晩年の三次さんは、立派な口髭を生やしていた。三尺(約90㎝)余りの長さを誇り、真っ白い髭は、毎日上等の茶葉で磨き上げ輝いていた。明治二十年代に、その髭を三百円という大金で買いに来たが、三次さんはどうしても売らなかったという。
 三次さんの最後の言葉を、白壁のお婆《ばば》さんがこの様に伝える。死ぬ間際、自分の耳朶《みみたぶ》をつまみ、「こりゃ耳朶よ、お前は一生俺を騙しよったにゃ」と、一言云って死んだそうな。
 お婆は、次のように言って見送った、という。三次さん、貴男は決して耳朶に騙された人生ではありません。私たちに心温まる多くの噺を残してくれました。後の世の佐喜浜人の気持ちは、次の通りです。「三次さん、前田三次郎さん有り難う」です。 合掌
 三次さんは、坂本龍馬と同様に、生没月日が同じで、文化十三年三月十七日生れ、明治二十七年三月十七日に没し、享年七十八歳の生涯でありました。
 三次さん噺は以上で「完結」です。長い間お読み頂き、有り難うございました。次回より通常に戻ります。お楽しみ下さい
          文 津 室  儿
          絵 山 本 清衣

  

2012年3月8日木曜日

鯨舟唄

          鯨舟唄
  学年末も押し迫った日、室戸小学校五年生の皆さんから一日先生を請われた。
代表のM君から「私たちは六年生になると、室戸の伝統芸能・鯨舟唄を保存会の皆さんに習います。この唄がどこで生まれどのような時にうたわれるか、昔の捕鯨や鯨の事を少しでも多く知りたくて、お願いをしました」、と挨拶をうけた。
  鯨の古称や種類から話しを始める。体長や重さ、狩りをして餌をとる様子。捕鯨を始めた理由、唄は突き捕鯨から網捕鯨に移る天和三年(一六八三)、網捕鯨の指導に来た太地の漁師(七十人)たちが伝え、豊漁祈願や鯨の鎮魂のためにうたったこと。          
 三津漁港のゴンドウクジラのゴンちゃんは死産の赤ちゃんへ細やかな母性愛をしめした。四十九日の法要を行い畏怖畏敬の念を表した地元漁師。大海原に帰したゴンちゃん、深々と三度お辞儀をして去って行ったこと。 
 非日常的な話が新鮮だったか、良く耳をそばだててくれた。「ゴンちゃんやほかの動物にも心があって、人間と通じ合えることを知って感動した。今日の話を唄に込めてうたいます」と綴った感想文。慈しむ心の芽生えがとどいた。
                                                        (儿)
                高知新聞「閑人調」掲載



  

2012年3月1日木曜日

十六・剣の達人 十七・胴乱 一八・削り

 


