2012年12月16日日曜日

土佐落語  乳 房  60-3  

 土佐落語  乳房  60-3                依光 裕  著


 香美郡の手結《てい》に、親父と息子の男世帯の漁師がございました。
一日《ひいとい》も沖でクマビキ《しいら》を釣っておりますに、
 「おい、もうソロソロ貰えや」
 「お父やん。貰えち、何を貰うぜよ?」
 「嫁さん、女房よ」
 「お父やん、可哀想なことをいいなや!儂ぁ、まだ四、五年、独身で楽しまないかんきに」
 「そういうけんど、チッタ俺の身にもなってみよ。家に女手がないきに、飯炊きから洗濯まで俺がせないかん。ボツボツ親に楽をさいたらどうなら?」
 「楽をしたけりゃ、お父やんが後妻を貰うたらどうぜよ?」
 「ソレコソこらえてくれェ!今さら後妻の尻に敷かれてノセルか」
 「ソリャ見てみ!儂じゃちこの若さで女房をくくりつけられるは、真《ま》っ平《ぴら》じゃ」
 「まぁ、そういうな。俺がエイ娘に心当たりがあるきに、エイ加減で親孝行をしてくれ」
 息子はつづまり、親父の頼みを受け入れまして、安芸から女房を貰いましたが、これが別嬪の上によう気のつく、なかなかエイ嫁でございます。

         絵 大野 龍夫

 「おい、新婚の気分は、どうなら?」
 「お父やん、魚が釣れゆ最中《さなか》に妙なことを聞きなや」
 「阿呆、色咄《いろばなし》の一つもしもって釣るようじゃないと、一人前の漁師とはいえんぞ。どうなら?俺が見つけて来たばぁあって、エイろがや?」
 「エイエイ、いうこたない!それよりお父やん、隣の部屋で寝よったら、タマランろがよ?」
 「なんの!己《おら》ぁもうそんな気は起らんきに、遠慮せんとジャンジャンやってくれぇ」
 たかで友達同士みたいな親子でございますが、沖が時化《しけ》て漁を休んだ夏の一日。親子が縁先で網の繕いをしておりますに、息子の嫁が、麦茶を持って参りました。
 「お父さん。お茶でも飲んで一服してつかさい」
 「おおきにおおきに、ソコへ置いちょいとうせ」
 「イヤチヤ!お父さん頭に白髪がある・・・・・」
 「息子が嫁を貰う年じゃもの、これでも白髪は少ない方ぞ」
 「お父さん、一本抜かいて頂戴!」
 「ウン、ジンワリ抜いたら痛いきに、思い切って、ツン!と抜いたよ」
 息子の嫁が、親父の前へ回って、白髪を抜きにかかります。親父、頭を下げてヒョイと目の前を見ますに、嫁の浴衣の胸元がハダケておりまして、お乳がコンモリ。
 それがあんまり可愛いらしゅうございますので親父、思わずペロリとやってしまいました。
 ところが、その瞬間を息子が目撃しておりましたので、サァ大事!
 「お父やん!なんぼ親でも、そんなことをするもんじゃないぜよ!」
 コジャンとダン詰めますに、親父は顔を赫《あこ》うしまして、
 「オンシじゃちチンマイ時分、俺の女房の乳をタルばぁ吸うたじゃいか。そう怒るな」と言うた、そうでございます。

                            写  津 室  儿



2012年12月14日金曜日

土佐落語 電報 60-2

 第二話  電報                   依光 裕  著

 憲法第九条がなかった昔は、徴兵検査というオトロシイもんがございました。
 「キオツケ!姓名ッ」
 「ハッ、大岡幾次郎でありますッ」
 「オオ・カイクジロウつか?ザットした名前ネヤ。次!」
 「オオノエイゾ?貴様ッ、それでも、キオツケ!天皇陛下の軍人が務まるかッ」
 大野英造、安芸は西分の若衆でございますが、これが困ったことにトットの芝居気違で百姓仕事に身が入りません。
 そこで親父”女房でも縛《くく》りつけたらチッタ変るろう”と考えまして、川北からお菊という娘を嫁に迎えました。
 時に英造二十一歳、お菊は十八歳。羨ましいような若夫婦でございましたが、この若夫婦の仲を生木を引き裂くようにムシリ離しましたのが、血も涙もない一銭五厘。あの忌まわしい赤紙、召集令状でございました。
   あゝ大君に召されたる
      命栄えある朝ボラケ・・・・・
 外向けには恰好のエイことを申しますが、内側《うちら》では愁嘆場でございます。
 「アンタ、他の人は皆んなァ死んでも、アンタだけは生きて戻ってよ!」
 「親父とお母ァを頼んだぞ!この俺に若しもの事があったら遠慮はいらん。どこぞエイ所へ嫁にいて、幸せになってくれェ」
 屠所に曳かれる羊みたいに、英造がションボリ入隊しましたのが佐世保は鎮守府の帝国海軍でございます。
   海の男の艦隊勤務 月月火水木金金 

絵 大野 龍夫

 軍歌にもありますように、絞りに絞り、鍛えに鍛えられまして六ヶ月。遂に出動命令が下りましたので、わが海軍二等水兵大野英造恋しい女房に大急ぎで電報を打ちました。
 『鎮守府を発《たつ》つきに、佐世保へ面会に来い』
 これでは電報代が高うなりますので、新兵の英造、コジャンと略しまして、『チンタツ、サセコイ』
 ところが、電報を打つと出動延期の待機命令。英造が慌てて打った訂正電報がこうでございます。
 『チンタタン、サセクナ』
 さぁ、一ぺんに二通の、しかも内容《なかみ》が月とスッポンばァ違う電報を受け取って、女房のお菊は面食うてしまいました。
 「お舅《とう》さん、一通にゃ”チンタツ、サセコイ”もう一通にゃ”チンタタン、サセクナ”とありますけんど、どうしたもんですろう?」
 「どりゃどりゃ?”チンタツ、サセコイ”と”チンタタン、サセクナ”か・・・・・。ヨシ!かまんきにオマエは佐世保へ行て来い。英造には儂から電報を打ちょくきに」

 さて、親父から英造宛てに打った電報がございます、が
 『チン、タツモタタヌモ、サセニイク』で、ございました。

                             写  津 室  儿



2012年12月9日日曜日

土佐落語 使い初め 60-1


  はじめに、
「土佐落語タタキ寄席」とは、RKCラジオの帯番組に付けられたタイトルであり、昭和四十八(一九七三)年十月、高知放送開局二十周年を記念して刊行された単行本であります。著者は当時プロデューサーで、ペンネーム河野裕こと依光裕氏が著したものであります。
 本書を当ブログに掲載したく、故兄を通じて親交を重ねさせて頂いている依光様に、お話しましたところ、快諾を頂きました。
 これより六十編の物語を、月二三話を掲載致します。お楽しみ頂ければ幸いです。

 第一話  使い初め   60-1           依光 裕  著

 近頃は「消費は美徳」とか申しまして、何もかにも使い捨ての時代のようでございます。 「モシモシ、あたしゃ大埇《おおそね》の司亭升楽《つかさていしょうらく》でございますが、女房が盲腸でウンウン唸りよりますきに、ヘンシモ来てつかさい!」
 「升楽さんの奥さんが盲腸?そりゃオカシイ、奥さんなら、ほんのこないだ盲腸の手術をしたばっかりで、盲腸はない筈じゃが」
 「先生、そりゃ違います」
 「違うこたない。この儂が手術をしたきに、間違いない」
 「モシモシ、違うチヤ先生!」
 「何が違うぞ?」
 「女房が違います!」
 女房も亭主も使い捨て。エライご時世になったもんでございますが、昔は茶碗から箸、下駄から草履にいたるまで、新規はすべて、正月から使うたもんでございました。
 これを“使い初《ぞ》め“と申しますと、それだけにお正月が楽しみでもございました。
 昔の室戸の漁師と申しますと、なにせ鯨が相手でございますので、“気も荒い、手も早い“、こう思いがちでございますが、中には気の長い男もございまして、新兵衛という漁師が、女房を貰いました。
 ところが、その新兵衛の新妻が思い余った顔をして、仲人の所へやって参りました。
 「どういたぜよ?はや夫婦喧嘩でもしたか」
 「イイエ・・・・・」
 「新兵衛に隠し女でもあったかよ?」


