2012年7月12日木曜日

室戸の民話伝説 第26話 十連超の ”槌の子墾り”

               絵 山本 清衣



    十連超えの ”槌の子墾り”
 室戸の郷の稲石《いなし》の橋の下に、「此処《ここ》より十連越・椎名へ一里」と石に刻んだ道標が残っている。この峠道、十連越えは昭和の初め頃まで使われていた。その昔、長宗我部元親が土佐平定のため、佐喜浜の大野家源内を攻略のために、四千の大軍を率いて峠を越した記録が残っている。次の噺もこの峠にまつわるもの。
 椎名に亀七《かめしち》という息の長い海士《あま》が、日沖の大礁《おおばえ》の磯で「埋《う》もれ」に出会った。埋もれとは、潮流の加減で沖の砂が瞬く間に磯を埋めてしまう現象である。今まで悠々と海藻を食《は》んでいたアワビやサザエが、大慌《おおあわ》てに砂を避け岩場に逃げる。その時の岩場は貝の上に貝が馬乗りに重なりあい、思わぬ大漁に出くわす。大漁ににんまりする亀七。捕ったアワビやサザエを肩に荷なって十連を越え。室津の町へ売りに行った。万の良い時はなにかに付けて良いもので、町は何か祝い事があるそうで、思っていた値段より、はるかな高値で皆が買ってくれた。思い掛けなく大金が入った亀七。祝い酒じゃと云って一杯飲んで稲石まで来ると、幼なじみの喜助《きすけ》に出会った。喜助は「久しぶりじゃ、まあ寄って一杯飲んで行け、と言う」幼なじみとの心嬉しさ、亀七は積もる話を肴《さかな》に鱈腹《たらふく》よばれた。亀七はご馳走と長居の礼を云った。喜助は気をつけて帰れ、と提灯を貸してくれ、十連坂一里の山道を千鳥足で椎名に戻りよった。
 千鳥足でもいつの間にか、日沖の海が見える所まできた。そうしたら、道ぶちの水の出るエゴ(田植えをするような所)の薮で、何やらバシャバシャと騒ぐ音がする。亀七は近づき、提灯をかざして見ると、身の丈四尺(約1.2m)ばかりで肌色は真っ黒いコビンス(子供)が田を墾《は》っている。亀七が「おい、おんしゃー誰なら。ここらで見かけんやつじゃが」と問う、と「わしゃ槌《つち》の子《こ》じゃ。西の方の芸西や幡多地方では、柴天《しばてん》とか河童《かっぱ》と云って儂《わし》らの仲間を呼ぶそうじゃ」亀七「ほんで、何しよりゃ」槌の子「ここに水があるきに田を墾りよる。オンチャンわしと相撲取ろうよ、わしが勝ったら、田をちょっと墾ってくれんせ」と、槌の子が云う。亀七「何がこのコビンスが」と思って、担《かつ》いでいた空のモッコ(畚《もっこ》・藁縄で作り、土などを運ぶ道具)オーク(天秤棒)に指して置き、着物を脱いで「さあこい」と構えた。近回りの宮相撲では賞品を総嘗《そうな》めにする亀七は、大男で強かった。相撲に強い亀七が、いざコビンスどっからでもかかって参れ、と云った瞬間、今まで槌の子が墾っていた田圃《たんぼ》へ、投げつけられ泥だらけ、亀七は、もう一番もう一番と四、五番取ってみたが、一番も勝てず仕舞いで、槌の子に田を大層墾らされた。
 あまりの負けっぷりに、どうして負けたんじゃろう、と考える内に酒の酔いも醒めてしもうた。酔が醒めると、亀七に良い考えが浮んだ。亀七は「おいコビンス、今まで水のある田の中で取ったきに、オラが負けた。今度は、この草の上で取ろうじゃないか、オラが勝ったらオンシャー二度とこの辺をうろつかせんぞ」と云った。今まで何番取っても負けたことのない槌の子は「よしワシが負けたら、今まで墾った田はみんなお前にやる。その代わりワシが勝ったら今まで墾った倍の田を墾ってくれんせ」亀七は「ヨーシ来い」と草の上で仕切った。槌の子がいきり立って突っ込んで来るのを、一息遅れて右手を伸してきた奴の、その手を担いでくるりと一回転して立ち上がると、今まで何番取っても足が地に吸い付いたように動かなかった槌の子が、軽々と持ち上がった。それを思い切り一本背負いにして、向こうの松の木目掛けて投げ飛ばした。松の木へ投げ飛ばされた槌の子は、ガシャンと音がして砕けてしまった。「勝った」と思った拍子に、亀七は安心したのか気絶したように目を回して眠ってしまった。
 夜が明けた。亀七、通り掛かりの人に起こされて見れば、身体は泥だらけ。昨夜、夜もすがら儂と相撲を取ったコビンスはどんな奴じゃろうと、よくよく見れば秋の小金色の田圃に立つ案山子《かかし》が木端微塵《こっぱみじん》に砕けて、手が松の木に掛かっていた。これ以来、亀七はこの田圃を我が物にしていたが、人々はこの田を「十連の槌の子墾り」と云って伝えた、という。

