2012年4月20日金曜日


古式捕鯨・太地と室戸の技術交流

                                                                    津 室  儿

はじめに

 紀州・熊野に想いを馳せれば、平成16(2004)年に奈良山地の高野山と共に熊野本宮大社を初めとする速玉大社・那智大社の熊野三山・古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されたことが先程のように甦り、記憶に新しいところである。又、黒潮の分水流に因って持ち運ばれた海洋文化や宗教文化が室戸の地に齎された事は周知に余りある。
 さて、拙子、はじめにお断りをして置きたい。漁業史・特に捕鯨史を体系的・学問的に学んではいない。わずか数冊の文献や古老の話に耳を傾けた趣味の域に留まり、耳学問の粋を超えていないこと。論文の形式すら知らず、その体をなしていないことを予め心に留め置き、お許し頂ければ幸いである。

土佐・突取捕鯨のあらまし
 室戸の突取捕鯨の創始者は、元は細川家の家臣で水軍の武将・多田五郎右衛門尉義平である。五郎右衛門の父・多田筑前守元次は、四国の覇者・ 長宗我部元親が九州戸次川の戦い(九州の関ヶ原「大分県戸次」)に参戦のとき、泉州小島に籠居中であったが、元親に請われ水軍を率い長宗我部家臣として軍勢に加わった。その功績により、土佐沿岸諸税免除(漁業権)のお墨付き(天正14「1585」年)を得て土佐に入った。
 また、関ヶ原の戦いにて武功を立てた山内一豊は土佐一国を与えられた。一豊は入国に先立ち、弟・康豊を慶長五(1600)年海路・甲浦《かんのうら》(現高知県東端・東洋町)に上陸させた。五郎右衛門は帰順の意を表して甲浦に迎え、陸路・浦戸《うらど》(現高知市)まで供奉し、翌、慶長六(1601)年、新国守山内一豊を迎え浦戸へ無事送った。一豊は五郎右衛門の帰順を喜び津呂浦の大庄屋職と土佐沿岸海防の任・浦周辺の治安統制の役を命じた。時は文禄征韓の役より三十数年余りであった。
土佐一沿の海岸防備を担った五郎右衛門は小禄ため、軍夫200人の扶持給養する事ができないために百方苦慮を重ねていた。
 
 五郎右衛門は、たまたま突取捕鯨法を西国(西国の範囲・畿内を含む西日本諸国)より知り、大いに喜び伝承したとある。しかし、「熊野太地浦捕鯨史」に依ると、五郎右衛門が津呂浦に定住したのは天正年間だが、津呂浦で好んで浪人生活をしたと言うのも、いたずらに権威に屈して、陸上の勤務に生きるよりも、拘束のない海での自由な生活の魅力に引かれることが強かったのではないか。熊野と京阪地方とは早くから往復が頻繁だったから、泉州に居たことがある彼が熊野の海賊や水軍、はては捕鯨の行われていた事を知らないはずがない。と、記している事からも、また、ただちに十三艘の鯨舟を建造し捕鯨に取り掛かっているが、鯨舟建造のノウハウは以後の交流を眺めて、慶長十一(1606)年突取捕鯨が日本で最も早く始った、紀州太地浦からの導入ではなかったかと推測するのは過当であろうか。土佐(現高知県)古式捕鯨が生業として組織化されたは、寛永初年(1624)土佐東部・津呂《つろ》浦(現室戸市室戸岬町)の地であった。
 
 突取捕鯨は寛永五(1628)年頃には隆盛を極めた。 「津呂捕鯨誌」は五郎右衛門の喜びを以下のように記している。
「孜々、斯業に従事せしか果して其効を奏し、寛永五年に至て漁業大に隆盛を極め二百人を扶持する事を得たり。五郎右衛門・曰く、天の時を得、地の利を保ち、能く人と之を共にするは仁なり。若し斯業を永続すれば、二百人の人夫招かざるも来る。然らば則ち邊海を警戒し一朝外寇の侵し来るあるも、海事に慣るヽを以て緩急之に応ずるの策を講ずるに足ると、依て其子五人を訓ヘ厚く此意を服膺せしむ」とあるも豊漁は長くは続かなく、不漁が重なり寛永十八(1641)年五郎右衛門は捕鯨組を解散せざるえなかった。
 
 五郎右衛門の廃業以来十年を経た慶安四(1651)年、土佐藩家老・野中兼山の知遇を得た、尾張の国(愛知県)より尾池四郎衛門が来て捕鯨を始める。一時期豊漁で賑わい、他国の鯨組も浮津《うきつ》浦に渡来したがしだいに振るわず、明歴三(1657)年尾池組はわずか七ヶ年にて帰国する。
 地元民は困窮し他国へ逃亡する者が多く出たと、「津呂捕鯨誌」は伝えている。以後七年間の休漁後、万治三(1660)年土佐藩の援助により津呂・浮津両浦が捕鯨を始める。しかし、浮津は地下組としては初めてであり、津呂組に置いても五郎右衛門廃業以来二十年を経ていたため漁労幹部(指導者)を太地浦より、羽差十二名(六兵衛、七郎大夫、善四郎、六朗五郎、甚大夫、由大夫の六名を浮津組に聘用・長大夫外五名を津呂組に聘用)したと記され、太地との交流はこれが二度目であろう。好漁・不漁の時を刻みながら天和二(1682)年まで五十八年間に及ぶ突取捕鯨はつづいた。