                           絵 大野 龍夫

 「イイエ・・・・・」
 「イイエじゃ判らん。斯く斯くシカジカと訳を話してみや」
 「あのう、嫁入りして二十日もたったに、まだ一ペンもネキへ寝らいてくれません」
 「なんつぜよ?そりゃ本当かよ?」
 「アイ。ウチはウチなりに、一生懸命つとめゆうつもりですけんど、何が気に入らんか、サッパリ判りません」
 「ウーム!」
 「一ペンでも寝えてみて、グツが悪けりゃ、そりゃ仕方がございません。それをサワリもさんはアンマリことでございます」
 「そりゃオマンの言う通りじゃ。使い捨てにするにしても、使い初めだけはせないかん」
 「済みませんけど!仲人さんの口から言うてみてくれませんろうか」
 「言うどころじゃない!コジャンと言うて聞かいちゃる!」
仲人はさっそく新兵衛の家に行きまして、
 「どうなら、エイ嫁じゃろうが?」
 「やぁ、何もかも申し分ございません」
 「こりゃ、新兵衛。使い初めもせんと“申し分ない“とは言わさんぞ。オンシの返答次第では嫁を引き取るが、一体どういう料簡か、チャンと言うてみよ!」
グッと仲人が詰め寄りますに、新兵衛、
 「あんまりことエイ嫁じゃきに・・・・・」
 「エイ嫁じゃきに、どういたなら?」
 「正月に使い初めをしようと思うて、おいてございます」

                            写  津 室  儿 

2012年12月2日日曜日

警察手眼編纂者 植松直久略伝


 警察手眼編纂者 植松直久略伝
           露崎栄一著を写す



 植松直久が誕生(現室戸市佐喜浜町)したのは弘化三(一八四六)年十一月十七日であった。父は豪農植松助四郎、母小丑の間に次男として生まれ、幼名を岩次郎、自らは春人と名乗った、と云われる。
これは彼の学問の師である楠瀬交斎(春平)「交斎は佐喜浜に居住する蘭方医で、私塾弘道館を開く」や後藤松陰(春草・春蔵)などの号に倣ったものである。明治四年頃から直久と称し、後には経峰と号した。
 兄、駒太郎は十八歳年上で学問好きであった。兄から大きな影響を受けた直久は、次第に学問に身を寄せ、浦人は両者を「兄たり難く弟たり難し」と、云って誉め称えたという。
 安政元(一八五四)年二月、直久、九歳の時、交斎の私塾、弘道館に入門した。
 師、交斎は大阪において医術を学び、儒学を篠崎小竹「江戸時代後期の日本の儒者・書家である。本姓は加藤氏。幼名は金吾、名は弼《たすく》、字は承弼、小竹は号であり、別号に畏堂・南豊・聶江・退庵などもある」に師事し修めている。弘道館においては、医学と儒学を教授した。
 直久は弘道館にあって、頭角をめきめきと現した。交斎から篠崎小竹や後藤松陰「江戸後期の儒学者。美濃、現・岐阜県生まれ。
名は機,字は世張,通称は俊蔵。号は松陰,春草,鎌山,兼山。幼くして神童と称され,大垣の菱田毅斎に学んでその塾長となった。文化一二(一八一五)年から頼山陽に師事」の話を聞き、向学の念に燃えた。
 直久十七歳・文久二(一八六二)年九月、大阪に出て後藤松陰(一七九七~一八六四)の門をたたいた。
 松陰は頼山陽「江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は久太郎、名は襄《のぼる》、字は子成。山陽は号である。また三六峰外史とも号した。大阪に生まれる」の高弟で、当時大阪にて「文は松陰、詩は旭荘(廣瀬)」と称された人物であり、後年「警察手眼」編纂に顕われた、直久の学識才能は、ここで育まれたものであろう。
 元治元(一八六四)年六月、直久は一時帰国した。翌年再び大阪に出て後藤桐平門下に入ったが、慶応二(一八六六)年、備中(現高梁市)に出て、生涯の師と仰いだ坂谷朗盧の興譲館にはいる。しかし、当時の国情は江戸幕府から新政への過渡期であり、世情は混沌として不安定であり、わずか一年で帰国することになった。
 郷里に帰った直久は、兵法家宮地左仲から西洋砲術について教授を受けていたが、明治
元年(一八六一)七月二日、請われて高知藩安芸郡々校文学御用御雇となった。こらは直久の藩への出仕の第一歩であった。同年十二月二十日には、官命をもって再び、当時、天下三館の一つと呼ばれた備中興譲館に留学、滞ること一年、翌三年五月、高知藩々校致道館の文学三等助教試補に任ぜられた。
 高知藩における、その後の職歴は次の通りである。
 明治三年十二月七日 任文学二等助教
  々四年一月十七日 任皇漢大得業生
  々四年十二月二十日 免学校大得業生
 この間、明治四年六月二十二日から同年十月二十日まで、幡多郡々校行餘館の寄宿舎々長をも兼務した。

   □浜松・安濃津(三重)県時代□

 明治四年七月一十四日、新政府は近代的統一国家形成の政治的措置として「廃藩置県」を断行した。この結果、藩はすべて廃され、新たに二百六十一県が設置されて、全国は三府三百二県となった。こらはさらに十一月の府県の統廃合により三府七十二県に統合された。
 明治五年二月二十二日、直久は新置の浜松県(静岡)十五等出仕に任ぜられた。しかも僅か二十日余りで安濃津県(現三重県)へ転じた。同県での経歴は次の通りである。
 明治五年三月十二日 安濃津県
(明治五年三月十七日三重県と改称)任少属
 々   五月十日  三重県 任権大属
 々   六月二十三日三重県東京出張所詰
 々   十一月   東京出張所詰相解
 
 明治五年三月、安濃津県少属となった直久は、さらに二ヶ月後には、権大属に昇進している。この背景には、直久の才能もさることながら、後年「警察手眼」に緒言を識した同郷の丁野遠影の登用があったものと思われ、安濃津県在任当時の丁野との運命的な邂逅は、その後の直久の運命を決定づけたといえる。
 丁野は、明治四年十二月三日(「府県史料」三重県の部には十二月四日とある)、任安濃津県権参事となり、翌五年八月二日まで同県に在職した。以後、丁野の経歴は次のとおりである。(「土佐史談」第三十九号)
 明治五年八月二十四日 任司法省七等出仕
 々 六年三月三十一日 任司法権省判事
 々 々 四月十五日  新治裁判所在勤
 々 々 五月二十二日 任警保権助 
 々 七月一月二十四日 任権大警視
 々 十年一月十七日  任少警視
 々 十四年一月十四日 任二等警視
 丁野の安濃津県在任は約五ヶ月間であったが、この間、直久は十六歳年長で同郷の丁野を兄のように慕い、権参事と少属(権大属)
との身分制度的な関係を超え、両者は人間的にも強く密着し安濃津県政の基礎確立に献身した。その後、直久は丁野の跡を追って司法省へ進むことになる。