 俗称、河童や柴天を「槌の子」と呼称するは、当地方のみではないか!。後人の研究に委ねます。

                                           文 津 室   儿
                絵 山 本 清 衣

2012年7月7日土曜日

土佐の艶話 第一話 立つちゅうモン

                絵  山本 清衣


   第一話 立つちゅうモン(ノ)

 こんな話があった。ころは明治の中葉、そりゃー暑い暑い真夏の昼下がりのことじゃと云った。

 馬吉が一人、とある家の軒先を借りて、涼をとりよった。

 そこへ、涼し気な顔をしたお鯨《けい》が通りかかった。お鯨は、馬吉の一人息子、馬之助の幼馴染であった。 
お鯨の体型は、名は体を表すの謂われ通り大女である。手には七(23.1)〜八寸(26.4cm) のざまんな(大きい)鮑《あわび》を藁《わら》すべで括り、提げちゅう。
その大きさにたまげ(驚き)た馬吉は、そりゃ、どこの鮑ぞときいた。
 お鯨は「うん、あて(私)のがぁじゃ、暑いきに、外して行きよらよ」と、事も無げにいうた。
 
 寡夫《やもめ》の馬吉と馬之助、この親子、名にたがわず優れたマラの持ち主。これを耳にしたお鯨は、二つ返事で嫁に来た。
 馬之助は兵庫や大阪へ、鯨肉を運ぶ五十集船《いさばせん》乗り、一度出港すれば、七、八日間は家を開ける。若いお鯨はこの間、身がうずき悶える。
 毎夕晩酌を楽しむ舅・馬吉は、三合徳利を空にするや、それを枕にゴロリと横になるも、はや寝入ってしもうた。寝入らんがあが、舅のマラよ。越中褌を突き破らんばぁな勢い。それを見た、お鯨は辛抱しきれん。いきなり舅に股がり、スッポリ我がミホトに収め、まぐわってしもうた。
 
 目を覚まし、ビックリ仰天した舅。「よ、嫁よ・・・! こりゃどうしたことぞ?、犬、畜生じゃあるまいに、親の物を使うちゃいくまいが」

 お鯨は、「けんど、お舅さん。立つちゅうモンは親でも使え、と言いますきに」と、云うたという。
 
 旧暦六月二十八日、九日は、海の守護神住吉神社のお祭り。二日間の祭礼を、恙なく済ませた当家は直会に入る。
宴も終わり近く、魚介類や漁労にまつわる艶話や猥談を、それぞれが披露し、災いを笑い祓う風習があった。
 この話は、そんな中の一つである。今は、小粋な古老も居なく、風習や習俗は途絶えつつあり聞けない、寂しさがつのる。
                         おおの、ばかばかしぃ〜〜〜