網捕鯨の導入
 土佐に置いては、未だ突取捕鯨が行われていた頃、熊野太地では太地覚右衛門頼治が開発した網掛突取捕鯨が始まり、その漁法の素晴らしさは諸国に伝わっていた。五郎右衛門の嫡男、吉左衛門尉清平はこれを聞き喜び、当地に導入するため、天和元年(1681)浮津覚右衛門・水尻吉右衛門を伴って熊野太地に赴いた。覚右衛門頼治に面会を求めたが許されず。浮津覚右衛門と水尻吉右衛門の二人を故郷に返し、自らは残り覚右衛門との交流の機会をうかがった。太地浦とは三度目の交流に入った。
 津呂組へこの新漁法が伝えられた経緯・吉左衛門の二年間に渡る生活模様を「津呂捕鯨誌」は以下のように記している。
 延宝五(1677)年、紀州熊野浦・太地覚右衛門頼治なる者、鯨網取の法を開始する、吉左衛門之を聞き、天和元(1681)年紀州に赴き覚右衛門頼冶に対面せん事を請う、聴かれず。
此に於いて吉左衛門水夫となり小腕返しの櫓を押し、或は水練の妙術をなし又は市中に入りて碁を囲む、技術群を抜き弟子日に集まる。
 入る事二年、初めて覚右衛門に対面する事を得たり。覚右衛門曰く、汝何人ぞや、曰く、水夫なり、覚右衛門其の人品の卑しからざるを見、謂いて曰く、応《まさ》に水夫には有らざるべし、何ぞ真実を告げざる、爰《ここ》に於いて答えて曰く、予は土州津呂の住人多田吉左衛門尉清平なる者なり。「誠に神妙の至り、及ばずながら網鯨の法を伝授致す、然らば、土佐の突鯨の法と比較し、網鯨の法の改良すべき処あらば、遠慮なく申せ、」然らば申す、当地に来て鯨を網するの業を視る事巳に二年、其の鯨を網し、鈐《けん》(剣!)を伐り、舟に緊《しば》るに及びて往々鯨躰を沈没せしむ、これ水練に長せざるの致す所、真に惜しむべきの至りなり、今や予水練の術を授く、応に幾分か裨補《ひほ》する処あるなるべし、予元捕鯨の家に生る。先に乃父《だいぶ》五郎右衛門国家を益せん事を思い、突鯨の法を得二百余人を扶持せしに終に漁法の未熟によりて廃せり、実に蓋世の憾とす。足下何とぞ予を門下に致して鯨鯢を網するの法を伝授せざる。然るときは一は以って乃父の遺業を興し、一は以って国恩に報ずる事を得ん、何の喜びか之に如《し》かん、予の遠く郷を離れ此の地に来り辛酸を嘗めるは斯の一事あればなり。若し聴かれずんば唯一死有るのみ。覚右衛門其の志を憫《あわ》れみ、盡《ことごとく》く其の法を授けん事を約す。紀伊の民之を聞きて喜ばず。皆曰く、今網取りの法を土佐に伝へんか、本国の衰微期して待つべし、決して教ゆばからずと、覚右衛門思へらく、既に契約をなす。之を履行せざるは人にあらず、我豈《あに》之を忍ばんやと、竟《つい》に新宮城に到って此の趣を領主に稟申す、命あり曰く、業を建つるは天下の祥瑞なり、宜く羽刺十人其の他漁夫六十人を土佐へ遣わすべし。吉左衛門之を聞きて踴躍し、同三(1683)年漁夫七十人を卒《ひき》いて郷に皈《かえ》る。則ち之を十二の勢子船に分乗せしめ、加うるに津呂漁民を以ってし更に市艇弐艘(鯨肉運搬船)、持双船弐艘、網船四艘を造り、拮据《きっきょ》経営終に網取りの法を習得し、頓《とみ》に捕鯨の術一新を来せり(略)。
 貞享元年・網取りの法を習得し趣を藩守に上聞し、悉く紀州の漁民を其の本国に皈す、是れ実に土佐網掛捕鯨の創始にして、津呂捕鯨組中興の祖と称すべきなり。
「浮津組の網漁を始めしは貞享二年なり」と記してある。
 吉左衛門、網捕鯨法導入の苦心の様子をこの誌面より知る事が出来ると共に、太地覚右衛門頼冶との知遇・新宮領主水野公のご懇情に触れたことは、身に余る光栄であったろう。上記の文面より二人の間に技術交流が成立したことがうかがえる。さて、網捕鯨導入を得た津呂組は天和三(1683)年から、また浮津組は貞享二(1685)年から操業に入った。
 太地角右衛門と多田吉左衛門との交流の様子に付いては、拙子に当「熊野誌」(捕鯨特集)に寄稿を進めて下さった、太地亮氏が平成十八年「熊野誌」第五十二号(太地角右衛門と熊野捕鯨(XI))・同十九年「土佐史談」第二百三十四号(多田吉左衛門と網掛突取捕鯨)又、同氏が既に上梓されている「鯨方遭難史」に詳しく論述されている。参照いただきたい。