   □警視庁・警視局時代□

 明治七年一月十五日太政官達第六号により首都警察として東京警視庁が設置され、初代長官には、司法省警保助兼大警視川路利良が任命された。
 司法省から警視庁へ移った直久の経歴は、次の通りである。
 明治八年八月二十四日  補十一等出仕
 々 々  十二月四日  補十等出仕
 々 十年一月四日    補九等出仕
 直久の警視庁入りは、その頃すでに権中警視であった丁野の推挙によるものと思われる。 この間、前述したとおり明治九年九月下旬、直久編纂にかかる警察手眼が上棹された。これについては後述する。
 明治十一年一月十一日太政官布告第四号により、警視庁はいったん廃止され、その事務は内務省に移管されることとなった。これに伴い職制が改正され、直久は同月十五日警視局三等警視属に任ぜられた。
 警視属は文官でその職掌は、「警視ノ指揮ニ属シ文書計算等ノ事ヺ掌ル」とされ、一等警視属から十等警視までに区分されていた。
 警視庁の廃止、内務省警視局への事務移管は、当時の国政の不備と国内不安に対処し、国家警察の樹立と経費節減の施策として採られた措置であった。
 こうした最中の明治十年二月、明治警察史上最大の事件である西南戦争が勃発した。この戦争には警視官(警察官)約八千人が出征し、壮烈な戦いを行い、死者数は二千余人にものぼった。
 直久は、別働第三旅団参謀部の幕僚書記として、参謀長田邉《たなべ》良顕中佐に従い出征、熊本・鹿児島に転戦した。
 明治十六年五月、別働第三旅団の戦歴を伝えるため「西南戦闘日注」が出版された。この書物は、直久の筆記にもとづくものである。田邉中佐から旅団長の川路少将(大警視)宛てに提出された添書には、次のように述べられている。
 随員植松直久其(肥後国植木方面の戦闘)概略を筆記す其記事簡単なりと雖も之を読めば亦以て当時の情況を想見するに足らん
 (「西南戦闘日注」)
 彼の没後、明治十七年四月二十八日、その書物に対する功労の追賞として当時、高知県令であった田邉良顕から遺族に「金二拾円」と「西南戦闘日注」が贈られている。
 これより先、明治十年七月九日、直久は二等警視属に任ぜられ、八月十七日、参謀長田邉中佐に随い東京に帰り、警察本務に復することになった。次いで翌十一年一月十日、一等警視属へ昇進した。

   □警察手眼□

 大警視川路利良は、東京警視庁設置以来、その職務に関し「夙夜孔々不休」日中は役所で仕事をし、夜は連日のように各方面の分署長等を集め、管下の実情を聞き、それに訓戒を与え、深夜に及ぶこともしばしばであったという。この川路の片言集句を、丁野の指示で植松直久が一冊の本に編纂したものが「警察手眼」である。これについては前述した通りであり、次の丁野の緒言に詳しい。 

緒言
 吾長官川路君僚属ヲ諭ス毎ニ劄記スル所ノ片言集字積テ推ヲ成ス予其散逸ヲ惜ミ植松直久ニ嘱シ類似セシム頃日編纂成ルヲ告ク展テ之ヲ読ム其文字タル華麗ノ辞ヲ飾ラス的確明瞭所謂一棒一條痕一掴一掌血ノ乃チ之ヲ名ケテ警察手眼トス蓋シ手快眼明ノ意ニ取ルト云爾
明治九年九月下旬 権中警視丁野遠影識

 私が披見した「警察手眼」は、国立国会図書館所蔵のもので縦十九センチメートル、横十三・五センチメートル、全五十五頁の書物であり、奥付がないところから内部的に配布されたものと思われる。
 その内容は、警察要旨・警察官の心得・警視官等級ノ別・部長心得・署長心得・巡査心得・探索心得の七項目からなり、文章悉く川路大警視赤心の披瀝であり、警察精神の結晶である。また、丁野の緒言によれば、その文章は「手快眼明」(手にとっては気持がすっきりし、読んでは明瞭である)であるところから「警察手眼」と名付けたという。
 当時、直久から兄駒太郎あてにの書翰には「直久儀昨冬以来仏蘭西《ふらんす》学講習傍漢学復習可致」と故郷佐喜浜に所属している漢籍を至急送ってくれるよう要請しており、警察手眼編纂には、なみなみならぬ決意を表している。
 前にも一言したごとく、同書の校閲者は六等出仕佐和正であるが、この校閲作業は、故中原英典氏によると「名義だけでなく、かなり綿密なものであった」と推察されている(中原・佐和正『東野年譜』上・警察研究第四巻一○号)。
 直久の旧友で警察手眼を贈られた坂田文平は、「至極結構なる書殊ニ該官ニ在る人ニ於いて而ハ欠べからざる品なり」と絶賛し、備前岡山栄町の出版社まで紹介し、広く頒布することを勧めている。
 山口県では、明治十年十二月六日、警視局の了解を求め「警察手眼」を印刷し、県下の警部、巡査に警察官教養資料として配布した(「山口県警察史」上巻)。また、明治十七年七月には、福岡県士族吉村增雄によって「警察手眼注釈」(本書は警察手眼注釈書としては最も古いものである)が出版されており、当時から広く警察官の間で愛読された。
 権中警視丁野遠影と直久の交遊については、既に述べたところであるが「警察手眼」の編纂に直久が登用されたのは、おそらく丁野の推薦によるものであろう。
 現在、植松家には、警察手眼原稿の一部が残されている。その原稿には、ところどころに添削が加えられている。次に掲ぐ。
 いかに開的の説を唱ふるも其進歩
の度を知らさしハ行ナハるヘカラス
譬ハ今日一夫一婦の説を主張シ「立」権妻を
廃セ
んとスルに誰歟是を許サン哉「事を主張
センに
到底得へカラさるを信スいかんとナレ
ハ人民の標準タルヘキ官員ニ於テ
先ツ是を拒ムあらん「ニ於先ツ是を拒ムへ
し」况哉他の責
ナキ「自由の」人民ニ於テを哉
当時官員中ニ流弊有リ己レカ
職務ハ第二第三ニして常ニ
高門権家ニ出入シ勤メテ諸官員
と交和を求メ巧ニ己レガ栄利
を謀るを以テ職務とスル如キ時弊
の甚シキものあり

署長
 署員の職務規則進退
 行状ニ付不行届之節ハ責
 を少警視ニ請クルものとす
 探索ノ権
 内密性復ノ権
 警部ノ「甲乙丙一の」当直中ニ決セさる事
 務
 ハ皆署長の権ニ帰スルものトス
 御用の都合ニ因ッテハ出勤時限遅
 速有るへし

警部
 部員の職務規則進退行状進
 退ニ関スル事ニ付不行届之
 節ハ責を署長ニ請ク
 ルものとス
 当直ニ生スル事件ハ署長
 の意見を問うテ決行スベシ
 其数るを渉る事の如キハ
 署長の専任ニ帰スべし
 (朱)第四十二章ニ入ル 騰了
 人の不平心ハ身を害シ或ハ世の
 禍とナるこのナレハ恐レ慎マスン
 ハアラス古人言ヘリ憂患ニ生キ
 安楽ニ死スと然しハ快ニ樂ニハ
 劫テ身不幸の基ひナレハ千辛
 万苦ハ人生の常也と「ニ」安ンスル
 を要ス世人或ハ事の曲折ニ因ッテ
 瑣末の事より不平を起シ生涯
 の栄誉を殷損スルハハ思ハ
 さるの甚タシカラス哉殊ニ仕官「官途ニ」
 の人ハ其「ニ登るの」齢ひハ中年ニ下らさ
 る
 べし斯る齢ひにして再ひ補ふ
 時ナきの「ヘカラさるの」身とナるハ亦病 むへ
 カラス哉人々□「人生」今年今日ハ
 再ひ来らさるを信シ「弁明シ」能堪へ能
 勤メテ怠タラさる時ハ必哉無
 限の幸福有らん
           騰了
 凡警視官の「心得」人民を待遇スル 
 丁寧懇切を尽シ「極メ」恰も其傅
 タルカ如クにして是を慕ハシム
 ルニ在りと虽亦是と泥マさる
 を要ス若是と泥ムハ人民の馴
 侮りを請且警視権を汚スのミ
 ナラス人民の交際の破り基
 とナらん
 とならん故ニ警視官は常ニ
 丁寧深切を主意としテ之「人民と」
 と泥マス人民ハ警察官と
 慕フテ之と馴ス此泥と
 馴るゝの二ツを両官の境界と
 し相持シテ侵ス事ナキヲ
 要ス