                            文  津 室  儿


 





2012年7月1日日曜日

室戸の民話伝説 第25話 水掛け地蔵の由来・室戸岬


                 絵  山本 清衣

水掛け地蔵の由来・室戸岬


 そりゃずーっとずっと、昔のことじゃった。東寺(最御埼寺《ほつみさきじ》)に、ざまぁ偉いお住《じゅっ》さん(住職)が居った。春の彼岸の夜に岬の沖を眺めよった。月の無い闇の晩じゃったが、沖の方に白い波頭《なみがしら》が立ったと思うたら、その中から青白い火の玉が出たそうな。それが満月よりちくと大きい火の玉じゃ。その火の玉を不思議に思うて見よったら、青白い火の玉は二つに分かれて岬の東と西へ飛んで行った。それがまた二つ、三つと分かれて、西は津呂の港、室津の港、行当岬へと飛んで行き、東は高岡や三津、椎名、佐喜浜へと分かれて飛んで行った。お住さんは、これはどうも精霊《しょうりょう》(死者の霊魂)の御霊《みたま》のように思った。よくよく考えたら、彼岸に水死したナガレカンジャ(水死人)の御霊が、それぞれ古里の港々へ帰りよる集団じゃないかと思うて、こりゃどうしてもお祀りをしてやらねば、海で死んだ人たちの御霊は浮かばれんじゃろうと思った。岬の石を集め、少しの飾り物を施し、祀り物を供え、荒縄をしめ縄代わりに飾り、藁葺き小屋を建て、そこにナガレカンジャの霊と位牌を作ってお経を唱えていた。するとナガレカンジャらの霊がやってきて、小屋の周りを夜通し廻っていたという。これじゃカンジャの供養は一人では出来ん。皆で一緒に精霊を祀ろう、と東寺の檀家に相談すると、大方の人は賛成して幾分かの喜捨《きしゃ》をしてくれたが、高岡に一人の天の邪鬼《アマノジャク》が居た。「なにごとや。お前、海で死んだち、家でちゃんと法事をして祀りよるじゃないか、別に岬にそんなものがいるか!」と云う、「いやそんなことはない。あるきん言い寄る。今年の秋の彼岸に招待するきん、一晩、小屋に泊まって見んせ」と云うことにした。秋が来ると、一升徳利を片手にやって来た。儂《わし》が退治しちゃると云って小屋に入った。そしたらお住さんは念仏を唱えてながら、「儂はこれからお寺へ帰るきに、お前《ま》や朝までゆっくりしていかんせ」と云って帰った。一人になると気持ちが悪いもんじゃ。「なにがさようならじゃ、ええくそ、あの糞坊主めが」と悪態をつきながら、酒をちびりちびり飲みよったが、気が進まんと一人居るもんじゃきに、ちょっとも時が進まん。その内に徳利を空にしてしもうた。その内、酒の酔いに誘われ寝てしもうた。一口寝てふと目が覚めたら、静まり返った気味の悪い晩じゃ。余り静かすぎて妙なねゃと思いよったら、沖の方から潮騒の様な音がしはじめた。ありゃこりゃ気のせいじゃろかと考えよると、かえって気が集中し澄んでくる。だんだん潮騒が大きゅうなり、ギーギイッと音がしはじめた。櫓を漕ぐ音じゃ。ありゃ今時分、岬の磯に舟がおるはずがないがと思いよると、にわかに波の音が高うなってドッシーンっと、舟が岩へ突き当たったような音。「ウワーッ、助けてくれーっ」と大きなおらび(叫び)声がする。
(さあこりゃ、いよいよナガレカンジャとか云うもんがやってきたか)と思いよったら眠気は一ぺんにふっ飛んでしもうた。そうしよったら今度は、「おーい、早よう来てくれーッ! ひやいぞー、水をくれ!」と外からも声が聞こえ出した。そうしよる内に、だんだんと声が近づいてきて、仕舞には何十人という人の足音が、小屋の周りをぐるぐる廻り出した。