土佐捕鯨が伝えた技術
 手形を切る「津呂捕鯨誌」抜粋
 既に鯨鯢の網中に入りしを見し時は、水夫一同絶えず大聲を発し、羽差は銛の柄にて船板を突き、櫓手は足を踏み鳴らし、或いは槌にて外板を叩くを以て鯨鯢益々驚駭《きょうがい》奔騰し、網を被り遠く洋心に向かって遁逸せんとす。此の際各網を連綴せる「ハッカイ」(細い藁縄)と称する細縄は直ちに断絶するを以て、網は次第に幾重にも鯨鯢の頭及び胸鰭に纏着す為に遊泳をして自由ならざらしむ。
此の時、勢子舟の羽差は各舷頭に立ち能く鯨体に向けて大銛又は樽銛を十歩の外に投ずる。之を投ずるには鯨体に當りたる鉾先の手前に向き、柄は前方へ開く様、投げるを以て柄に約せる。
綱を索引すれば鯨鯢の游行により銛莖曲り釣の如くなり、愈々《いよいよ》深く体中に入る。銛次第に倒立し鯨背(鯨の背中)蝟《はりねずみ》毛の如くなれば、鯨狂號、気息益々急に尾鰭《おば》又は胸鰭《むなびれ》を以て殆ど船を顛覆《てんぷく》せんとするもの数次に及ぶ。裸組(若い)の羽差、之を見るや早くも口に手形包丁を啣《か》み跳て海中に入り、鯨体に就て噴水孔の後方なる隆起せる堅靱の部を雙方より深く切り、其の切り口に手を挿入し以て双方に透徹せるや否やを試み、高く劔を擧て之を各船に報ず。其の手形を切り又切り口に手を挿入する際、鯨鯢の躰を反転し或は深く海中に没する等の為に羽差は数分時、海中に沈む事あり。
此の場合に至っては沖配は船上に在りて、終始気息を詰め、一息既に盡き又一息をなし既に三回の気息をなすも、尚、海中に沈入し羽差の浮び出ざる時は他の裸組数名の羽差をして、鯨体の顕はるヽを見るや否や代って手形を切らしむ。羽差、命に応じ直ちに海中に飛び入り、或者は前の羽差を船中に扶け上げ、或者は鯨背に攀付《はんぷ》(よじ登る)し、以て穴を穿つ、其の業をなすは実に九死一生の労役にして凡庸怯懦《ぼんようきょうだ》者の為す能はざる所、時として鯨鯢の尾鰭又は胸鰭の先にて撲殺さるヽ事あり。故に手形を切るに當ては鯨鯢の頭の方より遊泳し、鯨体に達すれば終始之に離れざる様に努むるものとす。
 既に鯨体に穴を穿ちし時は持雙船より下櫓押なる者、手形綱を携え海中に飛入り其の切口に貫通し、之を船に縛す、其の如くすること数所、此間終始船上よりは銛を投ずる。既に沖配に於て数ヶ所の手形を旋せしを認むる時は、各船をして順次に鯨背及び脇腹に劍を投せしめ劍に約せる。
劍引綱を曳かしむれば鯨鯢苦痛に堪えず死力を盡して身を激動し迸血淋漓《ほうけつりんり》海波為めに紅を呈す、此の劍を旋すは従前は勢子船半ば銛を投ずれば直ちに之を行いしを以て益々鯨鯢を狂奔せしめ、時に之を逸し或いは死に至らしめ海底に沈没せしめし等の事ありしも、明治二十四年頃より技術を改め現時の如く手形を切り、綱を持雙船に縛る後に至て始て之を行うに及びしより、又、逸出沈没等の事なきに至れり。以上は鯨鯢の網中に入りたる時の捕獲法なれども、鯨鯢狂奔を極め稀に網を破て逸出する事あり。此の際は各勢子船は互いに勇を皷し、他に先て第一着に一番銛を投せんと先を争いて急追し、遠距離より早銛を投じ、鯨の再び海面に頭を擧ぐる時、又、他の銛を投ずるものとする。而して其の擘頭に突きしものを一番銛と云い、次を二番銛、其の次を三番銛と稱し捕獲の後、賞を受くる、格差あり。