 (朱)○第十九章等級心得ニ入ル
 己レ價ひナくして漫ニ不適当の昇
 進を好ムものハ自其名挙を汚サル
 事を好ムもの也如何とナレハ己レ弐
 拾円の價にして三拾円の俸を得
 る如キハ即チ其十円ハ己レ貧る
 ものにして世ニ「官ニ」損害を掛るか故ニ
 必哉怨望セらるゝものとならん若己レ
 三拾円の價にして弐拾円の俸を
 得る如キハ十円ハ己ニ損シテ
 世「官」ニ益スル故ニ必ス哉必哉世ニ信
 用セらるゝ疑ひを容しさるべし
 仮令ハ爰ニ壱等巡査適当の
 人あらん是を四等巡査ニ置カバ
 必ス哉名望あらん若是を「非常ニ」抜擢
 シテ警部と為ス歟如キハ忽チ不
 人望の人とならんいかんとナレハ
 其適当の價ひを昇過シタルニ
 ありソレ官員ハ公衆の膏血
 を以テ買ハレタる物品ナレハ其價
 丈ヶの功用ナクンハ人民ニ疾悪を
 請クル言を竣タさるべし
 タさる辺シ爰を以テ其効用大
 にして其俸になるハ必ス人望有リ
 て安宅ニ住スルもの也ソレ苟も志
 気を養ひ真ニ國ニ尽さんとする
 もの豈自ラ昇進を求ムルの理あ
 らん乎素ゟ《より》仕官「其價ナクシテ」昇進ハ其
 「スルものハ」
 実其名誉を官ニ売渡スものな「其名誉を棄 テゝ却怨望を求ムルもの也」
 
 □幾分を毀損セシものと知るべし
 して固有の名誉ハ既ニ其身を
 追放セシものの如シ
 辞去シタルニあり
 辞去シタルニあり
 
 ○第七章戸口調査之部ニ入ル
 警察官ハ其管内の人物を
 注意シ且善悪理非其善悪理非得失曲直を
 精微ニ区別考察シテ怠ラサル
 べし
 仮令ハ人を十人娶メテ前二人ハ
 上「とし」六人ハ「とし」二人ハ極下と
 歟悪と歟其類を能ク区別スベし
 壱人の性質中ニも其短
 得失「種々有リ」挙ケテ数ふへカラス
 探索
 爭論を察知スルニ道有リ仮令
 ハ爰ニ「甲乙」弐人有リテ論を起セリ「あ らん」
 甲ハ平常品行有リ且実直ナ
 レトモ《異体字》言少クニ訥弁して」質美ナルカ為ニ
 人と
 爭論スルにニ弱シトス
 乙ハ平常不品行且狡猾ナレ 
 トモ弁勇有リテ人を云伏ス「爭論スルニハ人 を云伏ス
 ベキ強情有リとス」
 此爭論を聞ニ「ニ於テ」甲ハ「の」訥弁乙 ハ「の」能弁ニして甲殆ハ云伏セラレ
 「殆ヒ」曲ニ落んとスと「べし」虽警察官
 ニ於
 テ甲の平常を察シ「実直ナルヲ以テ」丁寧
 是を調ヘル時ハ甲の直ニ帰スル
 もの多シとスある「あらん事」察スヘシ
 爰ニ又甲乙二人有リ酒席上
 酔フテ爭論を起セリとス
 甲ハ平常実直無欲無欲の善人
 ナレトモ天性酒失有るものとス
 乙ハ平常強欲ナレトモ平常酒
 を好ム事ナク其一事ハ「慎ムものニして」
 慥カナル
 ものとス
 此論を察スルニ甲ハ実直ナレトモ
 平常酒失有る故ニ「を以テ多クハ」甲の曲
 ナ「ルを」
 ラン事を察スべし
 又此両人金銭取引の事ゟ《より》
 論を起セシ如キハ平生乙
 の強欲ナルを以テ多クハ乙の
 曲ニ帰スルを察スべし
 警察上右等之類挙ケテ
 数フべカラス餘ハ押テ知ル
 べし

   □その後□
 明治十年九月、直久は三重県一等属となり、三重県に赴任した。翌十二年二月五日、同県安濃郡長となり、同十三年二月十九日まで在任した。
 直久の三重県赴任は、転地療養の意図が込められており大警視川路利良から次のような書翰(御見舞状)が送られている。
 御気色如何被為
 在候哉折角御
 保養被成度候
 扨軽微之至奉存候
 得共ソップ《スープ》御用候
 段承候ニ付右之
 御用ニもと存シ
 致献上候御笑留
 被下度伺旁
 早々以上
   一月廿一日 川路利良
 植松直久様

 直久は、三重県安濃郡長在任中の明治十二年八月、西南戦争征討の際の功労により、勲六等単光旭日章が授与された。
 その旭日章は、現在、植松家に大切に保存されている。
 その後、明治十三年六月、直久は再び内務省警視局一等警視属となり、さらに翌十四年一月十四日検事に昇進した(「官位記録」)。
 しかし、このころから、しばしば高熱と吐血に悩まされ床に伏すことが多く、明治十四年五月十三日、医師佐々木東洋の診断書を添え辞表を提出、翌、六月二日依願免本官となった。
 検事を辞職した直久は、故郷佐喜浜に帰り、療養に努めたが、天はこの鬼才に余命を貸さず、明治十五年九月二十一日、三十七歳で故山に没した。
 
   □植松直久の墓□

 直久の墓碑は、室戸市佐喜浜の大日寺(真言宗豊山派)にある。
 墓は、墓地中央に建っており、正面には「勲六等植松直久君之墓」とあり、裏面には「弘化三丙午十一月十七日生 明治十五年壬午季九月二十一日 没享年三十有七」とある。
 その隣には、直久幼少の際の師楠瀬交斎の墓がある。
 現在、直久の墓は兄駒太郎の曾孫にあたられる故植松康正氏の妻聰子氏が守っておられる。

   □おわりに□

 本稿起草に際し、慶應大学名誉教授手塚豊博士には、温かい御指導を賜った。また御援助を賜った真弓六一氏、吉田万作氏、松野仁氏(高知の郷土史家)、貴重な資料の提供をいただいた故植松康正氏同聰子氏らの御厚意に深謝の意を表して筆を擱く。

     
   警察手眼
緒言
 吾長官、川路君僚属を諭す毎に劄記する所の片言隻字積て堆を成す。予、其の散逸を惜しみ、植松直久に嘱し類次せしむ、頃日編纂成るを告ぐ展て之を読む。其の文字たる華麗の辭《ことば》(辞)を飾らず的確明瞭、所謂一棒一條痕《こん》一摑《つかむ》一裳《しょう》血のみ、乃ち之を名づけて警察手眼とする。盖《けだ》し手快眼明の意に取ると云爾。
 明治九年九月下旬 
        權中警視・丁野遠影識
警察手眼
 川 路 大 警視 述
         佐 和   正 校閲
         植 松  直久 編纂
  警察要旨
一、 行政警察は豫防を以て本質とする。則ち人民をして過ちなからしめ、罪に陥らざらしめ、損害を受けざらしめ、以て公同の福利を増益するを要する也。

二、海陸軍は外部を護する甲兵也。警察は内部を補う
藥餌也。敵国外患は凶暴威迫の徒也。此等兇徒の為に威迫せられんに、強壮健全なる筋力を以て挺刃(刃)を自在に使用し一身を守護せざるべからず。若夫平常の保養なく身体研弱なるが如きは如何なる精良なる挺刃あるも、之を使用するの気力なくして終に其の斃《たお》るるを竢のみ。然れば人身の健全も國家の健全も、其の理《ことわり》一にして此の健全を保は皆平常の治療にあり。故に警察事務の皇張は、我が日本帝国の健全を大に攝養する所以也。

三、一國は一家也。政府は父母也。人民は子也。警察は其の保傅也。我が国の如き開化未だ洽子《あまねし》からざるの民は最も幼者と看做《みな》さざるを得ず。此の幼者を生育するは保傅の看護に依らざる可からず、故に警察は今日、我が国の急務と為さざるを得ざるの理ある也。

四、警察官たる者は、能く行政・司法両警察の権限を領会す可し、其の一例を挙げん。爰に人あり、争闘を生ぜり。之を停止和解するは行政の権也。既に殴傷を為す者を捕押する等は司法の権也。其の事相牽連し、一人にして両箇の権を行うと雖も判然區域ある者とする。

五、東京地方長官は、他府県長官の行政權を一統轄に歸する者と頗る其の體裁を異にせり。何となれば、警視廰東京府両立して行政事務を分任し、而て警視廰は警察の政を行う者なれば也。

六、國法汎論に曰く、命令或いは禁止の權を施行する事の緊要なるに、方ては權力なる警察専を主となりて事務は之に従属す權力なる。警保決して事務に随行するにあらずと格言と謂うべし。