 天の邪鬼の男は、宵には偉そうに言いよったが背筋がゾーとしたとか、こんもうなってしもちょった。そうしよると、わんこらわんこら話しよる。その話し声の中に、たしかに自分の知っちょる人の声も聞こえたそうな。(ありゃ、たしかに舟で死んだ隣りの奴の声に似いちょる。彼奴《あいつ》は鮪《しび》(マグロ)釣りに出て、もんてこんき葬式をして弔った奴じゃったが!。海で死んだナガレカンジャ達の声じゃ。お住さんの云うこたあなぶられんなあ・・・・)と思いよったら、今度はそれが潮が引く様にさーっと引いたかと思うと、元の静けさより、さらに静かになったそうな。
 おーやれやれ、もう夜が明けるかと思って壁の隙間から、外を覗くと外はまだ真っ暗がり、それからまた暫くしよると、今度は大勢の得体の知れん群れが小屋の方へ近づいてくる。今度はもうたまらず、耳をふさいだ。だが耳をふさいでも声は聞こえる。それならもう仕様がない、なるようになれと度胸を決めた。小屋のぐるりを廻りよる声の中に、こんなことを云う声が聞こえた。
「儂はのー、海の向うに極楽浄土があると云うき、この岬から船出したが、岬の沖にゃなんにもない。それで餓えて死んだのじゃが、年に一、二回、この岬の水をもらいたいと思うておハナへ来るが、おハナに近づくと岬の海の餓鬼亡者らが邪魔してどうしても近寄れんかった。今晩はどうしたことか、邪魔する亡者の姿が見えんき、ようようやって来た。こりゃどうもこの小屋の中に、とても徳の高い聖がおって、有り難いお経を唱えてくれたので、その亡者どもも餓鬼仏も成仏さしてくれたんじゃろう。何年も何年も、このおハナにもんて来て久しぶりに仏様のお水がもらえる。長い間の渇きが癒える。有り難いことじゃ」
 それで、むかし親父さんに人は死んだらどこへ行くぞいと聞いたら、海の向うの極楽浄土へ行くと云いよったが、海で死んだ人の魂は岬や自分の所の港へ帰りたがるということがようわかった。人の云うことは嘘じゃない。海で死んだ人の霊は一番近いこの室戸のおハナを目指して帰って来るのじゃろうー。そして自分の在所へ帰るらしいーと気がついた。そこで「ナム大師ヘンジョウコンゴー、ナム大師ヘンジョウコンゴー」と一生懸命唱えているうちに夜が明けていた。「よんべはどうじゃったぞな」と云うて、お住さんがやって来た。「いやお住さん、どうもこうも・・・。この前は失礼なことを云うて、夕べは何ともはやいよいよ恐れ入りました」お住っさん「ほんならお前は夕べ逢うたか」「逢うたどころじゃございません。」実はこうこうじゃった、と一部始終を話した。お住さんもびっくり。「儂もナガレカンジャに逢うたことはあるが、常世の国の御霊には、まだ逢うたことはない。あんたは儂よりは本当に死んだ人の霊を導く純粋さがある。その人々の霊を得心さす純粋さがあって仏生が出来ていたのじゃ」と、云ってお住さんは天の邪鬼を拝んだそうな。それから天の邪鬼はこりゃこうしておれんと云うて、東寺の檀家を一軒一軒まわって自分の体験を話して、ナガレカンジャや常世の国の人たちが年に二度おハナに集まる春秋の彼岸参りの依代として「水掛け地蔵」がおハナの先端近くに建ってられた。海水を飲み苦しみ死んだ魂に、少しでも癒しになればと真水を手向け、魂を和らげるため!。     

                            文 津 室  儿
                            絵 山 本 清衣 
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