手形を切る「日本常民生活資料叢書第二十二巻・土佐室戸浮津組捕鯨實録」抜粋
 投網の仕方は、潮の順調の時、若しくは鯨が方向をかえる恐れなき時は、鯨の通路を遮ってやゝ曲線を書きながら、前後四・五重位に網を卸すのですが、然らざる時には、臨機に片方或は兩方に餘分に網を増して投ずるのであります。片方に餘分に漕ぐ時これを片巻きと云い、兩方に増し漕ぎする時、これを兩巻きと云います。樽番船は夫々前網船を曳航し、その網船が投網し終るや直ちに網の背後に廻っています。他の多くの勢子船は鯨の背後に廻って駆り立てる。そして鯨が網を被ったと見るや否や、樽番船の羽差は時を遷さず銛をつける。最も重い役目の船であります。樽番船が銛をつけると、爾餘の勢子船は出来るだけ鯨に近寄り羽差が銛を投ずる。
銛は最初、早銛の方を用い、後、大銛を投げます。突き刺さった瞬間の銛の形は、銛棹が向こう側へ傾いている。銛棹には縄が結付してあって、その端に曳かせ樽がある。銛は生鉄で出来ている。
柔軟であるから、鯨が進行すると樽の重さによって生鉄が曲り、その為、却って抜け難くなるのです。鯨體に幾本かの銛が刺さると、次に機会を見て赤舳《みよし》の羽差が手形包丁を持って飛び込む。
是等の羽差は、常に帯を前に一重に結び、水にぬらした紙が切れる程、研ぎすました包丁を目の前に置いて様子を窺っているのであって、各々他に先んじようとし努力する。
海中に飛び込んだならば、羽差は鯨の胴中から鯨體に上がり、突き刺さっている銛を左脇下に掻い込んで身體の位置を保ち、右手に刄を向うにして包丁を持ち、下の口より左へ刀を押して横一文字に切り、次に上の口を切るのです。寸法は大體の見当でやります。血が非常に吹くので正確には判らぬから、人差指と親指とで寸法を計る。刀を入れる時、鯨は狂奔するので、餘り狂奔する時には包丁を抜いて右手にもったまゝぴたりと鯨の背に抱き附いている。若し自分の身體に網が巻き付いて来たならば、切り拂う事が出来るように包丁を抜いているのです。然し網は矢鱈《やたら》には切らぬといいます。若し網の大事な部分でも切って了えば、鯨を逸する恐れがあるからです。
鯨は下の口を切る時には狂奔するが、上の口を切る時には既に麻痺している故か、割合に穏やかであるといいます。こうして上下の口を切ったならば、各々の切り口に一本宛の腕を入れ、肉を剥いで鯨軀内に兩切口を貫通させる。以上の作業を「手形を切る」といいます。
手形を切る時コクリコクリとうなづく鯨は沈んで再び浮び揚らぬ故、かかる場合には、羽差は仕事を断念して自分だけ浮び上がって来ると云います。又、鯨があまり深く海中に没入すると四方が暗くなるそうで、そんな時には包丁を真直ぐに鯨の軀に突き刺し背骨へ切先をさわらせると、鯨は驚いて必ず海面へ急に浮び出る。かゝる場合には羽差はよく五六間先の海中へ抛り出されると云います。此のように危険な仕事故、沖配は羽差が海に飛び込み鯨と共に沈んだならば自ら一息つき、息をつめ、二息ついて息をつめ、更に三息つく。此の間に沈んだ羽差が浮かび上がらぬ時には、別の羽差に命令して更に飛び込ませるという。手形切が終ると入れ代りに持双羽差が綱を持って飛び込んで、貫通させた切口にその綱を通し、解けないように結んでくる。一つの切口に五・六本も手形綱を結びます。
此の時既に二艘の持双船は、持双柱を夫々櫓《やぐら》に組んで待っています。鯨軀に結んだ手形綱を沖配が試験して、大丈夫と見たならば鯨軀を曳いて兩持双船の間に入れ、持双柱に縛りつけるのです。
縛りつけて最早逸する恐れなしと見た時、懸命になって鯨の脇腹即ち心臓目懸けて劍を打ち込む。此の時鮮血淋漓として奔出し付近一帯の海水が赤變する。この劍を打つ事によって完全に鯨を仕留めるのであります。

手形を切る「日本常民生活資料叢書第二十三巻・土佐津呂組捕鯨史上巻」抜粋
 網がやや布き終ると共に。勢子船は総て鯨の背後に廻って狩棒を以て鯨を狩る。鯨は驚いて突進すると同時に網を被る。そこを見すまして勢子船羽差が銛を投ずる。
最初は早銛を投じ、続いて大銛を投ずる。銛は皆、生鉄で出来ており、鯨に突き刺さった瞬間には柄が向うに倒れかかるようになっている。鯨が驚いて逃れんとすれば銛の綱にかかる故に、鯨の胎體内で生鉄が曲り却って抜け難くなる。早銛の綱は船に連結して居り、大銛の綱には引樽が結付してあって海面に浮く。幾所か銛がささると機会を窺い、下位(若い)の羽差数人が手形包丁を口にくわえ我先にと海中に飛び入り、鯨體によじ上り、突き刺さっている銛を小脇に抱えて自身の位置の安定を計りつつ、横に平行に二ヶ所の切口を開き、更に此の切口に双腕を入れて貫通して帰り来る。之を手形切りという。手形切が終ると持双船の下櫓押しが、入れ代りに手形綱を持って飛び込み、貫通された切口にこれを縛りて帰る。手形綱をとればふねを鯨體に近寄せ、剣を持って鯨の胸腹部に幾ヶ所も突き立て鯨を仕留めるのである。
此の時周囲の海邊は一面赤變する。劍切りが終ると、其の時既に持双柱を以て櫓《やぐら》を組んでいる持双船の間に、鯨を引入れる。然して鯨體の下部に綱を廻して櫓に縛しつける。此の時、勢子沖配船は鯨捕獲の大印をたてる。それを見ると陸上の山見小舎では鯨見出の印をおろす。鯨を完全に櫓に縛しつけたなら、勢子船は下位の船より順に二列縦隊に列び、持双船を引き、白船、赤船が持双船の左右を守り、隊伍をとゝのへ、櫓聲《ろごえ》に櫓拍子をそろへて陸地へ漕ぎ寄せる。