  警察官の心得
七、警察官は眠る事なく、安座する事なく、昼夜企足して怠たらざるべし。

八、非を治るには、理を以てせざるを得ず。
治を保つには非常の警なくんばあるべからず。譬《たとえ》ば酒を煖るに、其の酒の温もりに勝れる。湯を以てせざれば其の酒、暖まる者に非ず。凡《おおよ》そ事物は皆、其の勝る所を以て為すべし。
故に人を警る者は、先ず己に非常の警ありて、以て人に及ぼすべし。

九、警察官の心は総て仁愛補助の外に出ざるべし。是を以て警察權の発動も亦総て仁慈の外に出ず。故に警察官たる者は人民の憂患を聞き見する時は、己も其の憂いを共にするの心なかるべからず。

一0、警察官は人民の為には保傅の役也。故に人の我に對して、如何なる無理非道の擧動あるも道理を以て懇切を盡し、其の事に忍耐強
すべし。

一一、若し某官の我が警察權を論ずる者あれば、之に答えて曰ん。我は安寧の保護官也。我れ君等に對し平和を破らず、君等は我に對して平和を保たんや。我は信ずる能はざる也。

一二、世の安寧を護せんとする者は、無事の日に於いて、有事の日として怠らざるにあり。

一三、國家は無形の一人也。不逞兇悪の徒は其の病患也。警察權は、其の健全を務むは平常の治療也。而して法官は医師也。法律は藥種也。警察予防の力及ばずして、罪犯すを捕註らえ法官に付するは即医師に渡す也。其の裁判を為すは、適當の藥を與えて之を療する也。其の違註犯の如きは誠に微、恙にして警察官之を處分する。則ち手藥を以て療する也。

一四、人を警《いましめ》るの官たる者は忍耐勉強にして、常に己の液汁を公衆に濺《そそ》がずんばある可らず。

一五、警察長は政務を執行せんより、寧《むし》ろ之を監察すべく、之を監察せんより寧ろ之を指令すべしと、佛國《ふらんす》有名のヴィヴィヤン氏の論如、此に蓋し警察官たる者の性質は己《や》むを得ざるを除く外、政務執行を好まざる也。

一六、人民は兒輩《じはい》也。警察官は其の傅《つく・かしずく》也。兒輩素より悖戾《はいれい》の行なきを保たず。故に警察官たる者は職務上、如何なる兇暴の人に逢うとも決して心を攪乱し憤怒を發するが如きの擧動あるべからず、若し此の輩と怒り爭うときは、則ち其の兒輩同等の一私人たる者にして警察保護の職務を棄てたる者とする。深く戒めざる可らず。

一七、警察官は人民の為には、其の依頼する勇強の保護人也。故に動かず驚かず、軽々しく人を譏誉せず。忍耐忠直にして能く品行を慎み、以て威信を收るを要する。

一八、凡そ警察官の人民を待遇するは丁寧懇切を極め、恰も子の傅う姆たるが如くにして、之を愛慕せしむるに在りと雖《いえど》も、亦執泥せざるを要す。若し此に泥む時は却《かっ》て其の斃
侮を招き警察權を汚すの弊害を醸すべし。
故に警察官は常に丁寧深切を主意として人民と狎《な》れず。人民は警察官を慕いて之を侮らず。狎と侮との二つを両間の境界とし相持して侵す事なきを要す。

一九、凡そ事務に現場実況を聞見して知る職務と人の届出るを待って行う職務との區別あり、能く之を察すべし。

二0、人の正すの官に在る者は常に其の至大至剛の気を養い、所謂浩然の正気を以て他の不良心を討伐するの權なきは勿論にして却って人に討伐せらるべし。然れば一の品行を失すれば輙《すなわ》ち自を其の權力の一部を剝脱せし者となるべし。

二一、警察官は人民の為には勇強に保護人なれば、威信なくんばある可らず。其の威信は人の感ずる所にあり。其の感ずる所は己の行う所の危難の價にあり。即ち人の耐え難き所を耐え、人の忍び難き所を忍び、人の為しがたき所を為すに在り。

二二、口に開化を唱えて身開化の行なき者、口に警察を唱えて身警察の行なき者、姿に警察の徽章ありて心警察の人とならざる者あり。猛省せざる可らず。
二三、人を統御するの官に在る者は、総て公正の二つに由らざるを得ず。然るに私愛を以て下を撫し、人望を収め黨與を結び漫りに己れの顯達を目的とする者あり。此等は理と法とを曲げて一身の威福を恣にせんとするの私心より出る者にして、国家に對し大なる弊害
あり。此の如きの人は其の事に黨せずして多く、其の人に黨する者也。

二四、國長を補助して國光を輝かさんとする者と、己れ其の國を占めて國長とならん事を目的とする者とは大なる逕庭あり。例えば「華聖頓」の私慾を棄て公衆を利し、大徳望を得るに及びて、猶其の國を私せず。我が衆民をして獨立自主の人たらしめん事を庶幾する者あり。又一世「ナポレオン」の如く衆望を得て國を己れに占めん事を謀る者あり。
抑、君主國長に隷属する者は理と法とを遵俸し、一己の殷譽に開せず。公正忠直にして、其の職務に斃る可き也。
二五、凡そ各人皆自主自立を目的とし、人の權利を妨げるを得ず。就中警察官吏に如きは人を警めるの官にして他の標準たるべければ、各自其の分限りに安んじ己れ十分の獨立を為し、其の餘光を人に及ぼす者と心得るべし。

二六、政府の人民を世話するも、父母の其の子を心配するも他に非ず。只各自をして、其の自主自立を得せしむるに止まるのみ。其の既に自立するや事物を交換し相互の便益を為さざるを得ず。是、交際の由て起こる所也。
此の交際に依り不良の人ありて、他の權利を妨げる等の弊あれば、此を防ぐの國法なきを得ず。即ち政府なきを得ざる所以也。夫れ一人の各人に對するも一國の各國に對するも、其の理、此の如し。抑、國にして負債あれば獨立の光榮を減殺《げんさい》し、人にして負債あれば亦自立の權を屈すべし。故に曰く己れが受けたる恩義は無形の負債也。己れが作したる借財は有形の負債也。今、夫れ分身の子にして、其の父母を養うは、其の生育せられたる負債を父母に償う也。負債を償却する事、父母、猶を此の如し、況《いわん》や其の他に於いてや若し此、有形無形の負債にして償却せざる時は、一は道徳に責められ、一つは政法に責められる。然らば則品行、何に由って脩らん。警察官は深く思を玆《ここ》に致す可き也。

二七、一度職を奉せし以上は、其の分に斃而後、己を目的とすべし。事變に際し心を動かし、或は其の名の潔に遁る等の事を為す為す可からず。抑、無官の處士なる時は、其の急なるに向うは、自ら當然なりと雖ども仕官をなせし者、大事に臨み己が官署を棄てて気随に方向を變するは名利に走り且つ一身を深くし、其の妨害を貽《おく》すを顧みざるの賊たるを免
がれざるべし。

二八、官員は元來公衆の膏血を以て買はれたる物品の如し。故に其の値に適當する功用を為さずんばある可らず。若し此の功用なき者は、其の買い主なる公衆に疎まれ、又其の物品中にも猜まるる無論也。故に官員たる者は今日勤める所の效用、其の價に適するや、如何を比較するを要す。若し此を比較すれば果して適せざる者多からん。然らば官員は都で天と人とを欺くの罪なき能はず。西人會て言えることあり。曰く汝が食らう所の粟は額上の汗と為せよと能く此の意を玩味し常に勉強刻苦して、其の額上の汗を絶えず人民に濺がずんばあるべからず。

二九、人の不平心は身を害し、或は世の禍となる者なれば恐れ慎まずんば有るべからず。古人有言曰く、憂患に生き安楽に死すと。然れば安楽は却って不幸の基なれば、艱難は汝を玉にすると云う格言を服膺し、以て千辛萬苦に安んずるを要す。世人或は事の曲折に因りて瑣末の事より不平を起し生涯の榮誉を殷損するは思はざるの甚き者也。殊に官途に登るの齢は中年に下らざるべし。斯る妙齢にして再び補うべからざるの身となるは、亦痛ましからずや、人生今年今日は再び來らざるを覺知し、能く耐え能く勤て怠たらざる時は、必や無限の幸福を得ん。

