2012年6月8日金曜日

室戸の民話伝説 第24話 池山神社の大蛇

 
池山神社の大蛇

 元川《もとがわ》の河口より左岸を遡《さかのぼ》ること約三㎞、そこには数軒の奥郷《おうこ》集落がある。その集落を背に左岸に沿って尾根に登り、稜線伝いに歩く、約三㎞で前方が急に開け池山池(標高537.8㍍)に到着する。池の面積は『南北「二町」東西「一町半」深さ四尋(約七㍍)』と山頂の池としては広い。池の周りには赤樫《あかがし》や薮椿《やぶつばき》の古木が生い茂り、池山神社に古風《いにしえぶり》をそえている。
 池の西寄りに、浮き島を思わせる小島があり、丸太橋が池山神社へ誘ってくれる。小島には、桧の神木が十数本が脇を固め、三方を石囲いにして祭壇を設《しつら》え、祠を設《もう》けて有った。
祭神は二神祭られ、大海命《おおあまのみこと》(豊漁の神)と今一尊、弘法大師が北印度の無熱池《むねっち》から善女(如)《ぜんにょ》龍王神を池山に分祀した、と伝えられる。約420年前の天正地検帳や、約200年前の南路志など古文書に記述があり、古くから近郷近在村民の信仰を集め崇《あが》められていた。 往年の池山池は、水を満々と湛《たた》えていた。池の最も深い所で三、四十(約十二㍍)尺もあり、池は濃い藍色に満ち、神秘さをそこはかと漂わせていた。池の周囲は大木が鬱蒼《うっそう》と生い茂り、昼なお薄暗く鳥獣の楽園であった。
 旧暦九月半ばを過ぎれば、元村の氏神の大祭も終る。すると男達は狩猟準備にいそしむ。 ある日、元村の郷士川村家の当主が池山神社へ鴨猟に出向いた。池の中央には、運良く十数羽の鴨が餌を啄ばんでいた。これはしたりとばかりに、猟銃を撃ちかけた。見事に一羽の鴨に命中した。仲間の鴨は、動かぬ友を残して、飛び去ってしまった。
 この日の池は、川村家当主にとって、運悪く無風であり、撃ち落とした鴨が微動だにしない。いつもであれば、鴨は風に吹き寄せられ、岸に流れ着くのだが、今日は如何ともし難い。途方に暮れていたが、至って豪気《ごうき》な川村氏は、遠く人里を離れ、昼なお暗く大蛇が棲《す》んでいると云う池へ、関孫六兼元《せきのまごろくかねもと》拵《こしら》えを口に銜《くわ》え、褌《ふんどし》いっちょうざんぶと飛び込んだ。池は俄に鳴動して、すさましい波風と雷雲とどろき、彼は遂に名刀を水中に落としてしまった。落とした名刀の威光に怖れたか、池の主大蛇は立ち上がった水柱と共に、何処かへ去ってしまった。大蛇の棲まない池は、水が涸《か》れてしまい、現在の様に浅くなったと云う。 人づてに、大蛇は讃岐の満濃ヶ池に居《お》る、と云う。
 その後、数十年が過ぎた秋の夕暮れ、小雨がそぼ降る中、元川の奥の西川集落の、とある家へ、二人連れの美しい娘が尋ねてきた。娘は、池山さんの池の小刀は、その後取り上げられましたか、と尋ねたと云う。そのあと向江《むかえ》の庄屋奥宮家を尋ね、西川集落の某家と同じことを尋ねている。又、小刀を落とした、郷士川村家にもじきじきに尋ね、未だに探し当てていない事を告げられると、肩を深く落とし寂しく去って行く、とのことある。
 時は平成の世に移ろいても、元西川集落の某家には、美しい娘が尋ねて来ては、小刀のことを尋ねる、と伝えられている。
 
 付記
 記録に残っている、昭和期の雨乞い祈願祭は左記の三回である。善女龍王神の霊験あらたか、三度共に御利益を賜わっている。
 昭和十一年七月、中旬から八月末日にかけ旱魃が続き、農業者を中心に商・工業者が相集い、池山神社で雨乞祈願祭をおこなう。
 昭和二十二年九月十一日付け「高知新聞」の記事に、霊験あらたか、室戸町の雨乞祈願祭。
 十日午前九時から町民一千二百名近くが、町から一里半(六㎞)奥の池山神社で町内各神職と共に雨乞祈願祭を執行、終わって各部落毎の奉納踊りを行った。十一日早朝からの降雨、農作物も一ぺんに生気をとりもどす。
 昭和三十一年の旱魃《かんばつ》の時も、室戸町長が提唱し池山さんから町内の社寺で祈願をしている。
 生まれ故郷、古里は忘れ難し所です。大蛇に劣らず、古里を大切にしましょう。

                         文 津 室   儿
                         絵 山 本  清衣
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2012年6月3日日曜日