技術交流の根拠
網掛捕鯨導入欄にて、既に津呂捕鯨誌抜粋・囲みにて明らかであるが、再度ここに太地覚衛門頼治と多田吉左衛門清平が初めて交わした言葉を併記する。 「誠に神妙の至り、及ばずながら網鯨の法を伝授致す、然らば、土佐の突鯨の法と比較し、網鯨の法の改良すべき処あらば、遠慮なく申せ、」然らば申す、当地に来て鯨を網するの業を視る事巳に二年、其の鯨を網し、鈐《けん》(剣!)を伐り、舟に緊《しば》るに及びて往々鯨躰を沈没せしむ、これ水練に長せざるの致す所、真に惜しむべきの至りなり、今や予水練の術を授く、応に幾分か裨補《ひほ》する処あるなるべし、上記を根拠にして、二人の間に技術交流が交わされたことに疑いはない。

土佐が伝えた技術(手形を切る)
 手形を切るとは、鯨が網を被り数十本の銛を受け、また剣を持って脾腹に突き刺し、衰弱・仮死状態を見届け、下級(若い)羽差が手形包丁を口にくわえて鯨体によじ登り、刺さっている銛を小脇に抱き足場を固め、噴気孔(鼻)の後方近く(皮が固く綱を通しても容易に切れないため)を横平行に五~六尺(1.5m~1.8m)の切り口を幅二尺(約60cm)置いて二本切り込む。直ちに切込み口より肉(約40~50貫目)を抜き取り、貫通を見届け手形綱を通し結え持双船の持双柱に繋いだあと鯨の胸腹部に大剣を持って止めを刺し仕留める。この作業(手形を切る)を伝えた。
 因みに、この技術を得た覚衛門頼治組は、天和二(1682)年の暮れより翌年春までに座頭鯨九十一頭、背美鯨二頭、克鯨三頭という、驚異的漁獲を得たことは土佐の技術が正確に伝わった証である。
 
手形を切るとの語句について
 故事にならえば、造花の三神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)に対する謝意を表すもの。国技大相撲では、勝力士が懸賞を受ける作法として、右手を手刀に中・右・左の順に切るを見かける。上記抜粋、囲込み三例をみて下級(若い)羽差の作業は身命を堵とする大変な作業である。この作業に対する対価が先に記した、抜取った肉(約40~50貫目・約190kg・乗組員に分配)を報償として受け取る作法を手刀を切ると言い、手刀が手形を切るに転じたものと思われる。

土佐が授かった技術
 土佐が授かった技術は、延宝五(1677)年太地覚衛門頼治が開発した網掛捕鯨にほかならないが、同時に鯨の鎮魂と豊漁を請う鯨踊りや鯨唄おも伝授し、今に継承されている。天和三(1683)年、太地の浦人は土佐への技術伝授を喜ばず、覚衛門頼治は新宮城に到って水野土佐守重上領主に裁断を仰ぐ、領主より「業ヲ建ツルハ天下ノ祥瑞ナリ宜ク羽刺十人其外漁夫六十人ヲ土佐へ遣スベシ」との言葉を賜り、多田吉左衛門清平に伝授の運びとなった。吉左衛門これを聞き、この地にて三年間の辛酸を解かれるを喜び、と共に新宮領主と太地覚衛門頼治の度量に感謝し勇躍して土佐に帰る。
 約一年間、津呂組鯨方は率先躬行して太地組の教えに従い、翌、貞享元(1684)年、網掛捕鯨の習得を修めたことを土佐藩主に上聞し、太地浦の鯨方方々に礼を尽くし郷里に帰した。
 その後土佐では江戸末期まで網の改良や捕獲技術の向上を図り、ついにシロナガス鯨を捕獲するまでに発展した。

おわりに
 室戸市の基幹産業・水産業の起因を顧みれば、多田五郎右衛門尉義平が寛永元(1624)年に十三隻の勢子船を造り、一隻当り羽差一名漁夫十二名を定数として突き捕り捕鯨を始めた。これが土佐に於ける組織化された水産業の始まりであるが、明治三十九(1906)年ノルウェー式銃殺捕鯨の登場により土佐古式捕鯨は二百八十二年をもって終焉を迎えた。
翌、明治四十年、津呂・浮津両捕鯨株式会社は銃殺捕鯨を導入し土佐湾を漁場とするが、乱獲による枯渇にみまわれる。漁場を更に三陸沖に求め、更にさらに北洋や南氷洋に求めた。
しかし、国際捕鯨委員会(IWC)は1985年商業捕鯨の一時的全面禁止を採択、数少ない原住民生存捕鯨は認め継続しているものの捕鯨の時代は終ったに等しい。

 終りに当り室戸市の忘れ得ぬ人々として、大洋漁業重役砲手の異名を持つ泉井守一(大物撃ちの泉井)、良きライバルであった砲手小松菊一郎(数撃ちの小松)、極洋捕鯨の名砲手山下竹弥太ら、多く優れた砲手を輩出している。
 また、経営者としては極洋捕鯨の創立者・山地土佐太郎、近代捕鯨の雄で日東捕鯨の創立者・柳原勝紀、両人等を記しおきたい。
 天和三年の太地覚衛門頼治の温情による網掛捕鯨の伝授・技術交流があったればこそ、捕鯨三百六十年・鰹・鮪漁業への変遷の経緯は、いまなお室戸市水産業の礎である。