三0、一度警察官たる以上は従前の長袖を着し、宴飲快樂を恣にするは到底得べからざれば、各其の陋心を断絶し天然固有の良心を復し、職務を勉勵し國家を開明に致すを以て歎歎樂の地とする時は己れの幸福は言迄もなく國家無彊の幸福ならん。 

  警視官等級の別
三一、僚属を使用する依怙偏頗なく命意平等なるべし。

三二、部下僚屬に接する公を以て、決して私を以てすべからず。殊に無名の恵を為し、姑息の仁を行うべからず。何となれば幾百圓の厚給を得るも、元來限りあるの資を以て限なき情に償はん事、到底得べからず。強て是に恵まんとせば之を親疎區別せざるを得ず。
是則人心離反の基也。苟も一身同體と見て國家に從事すべき部下に對し愛憎を用て可ならん乎。

三三、私心
 理と法とを曲て己れ一人の譽を求め毀りを 恐る者
 人の權利を竊《ぬす》んで己れが權利を飾る者
 人の權力を借て己れが聲名を求る者
 人の權力を拒んで己れ之を攘む者
上官は父兄也。屬僚は子弟也。上官は事理に明かなる者とし下官は及ばざる者とす。故に上官は下官を監視するの權あり。

三五、下官は上官の監督を受る者也。何となれば、其の監督するの趣意たるや過誤失錯等を豫防するの仁慈に出る者にして兼て任したる職權を汚さしめざるを要すれば也。

三六、大警視は中警視以下を監視し少警視以下を監視し少警視は警部以下を監視し警部は巡査を監視す。皆、仁慈の意を以てする者也。

三七、下官たる者は、能く其の長上に從順し、其の命令を受て之を賛助するの義務ありとす。巡査は警部補を助け、警部補は少警部以上を助け、少警視は中警視以上で助け、中警視は大警視を助る者とす。皆、從順を旨とし、上官の?身と心得べし。

三八、長上の命令は篤《あつ》く之を信認し、其の代人と為て下官に達すべし。下官の上中を執達する。己れ其の下官と上官との間に中立したる周旋人と為り、其の情實を詳にし具申すべし。若し其の上申の成規に悖り又は非理に出るを見認る如きは説諭して、此の上申を止る事あるべし。決して下輩の意に泥み、之と黨
與すべからず。蓋し命令は信じて下に布き、上申は斟酌して具申するを云う、是則上を明とし下を不及とするの道理あれば也。

三九、俸給の厚薄に依り、其の任ずる所の効用も亦厚薄ある也。夫れ官祿は日々己れが任ずる
課業の價なれば、必ず其の價に適する効用なくんばあるべからず。

四0、等級の重きは、其の重き程、其の責の重きに任じ、其の勞に服せずんばあるべからず。曰く我が官俸は彼に增されり。今勤る所も、亦必ず、彼に勝る効榮なかるべからず。今彼れ一時間を勤れば、我は二時間も三時間も勤むべし。彼れ一事を為さば、我は二事も三事も為さんば、何を以てか彼の上に居らんや。或は此に反對する心得違の者あり。曰く我等級は彼に勝れり。我一度事を行えば、彼は二度も三度も行うべし。我は貴上也。彼は卑下也。彼は我に從うべし。我は彼を使役すべし。我何ぞ彼と勞を同うせんとや。抑人の上に居る者は、己れ何程骨折するも人に對し決して己れの勞を説くべからず。

四一、己れ價なくして、漫に不適當の昇進を好む者は、自ら其の名誉を汚さん事を好む者也。何となれば、己れ二拾圓の俸を得る時は、則己れは貧淋に陥り官民に其の損耗を負はしむ。故に必や怨望《えんぼう》誹讟《ひとく》せらるる者とならん。若し己れ三拾圓の價にして二拾圓の俸を得る如きは、拾圓は己れを損して官民に益する。故に必や世に信用せらるる疑を容れざるべし。譬《たとえ》ば爰に一等巡査に適當の人あらん。此を四等巡査に置かば、必ず人望あらん。若し此を非常に櫂して警部と為すが如きは忽ち不人望の人とならん。如何となれば、其の適當の價を超過したるに在れば也。夫れ官員は公衆の膏血を以て買われたる物品なれば、其の價丈の効用なくんば人民に疾悪を受るは言を竣たざるべし。是を以て、其の勤勞大にして、其の俸給少なるは、必ず人望ありて安宅に住する者也。
 故に苟も志気を養い、眞誠に國家に盡さんとする者、豈《あに》自ら昇進を求るの理あらんや、其れ然り。故に其の價なくして昇進せんとする者は、其の名誉を棄て却て怨望を求る者也。

四二、當今、官員中、己れ本文に職掌は、第二第三套に付し常に權門勢家に出入し、諸官員と交和を求め巧に己が榮利を謀るを以て務とする如き時、幣め甚《はなはだし》き者あり。豈長大息の至りならずや。

四三、巡査に於ても、亦其れ等の高下に依り、各心得あるべし。則ち一等と二等は何の為に高下あるや。二等と三等とは何の為に高下あるや。三等と四等とは何の為に異なるやを能々考察すべし。夫れ等級の高き者は、其の高き丈け賢ならずんばあるべからず。
其の給の多き者は、其の多き丈け勞なくんばあるべからず。

  部長心得
四四、公權
 部員の勤怠行狀品等才藝等を諳記《あんき》し、上官 に申供する事
 命令を下達し下情を上報する事

四五、部長たる者は、其の責の重に任し、自ら其の困難に當り、其の事に堪る。必ず其の部員に勝るの器量品等なくんばあるべからず。然れども己れ勉勵するを以て、其の部員を責る者にあらず。己れ其の責に任じ安んして職を盡すを要す。

四六、助官は順從を以て長上に事《つか》え、事故あれば其の勞に服し己が譽を長上に譲り長上の難は己れに任じ、常に上官を安心の地位に置かん事を務むるにあり。
四七、部員の爭論を聴く心に偏黨なく、能く兩方の情實を得て公平に決すべし。

四八、部員の上申を取次には、其の事實の成規と道理とに叶うや否やを熟考し、然る後に具申すべし。決して部下の意に黨し偏依して上官に迫る等の事あるべからず。
其の部の議席に臨むには議長たるを以て、議員と討論する事なく必ず先ず議員中に討議塾論を為さしむべし。
四九、上官の為には助官と為り、部下の為には指揮官と為り、或は又、其の中間に立てる周旋人たる事ある可し。

五0、部下に臨むには言い難き所を云い、為し難き所を為し、堪え難き所を堪るは兼て任ぜらるる所の職務なりと心得、決して怠たるべからず。

五一、陰に部員を愛憎し、以て陟を具申し、或は其の未發を洩し、且つ理に背き法を曲げ、己れの譽を求め毀を避る如き卑劣の心あるべからず。

五二、公則私則の別
 公則は警視廳の制規なり。私則は自守の盟 約なり。之に違う者、假令は盟約にて禁ぜし。曾合宴飲を犯せるは内犯也。人民え對し妨害を為し、或いは無禮粗暴の所為有る如きは外犯也。外犯は人民に罪を受くる者にして重きに屬し、内犯は只同僚中に罪を得る者にして輕きに屬する者なり。

五三、署長心得
署長の職務規則進退行狀等に付き、不行届あれば責を少警視に受る者とす。
 甲乙丙一部の當直中に決せざる事務は、皆 署長の權に歸す。
 公務の都合に依り出勤時限遅速あるべし。

五四、署長は、其の署の警部以下、職務上より生ずる爭事あれば、務て之を解説すべし。但し己れと警部等と對向する爭論は、必ず上官の裁斷を仰ぐ者と心得、決して己れの意見を主張し無理に壓伏す可からず。如何となれば、己れ其の被告人にして自ら其の事の裁判を為すべからざるを以て也。
黜陟賞罰、或は職務規則等の施行に付き、部下の者不服を唱て署長の意見を聞んと迫る如きは權外の尋問無用なるを以て説得す。可し猶を承服せざる時は、我は我に任せられたる職權を行う耳《に》、若し此に不服なれば、即、我は君等の為に被告人也。被告人なれば此の事を辨明するの理なし。君等も亦署長を糺問するの權なかるべし。此上は宜く長官の裁可を抑くの外に道なしと答て直に此の事を上申すべし。
  