  十六 剣の達人
 野根山街道、岩佐の関所は関守が五人いた。関守らは勤めの合間に、剣道の鍛練をするのが常であった。又、学問にも励んだ。三次さんが、色々な知識を持ち合わせていたのは、門前の小僧の例えに漏れず、関所の講義に耳を傾け、剣道は関守の川島惣次さんや北川さんに手解きを受けていたからだ。その上達振りは誰もが目を見張ったという。
 ある日、稽古の最中《さなか》に、旅の侍が通りかかった。その侍「一手、お手合わせを」と云ってきた。余ほどの使い手か、関守は誰一人敵わない。何を思ったのか三次さん「儂でもかまわんか」と一歩前にでた。旅の侍、「お主は侍では無いが、まあよかろう。何処からでも打ち込んで参れ」といった。三次さんの竹刀は普通の代物ではない。「葛《かずら》」で出来ている。三次さん、上段に振りかぶり打ち下ろした。見事に面が決まる。侍は竹刀を水平に、頭上で受け止めた。しかし、三次さんが打ち下ろした竹刀は、大きく曲り先端は背中からお尻までとどいた。「うおっ」と、何者の声とも云えない叫び声を上げ、気を失ってしまった。気を取り戻した侍、相手が居ない。「あの人は、あの方は、何者でござる」と、狼狽《ろうばい》する。惣次さんは「おおかた、この野根山の天狗じゃろう」と、こたえた。侍は、怪訝《けげん》な顔で関所を立ち去ったそうな。   
 十七 胴乱
 明治の少し前と云うから、慶応年間の話である。佐喜浜の小山《おやま》に田中清次郎という人がいた。清次郎さんの家は庄屋で、庄屋職のかたわら農業と山仕事をこなしていた。冬場は猪狩りに出たりした。狩猟の手ほどきは三次さんであった。田中家の田畑の一角に、山内地(藩有地)が二反ばかりあり、作った米、六割を岩佐の関所に拠出する。そのため税金は免除されていた。秋の収穫期には、岩佐村の人々が米を運び出しに挙《こぞ》ってやって来た。
 ある日のこと、田中家で法事が行われ、三次さんも招かれた。話題はこの冬、清次郎さんが仕留めた大猪で持ち切りだった。三次さん、その猪の牙を見て、「清次郎、儂にてんごー(余計な手出し・お節介)させてくれんか」と云って、牙を持ち帰った。四、五日すると、見事な胴乱《どうらん》(革又は羅紗《らしゃ》、布などで作った方形の袋。元は銃丸を入れる袋だったが、後に薬・印・銭・煙草を入れて腰に下げるもの)となって返ってきた。胴の部分は、躑躅《つつじ》の根の瘤《こぶ》で作り、牙は根付《ねつけ》(胴乱が落ちないよう、その紐の端に付ける留め金)にして二行の漢文が刻まれていた。「見事な出来栄えに」誰もが感心した。皆が「三次さん、この文の意味は」と問いかけた。三次さんは、「てんごーよ」と云って微笑むだけだった。
 清次郎さんは、気にかかって仕方がない。漢文に詳しい人を尋ね歩いた。中里の植松龍太郎さんに辿り着いた。植松さんは、即座に「諸葛孔明《しょかつこうめい》の出師《すいし》の表《ひょう》(上奏文・誠忠と憂国の至情にあふれた名文)の一節だ、と応えた。一体誰が作った胴乱だ、細工も見事なものの、出師の表を知る人とは」とほめたたえた。三次さんの作だと話すと、「ほうあの人が」と、あんぐり口を開けて見とれていた。
 三次さんのユーモア噺のかげに、見識を備えた人間の大きさが伝わってくる噺である。
 十八 削《はつ》り
 佐喜浜の根丸に、粉川浩然と云う人がいた。根丸で一番の知恵者と云われ、二十三士事件では、佐喜浜側の討伐隊長として岩佐の関所に出向いた。中尾集落に分教場が出きると先生になり、子供たちに慕われた。この人、無類の三次さん好きであった。佐喜浜八幡宮が、明治九年に焼失した。その再建が始まるや、暇を作っては建築現場に足繁く歩を進めた。浩然さんの楽しみは、三次さんがいつも建物の一番高い所で働いている姿、立ち居振る舞いを見ることであった。梁《はり》や屋根の天辺を、地表と同様に、すたこらせっせと容易《たやす》く歩く姿は、まるで芝居の演者と重なると云う。
ことに、前手斧《まえちょうな》(鍬形《くわがた》の斧《おの》)を使う技は見事で、三次さんが削った部材は仕上げ鉋《かんな》を必要としなかった、という。その技術の見事さは、後々まで語り種となっている。
 翌、明治十年、八幡宮は竣工した。拝殿の扁額には、多くの奉納・寄進者が名前を連ねている。しかし、前田三次郎の文字は、どこにも見当たらない。三次さんの奥床しき人柄が偲ばれる。
 次回も三次さん噺、お楽しみ下さい。
                          文 津 室  儿
                          絵 山 本 清衣