    

                                       
添付 イラスト及び二枚の写真は、何れも「手形切り」の位置・様子を表したものである。









この原稿は、平成二十年七月二十日発行・編集・発行 太地亮 「鯨方遭難史」に寄稿したものである。ご笑読有り難うございました。

            蓑《みの》
   藩政時代から昭和初期に至るまで続いていたという、漁師町室戸の俗習が一つあった。葛飾北斎や藤沢周平の風景には欠かす事のできない生活用具で、今はほとんど見かけない。雨具や日除けに用い重宝された蓑である。 
   六月の訪れと共に夜焚き(篝火)漁が解禁となる。漁師たちは、かがり火を海に照してケンサキイカやイサギ・サバ漁にいそしむ。漁模様が良ければ幾日も幾日も昼夜逆転の日々が続き、夫婦の秘め事も疎遠となる。誰の考えか小粋なはからい、蓑が登場する。
    この時代、漁師町の家には鍵など無く明け広げであった。この鍵がわりをつとめた物が蓑である。昼間、家の入り口に蓑を吊してあると秘め事中のしるしである。訪ねて来た者の目に蓑が写ると、そそくさとはばかったという。
    今も昔も若者の悪戯は堪えない。新婚家庭に入れ替わり立ち替わり蓑を吊して、好き者夫婦などと言って囃し立てる。囃し立てられた者も負けてはいない。羨ましければ妻を娶れと言い返す。蓑に纏る俗習は、子宝に恵まれんことを願った地域の知恵が生んだものだという。

                                                         (儿)
               高知新聞「閑人調」掲載

2012年4月15日日曜日

21 古式捕鯨・浮津組遭難の記録


古式捕鯨・浮津組遭難の記録
 
 捕鯨は壮烈な鯨との戦いのほか、時に荒れ狂う海との闘いであった。三津浦沖で起きた、浮津組遭難の記録を起こしてみる。
 
 今から百二十六年前の明治十八(一八八五)年十二月十七日、今年も残すとこ後《あと》半月足らず。ここ数カ月間、鯨は姿を見せず不漁の日々であった。今日も漁《りょう》が無ければ、節季《せっき》を一文無しで越さねばならない。漁師の顔には悲愴な面持ちが漂っていた。
 
 まだ明けやらぬ午前五時、三津浦の六ヶ谷本山見《ほんやまみ》が座頭鯨三頭(親子)の来游を発見した。漁師達に笑みが零《こぼ》れた。しかし、昔から漁師仲間は、「背美の子持ちは夢にも見るな」と恐れていた。子供を守る鯨の母性愛は大きく、時として人間をも凌ぎ、母鯨は子供に危険が迫ると豹変し狂暴になる、と伝えられ、座頭鯨も例外では無いと教えられていた。  青舳《あおみよし》組《ぐみ》白船・沖配《おきはい》、守之介《もりのすけ》の頭を「背美の子持ちは夢にも見るな」の口伝《くでん》がよぎった、が節季は間近に迫り、年越しの金は誰もが欲しがっていた。今一つ気掛かりは、南の空が異様に暗かった。守之介は空模様を気に掛けながら捕獲の差配に取り掛かった。
 
 鯨三頭の内、牡《おす》鯨は早々と逃げ去った。男の情の無さは、鯨とて同じだ、と誰かが呟《つぶや》き笑いを誘った。鯨組は青舳と赤舳の二組に分かれた。沖の雌《めす》鯨を青舳組が、灘《なだ》(陸側の意)の児鯨は赤舳組が捕獲に当た。勢子船が網代《あじろ》に鯨を追い込んでいた午前六時ごろ、網代の上空は暗黒の雲に覆われはじめ、小雨が寒々と降り始めた。だが海は空に似あわぬ静けさで、捕鯨には何等の支障もなく凪いでいた。
 
 およそ三時間ほど経った午前九時頃、空は晴れ穏やかな冬日和となった。この日の空は猫の目のように変わった。急に西風が吹き始めたかと思ったら、大西に変り暴風雨と化した。それは一瞬の出来事であった。漁師は死力を尽くして逃れようと力漕した、がいかんともすることが出来ず。ようやく捕獲した沖の母鯨も、すでに持双船に縛りつけていた灘の児鯨も、綱を切って捨てるほかなかった。この時、沖にいる船は持双船二隻、勢子船一〇隻、灘は持双船二隻、勢子船六隻で、船の総数二十隻、総漁師数二百十六名であった。
 