  巡査心得
五六、上官の命令を遵守し、能く其の勞に服し、任に堪え治するを目的とすべし。

五七、上官を補助する深切なる心は、我れ補助官たる限りは、此の上官をして其の職を安全ならしめん事を保任すべし。上官に失體あれば、己れ其の補助の足らざる者し、外に向て耻ぢ内に取て己を責べし。

五八、己が失體は上官の失體也。上官の失體は己れの失體也と心得るべし。

五九、僚友は素より互に切磋琢磨の交義ありと雖ども、公私の両則を犯せる以上は決して曲屁す可からず。何となれば公私の兩則を犯し六千人の體面を汚す罪人なれば也。

六0、自守盟約は、各自の胸臆を以て誓える者也。決して人を見倣ううべからず。既に其の盟約をなすの條欵に違う可きの事は縱令幾多の人に勸誘せらるるも決して同意すべからず。

六一、巡査の職たるや自位薄祿にして其の品行は勅奏高貴の官を凌ぎ、其の勉強は數拾圓の俸給に値す。是を以て、今や公衆の依信を受るに至る。豈、美ならずや。

六二、今、巡査六千の人民に信ぜらるるは、平生國家の為に、其の分限に超えたる勉強、且つ品行あればなり。若し此の六千の巡査をして総て八九等の官祿を受けしめば、人民に於て決して嘆美する者なかるべし。

六三、巡査の職務たるや、三昼夜七十二時間の内、一人各二十四時間を勤む。其の餘定日の練兵あり、又受持ち戸口の調べあり。加るに、其の品行を失すれば、私則に責られ職務に違えば、公則に責らる。其の嚴束なる推して知るべし。

六四、他の官吏は三昼夜七十二時間に拾八時間を勤るが如しと雖も、其の内土曜日あり日曜日あり、若干時間を減却す。而して其の出勤の時間遅速あるも、其の責なく且つ不品行あるも、只一般の國法に觸るるの外、責る者なし。其の寛なる亦知るべし。

六五、然れば巡査は七十二時間の内、他の吏に比すれば六時間餘計の勤あり。則三口に一日の過勤也。之に練兵と戸口調を加る時は、又若干の時間を増すべし。

六六、他吏は休暇を差除する時は、拾八時間の内、又若干を減却すべし。巡査の嚴束なる勤と日を同うして論ず可からざる也。

  探索心得
六七、警察官は善人を探知するの深切なること、亦兇徒を探索するが如くすべし。

六八、探索の道、微妙の地位に至ては、聲無きに聞き、形無きに見るが如き、無聲無形の際に感覚せざるを得ざる也。

六九、怪しき事は多く、實なき者也。決て心動かすべからず。然れども、一度耳に入る者は未だ其の實を得ずと雖も、亦怠たらざるは警察の要務也。

七0、探索人若くは告發人、等の片言を信じ心を動し、決して疎忽に手を下すべからず。必や双方を照合し、其の實を得て然る後に手を下すべし。

七一、隠密の探索には不容易の事件あれば、能く其の事を察し、其の事に堪え得べき人物を選むにあり。而して其の人物に種々の長所あり。左に述ぶ。
 各國の動静及交際上に明かなる人。
 國内の人物を諳記し、其の心術向背等を熟 知せし人。
 内外商法交易上に達せし人。
 謀反不逞の徒に容しられ、其の動静を察す るに好き人。
 右等の徒に欺き與《く》みして探らしむるに好き 人。
 強竊盗《せっとう》、或は掏模衒騙《とうもげんへん》博徒密賣、淫を探る に好き人。

七二、探索人たる者は、膽《たん》力強勇にして表裏反復臨機應變等、其の詐術え巧みなるを要す。若し或は暗弱なる探索人にして反問に陥る如きは不容意の大害を醸すに至らん。故に探索人を選むには能く々、其の事柄を察し、其の事に堪え得べき人物を見て、然後、之を命ず可し。

七三、右等は、其の人物に因て、此の方の為さんと欲する趣意の彼の心に能く勝ち得るや。如何かを洞察し、然後其の術を施すべし。
亦其の事に於て、臨時一擧に決せざるを得ざる事と平常順序を徑て、徐々として施行する事との分別あるを能々察すべし。

七四、警察官は、其の管内の人物を注意し、其の善悪正否を精微に區別考察して怠らざるべし。例えば爰に十名を擧く、其の二人は上等、其の六人は中等、其の二人は下等とか悪とか、其の類を能く區別すべし。何となれば一人の性質中にも、其の長短得失種々あり。擧て數うべからず。

七五、人と為りを知る事。
 毀譽の輕き者。
 愛憎の甚き者。
 喜怒の速なる者。
 心に飽迄、道理を辨明し口に發する能はざ
 る者。或は又、言行を顧み漫に口に發する を好まざる者。
 心意勇猛にして好んで人を欺く者。
 狀貌婦人の如くにして大膽不適の者。
 狀貌猛者の如くにして實地に臨み見掛なき 臆病の者。
《とうも》 己れに過ちあり、其の非なるを知て改る事 を為さず底意地の強き者。
 己の迷を悟らず眞に理として言い張る者。
 一旦、言張るも、其の非なるを知て忽に改 め大に悔悟する者。
 膽、大にして心密ならず。又膽小にして心 も亦小なる者。
 如何なる難に臨んでも平気活潑にして能く 堪て事を治る者。
 外に笑うが如くにして内に怒る者、又外に 怒るが如くにして内に笑う者。
 初を難して終を丈夫にする者。又早合點に して終なき者。
 上に謟い下に苛き者。又上に抗して下に人 望を求る者。 此弊對建政治に
        少し當今に多し
 上に向て、申述するの器量なく。下に向い て上を非とし、下に人望を求る者。
 心意丈夫にして口の利かざる者、又口のみ 利きて心意なき者。
 強く掛れば弱つて服する者。又強く掛れば
 激して服せざる者。
 穏和に掛れば能く服する者。又穏和に掛れ ば倣漫にして服せざる者。
 人の言を聞て、是非を論ぜず服從する者。
     (俗に云う、早合點也)
 人の言を了解せずして、忽に悦び、忽に怒 る者。 (俗に云う、一刻者也) 
 己れが醸せし難を人に推誘し、遁辭を搆る 狡點の甚しき者。
 人の如何なる擧動あるも、理非曲直を分別 し、泰然として動かず穏に應ずる者。
 人の盛名を聞き、未だ其の人を見ずば鬼神 の如く恐るる者有り。如何なる功名の人に ても不思議に人に勝る者にあらず。舜、何 人ぞ、我、何人ぞと云いし見識なき者は陋 劣の小人なるを知るべし。
七六、事に臨み心の動静を見る事。
 其の眼色面容を見、其の聲音言話を聴き、 其の身の動作を察し、其の手足の措く所を 視る。

七七、情に侵入する事。
 凡そ人に心の浅深厚薄あり、故に此を察せ ずして疎忽に手を下すべからず。此を察す るの術たる、先ず彼の人と為りを察し、彼 に容れられずんばあるべからず。彼に容れ らるる術たるや、其の喜怒愛憎する所を察 し、其の心の趣く所に同意して侵入するを 要す。

七八、情を動す事。
 情を動すの法は、其の胸慮を動し、其の虚 實を察し、或は怒らしめ、或は容れ、或い は拒み、或は詐り、或は信じ、或は威し、
 或いは慄る等、盡く欺術を以てすべし。

七九、情を察する事。
 賊の事たる他にあらず。欲と情との二つに あり。故に賊を探索するには、賊の欲情を 共にせし者に因るを上策とす。即彼の情あ る婦人、彼の恩ある人の類。

八0、事變を察する事。
 凡そ探索上、異變の狀況を聞く時は、能く
 々勘考塾察すべし。決して疎忽の擧動ある べからず。其の横死人等の變ある時、探索 の方向を定る。訣に曰く、爰に人を殺せり 此を殺して益する者は誰ぞ。