室戸の民話伝説 第23話 室戸岬の竜宮神社


    

室戸岬の竜宮神社
  
 室戸岬《お は な》の南の突端を東へ約五十㍍、国道五十五号線南側に、高さ十四、五㍍の巨巌が聳える。この巨巌を地元民は「おはなの龍宮巌」と親しみを込めて呼んでいる。龍宮巌の中腹には、海をのぞむ龍宮神社(龍宮とは、海神に纏る伝説「古事記や日本書紀」に登場する海神の宮のこと「海幸彦。海幸彦は浦島太郎のモデルと云われる」で、竜宮城などと呼ばれる。乙姫様が住む宮とも云われ、四方四季という一度に四季が同時に楽しめる庭がある。と云われる)が鎮座して漁師の信仰を集めて、特異な漁招きの奇習も宿している。
 お鼻の(岬)春は早い。日溜まりに身体をあずけると、まどろみに誘われる。
この町の生業は藩政時代初頭の捕鯨に始まり、鰹・鮪漁へと移り変わった。
捕鯨は壮絶な鯨との戦いのほか、時に荒れ狂う海との闘いであった。生業がいかに過酷であるか、「板子一枚下は地獄」との俗諺《ぞくげん》が物語る。
 動力も無い、通信手段も無い、ひたすら人力と組織力に頼った。今となっては隔世の感のある当時の有様は、彼らの最善の工夫の結果であろう。だからこそ、命を張るためには、宗教も必要だった。社寺の存在や祭りは、組織にとって生業の盛衰を神仏にゆだねる気持ちだと感じとる。
  旧正月を済ませ、初漁に向かう船に出会う。船は、龍宮神社の沖で右回りに三度廻った。航海の安全と豊漁を祈願する習わしである。
 夫を送り出した妻たちは、お鼻の龍宮神社へお参りに行く。先ず、本殿の裏側に廻る、厚さ一寸、一尺四方の板を張ってある。その板を拳大の石でコンコンと打ち鳴らし、神様に起きて頂き、お参りに来たことをお知らせする。そして、拝殿前に立ち、二礼二拍一礼の神道に則ったお参りをする。お参りの後は、それぞれが持ち寄った御神酒と手料理を拝殿前に並べ、車座に座って宴がはじまる。
『御神酒上がらぬ神はない』「神様でさえ酒を召し上がるから、人間が酒を飲むのは当然である」と云って酔興が興に乗るほどに、妻たちは再び拝殿に立ち、赤い腰巻きの裾を絡げ、大切な物を少し見せて龍宮様に掛け合う。「龍宮様、龍宮様、家《うち》の人たちに大漁を授けてくれたら、今度は全部見せちゃる」といって龍宮様に掛け合う。龍宮様も好き者か、これに応える。妻たちは、喜びをお礼参りに添え約束を果たす。
 この奇習は、初期の古式捕鯨(寛永元(一六二四)年)の頃には始まって居たらしく、仕留めた鯨に轆轤《ろくろ》を掛け、腑分場《ふわけば》に引き上げる。この轆轤に鯨の魂が宿る、との信仰心から龍宮様と同じ仕種をして豊漁を祈願したと云われる、が今は轆轤も無く途絶え、龍宮様に大漁祈願をする奇習のみ、今なお続いている。
  
                            文 津 室  儿                                                    
                          絵 山 本 清衣
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2012年6月2日土曜日

御祓い船


         御祓《おんぱら》い船
  夏の土用波が騒ぎ始めると、室戸の夏祭りも住吉神社(旧暦六月二十八、九日)でフィナーレを飾る。慶長七(一六〇二)年、藩主山内一豊公が難破しかかり、室津港に避難した。藩主はこれを期に航海の安全を願い、室津港の南東部の位置に神社を設け、大阪・住吉神社本宮(海の守護神)より分詞を賜ったと由来書は伝える。
  この神社は海の安全と共に、参拝者は人型札に患部の印しを付けて神主に託し治癒をねがう。宵闇迫る引き潮時、御祓い船が漕ぎだす。船には五十数個の提灯が飾られ、水面に映える灯が眩い。芸者衆が乗り、三味線、太鼓の囃子で鯨唄や板木下ろし、伊勢音頭が響く。外港では船首を住吉神社本宮に向け、加護にすがる。
 先ごろ全国の漁業者約二十万隻が一斉休業をした。燃油高騰という人為的要因による休業は前代未聞であろう。今年は燃油の下落を祈願するお札が多いだろうと当家は語る。神様も大変である。
 祭礼を済ませた当家は直会を楽しむ。終宴近く、猥談や艶話をそれぞれが披露し、災いを笑い祓う風習があった。今は小粋な古老も居なく、習わしは途絶え聞けない。
                                                            (儿)
  1.              高知新聞「閑人調」掲載