 各船の必死の避難の航跡は、以下の通りに記してあった。激浪暴風中での捕鯨作業の中で、すでに鯨にやられ、あるいは舷々相うって破損した船も何隻か見られる。「沖《オキ》ニアル持双船《もっそうぶね》一隻《イッセキ》、当初《トウショ》鯨《クジラ》ノ狂奔《キョウホン》セル為《タメ》船体《センタイ》ニ損傷《ソンショウ》ヲ生《ショウ》ジ、海水《カイスイ》浸入《シンニュウ》シテ危険《キケン》云《イ》ウベカラズ、船長《センチョウ》手拭《テヌグイ》ヲ以《モツ》テ損所《ソンショ》ニ挿入《ソウニュウ》シ僅《ワズカ》ニ海水《カイスイ》ノ浸入《シンニュウ》ヲ防《フセ》ギシモ、生憎《アイニク》約縄《ヤクナワ》(鯨を縛った綱)ヲ切断《セツダン》シ、身《ミ》ヲ以《モッ》テ免《マヌガ》レントスル場合《バアイ》、今一艘《イマイッソウ》ノ持双船《モッソウブネ》ハ激浪《ゲキロウ》ノタメ柁《カジ》ヲ奪《ウバ》ワレ帆航《ハンコウ》スル事《コト》能《タガ》ワザリシヲ以《モッ》テ、今一艘《イマイッソウ》ノ持双船《モッソウブネ》ヨリ漕綱《コギツナ》ヲ贈《オクリ》リ船身《センミ》ニ約《ヤク》シ力漕《リキソウ》シ行《イク》ク事数里《コトスウリ》、然《シカ》ル風波《フウハ》漸々《さんざん》暴威《ボウイ》ヲ逞《テイ》フシ、自己一艘《ジコイッソウ》スラ猶《ナオ》凌《シノ》ギ兼《カネ》ヌルヲ、況《イワ》ンヤ羽翼《ウヨク》ヲ断《タ》タレシ無能《ムノウ》ノ大船《オオブネ》ヲ引《ヒ》キシニ於《オイ》テオヤ」激浪山をなして船内を洗い、まさに沈没せんとし、進退きわまって引き綱を切ったうえ、網を投棄して、必死に三津浦へ力漕し避難した。これらは各船相似ている。
 
 一方陸上では、三津本山見あるいは日沖山見からその様子を見ながら「幾百《イクヒャク》ノ生霊《セイレイ》、海底《カイテイ》ノ藻屑《モクズ》トナラン事《コト》ヲ痛嘆《ツウタン》シテ手足《テアシ》措《オク》ク処《トコロ》ヲ知《シ》ラス」望遠鏡でその様を見るうち、やがて風浪に流されるようにその影さえ視界から去っていった。
 
 遭難情報は浮津本社へ急報された。援助船を出そうとしたが暴風のため出せなかった。ようやく風もおさまり、援助船が室戸港を出て紀州路に向かったのは、翌十八日午前七時であった。 灘(陸)を目前にしながら、室津から援助船の出港が出来ないことを知った三津事務所では、網船のうち堅牢なもの二隻を選び援助に向かおうとしたが、漁師は激浪暴風の中に船出するのは無謀として、これに従う者がない。たまたま浮津から来ていた数名の者が「涙《ナミダ》ヲ揮《フル》イ言《イウ》テ曰《イワ》ク、遭難者《ソウナンシャ》ハ五三《ゴニンヤサンニン》ノ少数《ショウスウ》二非《アラ》ズ、数百《スウヒャク》ヲ以《モッ》テ数《カゾ》ウベキ同胞《ドウホウ》ガ死地《シチ》二就《ツ》キシヲ視《ミ》テ、予等《ヨラ》イズクンゾ余生《ヨセイ》ヲ貧《厶サブ》ラントヤ、爰《ココ》二於《オイ》テ衆人《シュウジン》声《コエ》ヲ放《ハナ》ッテ泣《ナ》ク」こうして、米を炊き酒樽に水を入れ、網船が数十人の義侠の者を乗せて午後四時出港した。白船など二、三隻が帰港するのに会い、救援の品を与えて激励し、手羽島(徳島)に至り漂着船を援助のうえ帰港した。 また浮津浦の人々は、漁師の凍死をおそれて衣類を持ち寄り、あるいは食物を荷なって続々と三津浦の浜に集まり、浮津浦は空になった、と云う。
 
 明治十一(一八七八)年、紀州太地浦に起きた「背美流れ」の遭難者数百八名に比べれば、七名の遭難者は少数と云えども、人命の尊さは何物にも代え難く、浮津浦は深い哀しみに沈んでいた。
                合掌
            
                           文 津室  儿
                           絵 山本 清衣

2012年4月4日水曜日

二つの丸山

          二つの丸山
  久しぶりに津照寺《しんしょうじ》にお参りした。津寺山(丸山)の誕生は、弘法大師が昼飯のために四十寺山《しじゅうじさん》に腰をおろしたことに由来する、という。筍皮で包んだオムスビを開いたとたん、一つが東に転がり三津の丸山に、今一つは西に転がり室津の丸山となった。大師は三津には神の依代を、室津には仏の依代を築き神仏習合思想を表し、日本人特有の穏やかな宗教の拠り所とした。
 大師の意に反して 神仏分離令が明治初年にでた。これを歪曲した者の排仏毀釈運動は、嵐となって全国津々浦々に吹き荒れ寺院や仏像などあまたの文化財を破壊した。この津照寺も例外ではなかった、と住職は歎く。
  本堂への石段は百八段の煩悩坂、右に少し折れて十七段の俳句坂とか、煩悩坂の中腹には「久方の空より船や花曇り」北川史川の句碑があった。計百二十五段を登りきれば、ご本尊の楫取《かじとり》延命地蔵菩薩が向かえてくれる。このご本尊は慶長七年(一六〇二)、難破しかかった藩主山内一豊公の船を救ったという話を遺し、今も海難除けの楫取地蔵として厚い信仰を集めている。
  本堂から振り返れば、室津港の眺めが楽しめる。空も海、史川が詠んだ俳句の景色が広がっていた。
                                                       (儿)
             高知新聞「閑人調」掲載