八一、兇徒の心素より浩然の養なく、其の気、常に飢えたる者なれば、右等の術に於て必ずや、其の言葉を盡すことを得ず。亦其の虚飾を遂げ得ること能はざるべし。是則天と人とを欺き得ずして到底天網を免れざるの理ありとす。

八二、爭論を察知するに道あり。例えば爰に甲乙二人あらん。甲は平常操行正しく、且つ實直なれども訥辯にして人と爭論するに拙し。乙は平常不品行、且つ狡點にして雄辯快舌爭論するには人を言伏すべき勢力ありとす。此の爭論に於て、甲の訥辯乙の能辯に言伏せられ、殆んど曲に陥んとすべしと雖も、警察官に於て甲の平常實直なるを以て、丁寧此を調る時は甲の直に歸する者あらん。篤く注意すべし。
又爰に甲乙二人、酒席上酔って爭論を起こす者あらん。甲は平常實直無欲の善人なれども、天性酒癖ある者とす。乙は平常強欲なれども、酒を慎む者とす。然れば、甲は實直になれども、平常酒失あるを以て多は甲の曲なるを察すべし。
又此の両人、金錢取引の事より爭論を起こせし如きは、平生乙の強慾なるを以て多は乙の曲に歸するを察すべし。
警察上、右等の類擧て數うばからず。。此其の一例也。餘は推て知るべし。

八三、夫れ無、産業にして坐食する者は、必幾分か良民の權利を妨る者也。故に此等の徒は、其の履歴を査して、其の行狀を知り、其の友を觀て其の人と為りて視。其の既往を微して、其の將來情慾の發動する所を察す。是、警察官の於て戸口調査の止む可らざる所以也。

八四、又曰く凡そ人は、自己れの一身を生活すべきの營業なきを得ず。此を勵む者は良民也。無營業にして坐食する者は不良民也。此の不良民は幾分か良民の權利を妨くるの理あり。故に警察官たる者は、先ず此不良民を注意警戒して怠たらざるべし。是則兇を防ぎ良を護するの意也。

八五、世に兇悪の徒なきを得ず。人に兇悪の心なきを得ず。只警察の手眼を以て、是を抑制するのみ。故に曰く賊よ汝為さんと欲せば為せ汝が為さんとする所は、我が眼盡く視る汝が為さんと欲する心は、我盡く知れり汝能何をか為さん哉。

   □あとがき□

 本書は、昭和五十六年五月号の千葉県警察本部発行の機関誌「旭光」誌上に発表したもので、今は亡き慶應義塾大学名誉教授手塚豊先生の熱心な御指導の下、その他多くの方々の御協力によって誕生したものです。
 今回新たに、その後、判明した箇所について若干の補筆を加え、更には巻末には、私が披見した国立国会図書館所蔵の「警察手眼」全文を掲載しました。
 本来、もっと早く世に問うべきもんではありましたが、浅学かつ非才、遅牛の歩みを続けてきた私にとって上棹までに幾星霧を数えてしまった。
 この拙い著作がいささかなりとも「警察手眼」研究に裨益するところあれば、望我のよろこびである。
 この拙稿を上棹するにあたり、寿美術印刷株式会社社長佐野兌孝氏に種々、ご助言とご配慮をいただいた。記して感謝の意を表したい。
 終わりになりましたが、貴重な資料を快く提供していただいた故植松康正氏の妻植松聰子氏のご厚意に深謝の意を表すとともに志半ばにして夭折した植松直久の御霊に哀悼の意を表して筆を擱く。

   平成十五年十二月

 著者略歴
   露崎栄一(つゆさきえいいち)

 昭和二十四年四月 千葉県夷隅郡大原町
           日在 生まれ
 昭和四十七年三月 駒沢大学文学部歴史
           学科卒
 昭和四十七年四月 千葉県警察へ奉職


 一部、□はじめに□を割愛させて頂きました、ことをお知らせ致しす。 

2012年12月1日土曜日

室戸の民話伝説 32話 式神の金蔵

                   絵 山本 清衣




式神の金蔵

 昔、むかしの話じゃ。とは言うても、山内の殿様の時代じゃきん、高々四百年よ。
 羽根の冬ノ瀬集落に、金蔵という名の杣《そま》(きこり)がおった。なかなかなイゴッソウで、一生嫁を貰わんづくじゃったという。この金蔵かなりの信心者で、曲がったことは何一つせん男じゃった。 
 ある日、韮生《にろう》(香美市物部町)の奥山へ仕事に行った。そこで長らく仕事をする内に、金蔵の真直ぐな心根を見込んで、土地の行者が『式《しき》神《じん》を打つ法』を教えた。うーん!、式神かよ。式神と言うたらのう。まあ、今で言うたら『御祈祷・呪』と『気合術』を一緒にしたようなものよ。ほら、藁人形をこしらえて、五寸釘を打ち込んで人を呪い殺すと言うものよ。話は聞いたことがあろう!。まあ、あれに似たようなもの。迂闊《うかつ》な者に教えると、これを悪いことに使うと大事じゃきに、なかなか、誰彼かまわず、滅多な者には教えたりせなーよ。
 それで、金蔵が機嫌のえい時に「おらが一つ、面白いことを見せちゃるきに、見よれ」と言うて、地面に三尺(99㎝)ばあな棒杭を掛け矢(木槌)でこじゃんと打ち込んじょいて、パン、パン、パン、と三遍柏手を打つたら、打ち込んである棒杭が、スッと地面から抜け、飛び上がったと言うがのう。
 また、仕事休みの日、家で転寝《うたたね》していた。金蔵が急に顔をしかめて「おお、面倒くさい、たまらん。また、あの喜三兵衛《きそべえ》の内の子が喉へ魚の骨を立ててやって来る」と言うもんじゃきん、隣に居た人が、”まことじゃろうか”と思うて外へ出て見たところが、なんとおなん(母親)に手を引かれて子供が来よったという。それが金蔵の家の前まで来ると、ちゃっくり治って帰《い》ぬる、というきに不思議よのう。
 またある時、金蔵が仕事をしよって足の骨を怪我したもんじゃきん、城下へやって来て医者に掛かっちょった。ところが、ある日のこと、痛い足を引きずりもって鏡川の天神橋で来たところが、山内の殿様の行列とバッタリ出会ったわ。 
 殿様の行列と言うたら、ちゃんと土下座をせにゃあいかざったが、金蔵は「足を怪我しちょりますきに、中腰でこらえてつかさいませ」と、頼んだけんど、「ならん、卑しい下郎の分際で中腰は許さん。あえて土下座をせぬとあらば番所へ引っ立てるぞ」と、言うもんじゃきに、仕方なしに痛い足を堪えて土下座をしたが、さあ、それからが大事よ。
 殿様の行列が橋を渡りにかかり、橋の中ほどに差し掛かった時、どういうもんか、殿様の乗っちゅう駕籠《かご》が、いきなり川の中へドブンと落ちこんだわ。たまるもんか、殿様は駕籠の中で逆さまになってタッパ(手・イカのアオリ、鯨の胸びれ)をこきよらあ。真っ青になった家来どもが、ドボン、ドボンと川へ飛び込み駕籠の中の殿様を助けて岸へ連れ、顔・頭を拭くやら着物を絞るやら大騒動よ。土下座をしちゅう百姓やら町人は笑う分けにもいかず、皆、うつむいて目を伏せ、袖を引くやら、殿様の威厳は丸潰れよ。
 それでも、ようようか行列を整えて、もう一遍橋を渡ろうと中程まで来たところが、なんとまあ、不思議なこともあるものよ。また、殿様の駕籠が、ドボーン、と川の中へ落ちた。わけが、わからん家来!。ドボン、ドボン、ドボンと全員が川に飛び込み殿様を助けると、今度は川をザブザブ、ザブザブ、向こう岸へ渡り、ようよう殿様と駕籠を担ぎ上げたという。
 さて、その帰り道で、金蔵が連れの男に言うことに、「どうなら、おらの下馬落としは・・・、鮮やかなもんじゃろうが。おらが足が痛いきに”土下座は許してつかさいませ”と、あればあ頼むに、どうしても聞いてくれんもんじゃきん、二回、落としちゃったわや」と言うもんじゃ。
 たかあ、昔の人は不思議な術を知っちょたものよのう。

                            文 津 室  儿
         
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