2012年4月1日日曜日

名刀百足丸



20    名刀百足丸

 
 刀匠正宗《まさむね》は生没年不詳である。鎌倉時代末期から南北朝時代(建武三年(一三三六~明徳三年一三九二)初期に相模国《さがみのくに》鎌倉で活躍した刀工。五郎入道正宗・岡崎正宗・岡崎五郎入道と称され、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人である。「正宗」の名は名刀の代名詞となり、芸術性の高い作刀は後世の刀工に多大な影響を与えた。
 さて、百足《むかで》丸の名刀は、吉良川御田八幡宮の祭式には古くから欠かす事のできない刀であった、が、今は行方不明である。刀鍛冶《かじ》の名匠正宗の名刀のため、何時も苦しめられている魔性がいた。魔性は何としても正宗を亡き者にしようと思い立った。ある日、人間に化けて正宗のもとを訪ね腕比べに挑んだ。魔性が明日の朝、鶏《にわとり》が鳴くまでに千本の刀を打ち上げたら、正宗の命を貰うという約束ができた。
 魔性は早速仕事場に入ったが、夜中になっても刀を打つているような音や気配すら無い。訝しく思った正宗は、戸の隙間からそっと仕事場を覗き込んだ。正宗はその光景にあっと驚いた、が、声を押し殺した。魔性は赤々と燃える火の中から、真っ赤に焼けた鉄の塊を手で掴《つか》み出し、指で摘《つま》んでは伸ばし、また、掴んでは伸ばして刀を作り、傍らの土間に堆《うずたか》く積み上げていた。これは大変だ、と一策を案じた正宗はそっと鶏小屋に行き、眠っている鶏の止まり木に温かい湯をかけて暖めた。すると、鶏は一声高くコケッコッコーと鳴いた。魔性はこの時すでに九百九十九本作り上げていた。あと一本のところで、鶏の鳴き声を聞いた魔性は「しまった」と、云ったかと思うと、作っていた刀を小脇に掻い込み虚空《こくう》はるかに逃げ去った。この時、魔性が取り残した三本の刀を正宗が仕上げた。これを「魔性の摘み打ち」と云った。刀身には魔性の指の跡がはっきりと残っていた。柄《つか》には鶏にちなんで金鶏を象嵌《ぞうがん》し、銘は入れなかった、という。その中の一本が百足丸で幅広で長さは二尺三寸(69cm)であった。
 時は下り、戊申戦争(慶応四年/明治元年1886)の会津攻めの頃、安岡某氏は板垣退助の手について出陣し山中で道に迷った。今まで判っていた道が急に判らなくなるはずが無い、と幾度か心を落ち着かせたが、どうしても判らない。尋ねる家も無く、訪れる人もない山中で途方に暮れていた。すると突然、身近で鶏が鳴いた。はてな、人里離れたこの深山に鶏が鳴くはずはない。きっと心の迷いであろう、と強《し》いて自ら打ち消した。しばらくするとまた鳴いた。
おや、確かに鶏だ。耳の迷いではない、と辺りを見回したがそれらしいものは見当たらない。半信半疑でいると、今度は二声三声と続けて鳴いた。その途端にはっと我に返った安岡某氏は、再び道がはっきりと判った。鳴いたのは刀の柄の金鶏象嵌だったという。
 その後、百足丸はお宮に納めてが、いつの間にか安岡家に戻っていた。有る時、羽根の某質屋に質草として入れた。予てより百足丸の伝説を聞いていた質屋は、この刀を蔵に入れ厳重に施錠し、番頭と二人り、蔵の前で不寝番をした。その夜の丑《うし》三つ時、俄に蔵が鳴動した。あまりの恐ろしさに番頭はひれ伏したが、気丈な主人は施錠を解き中に入る。百足丸は忽ち本性を現し、身の丈一丈(3.3㍍)を余る大きな百足の妖怪となり、蔵の窓より飛び去って行ったという。伝説の真意はともかく、こうした面白い伝説をもった刀が行方不明とは誠に残念である。
    
  阿緒の城主
 現在の吉良川小学校辺りを阿緒《あお》と云った。その東北を古城と呼ぶ。戦国時代の頃、この古城に阿緒の城と呼ばれる砦があり、東の安岡弾正と争って屈しなかった。しかし、一城の城主とはいいながら、青春の血に燃える若い城主は、遠く浜辺で打つ盆踊りの太鼓や鐘の音を聞くと、何かしら満ち足りぬものを覚え、戦から戦へ明け暮れて人を殺し血を流す自分たちの生活に、言い知れぬ寂しさ・無情を感じた。氷のような月光に誘われ、ふらふらと盆踊りを見に忍び出たまま、城主は再び帰って来なかった。阿緒の城はその夜の内に、安岡弾正の一子源兵衛に落とされた。安岡弾正も、その後長宗我部元親に降り、吉良川に土着した、が、安岡家には、後々阿緒の城主の祟りが絶えなく一宇《いちう》(お堂)を建立してこれを祀り、今に繋がっている、という。

                         文 津 室  儿
                         絵 山 本 清衣

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