2013年12月1日日曜日

室戸市の民話伝説 第44話 猿目の利平


第44話  猿目の利平

 この噺は、天下分け目の関ヶ原の合戦(慶長五年・一六00年)の頃というから、もう四百年を有に越している。
 猿目《さるめ》の利平《りへい》さんこと専《仙》頭利平さんは、吉良川・西の川の釣ノ口で、夏はアユやアメゴの川魚を冬はイノシシやシカを、簎《やす》や鉄砲で捕る猟師を生業《なりわい》として暮らしていた。
 槍・鉄砲の心得があったのか、その腕前は、土佐一円の郷や浦々にまで聞こえた、という。その腕前を、二三例、記してみよう。

                     絵  山 本  清 衣

 その一、娘子の頭に、幾枚もの短冊を結び付け川向かいを走らせ、その短冊を一枚一枚撃ち落とした、という。
 その二、また川のせせらぎに、縫い針を仕立てた笹舟を流し、その針を一本一本撃ち落とした、ともいう。
 その三、ある時、鎖鎌《くさりがま》の武者修行者が利平さんを訪れ、一手御教示頂きたい、と他流試合を申し込んだ。
 利平さんは「承知した」と応え、鉄砲を取り出した。それを見た武芸者は「鉄砲には敵わない」と言って逃げ出した。
 すると利平さん、取り出した鉄砲で逃げる修行者の深編み笠の紐を撃ちきり、ついで笈紐《おいひも》の左右を撃ち切り、さらに草鞋《ぞうり》の紐の左右を撃ち切り「さあ、今度は命をもらうぞ」と鉄砲を構え直した。
 武芸者は、「仁王立ちの利平さんを見るや」山道の曲がり鼻に隠れながら、「命は地の利が守ってくれる」と言って逃げ去った、という。
 「猿目の利平さん」のいわれは、これらの噺を察すれば分るように、利平さんの目は猿の目のように鋭く、物が良く見えた人であった。そこで村人達は「猿目の利平さん」と、尊称した、という。
 この腕前を長宗我部盛親に見込まれ、関ヶ原の合戦に従軍した。合戦は一日で決着、西軍豊臣秀頼軍の敗戦で終わった。
 この合戦で利平さんは武勇を振るう。敵方武将を打ち捕り、その生首を槍先に結びつけ、陣に帰る途中戦《いくさ》の疲労が出たのか、道すがらのお寺の縁先を借り仮眠をとった。
 しばらく微睡《まどろ》み、目覚めてみると槍先の首《しるし》がない。そこここを探すがない。落武者の身の利平さん気もそぞろ、仏堂の軒先に吊してある鰐口《わにぐち》(振って音を出し、神仏に参詣を告げる鳴り物)を頭《かしら》代わりに失敬して、陣に無事帰り着いた、という。  
 さてはさて、持ち帰った鰐口に付いて、平成五年(一九九三)五月、枚方市市史編纂室より、「土佐振谷観音堂鰐口」の所在の問い合わせが室戸市市史編纂室にあり、吉良川公民館が対応する。振谷とは吉良川西ノ川の現・古矢のことである。
 同町・長者野の岡村武信氏に問い合わせる、と鰐口が現存する事が判明した。同年、枚方市より調査団来訪し鰐口の実測調査を行った。
 これより二十三年前、この鰐口の存在を突き止めていた人がいた。長者野出身で仙頭勝氏(明治二八年生)がいる。海軍大佐の前歴のある同氏は昭和四十五年、自らのルーツを辿って、長者野を訪れ、「御先祖の面影を尋ねて」を認《したた》めている。その文章中、鰐口に付いて次のように記述している。
 「神社を辞して云々・・・長者野を過ぎ、渓谷と急流の絶景を鑑賞しながら朴《ほお》の木に着きました。ここには無住職の高福寺と言う庵寺があり、村人が語り伝える専頭利平(人呼んで猿目の利平)の伝説を裏付ける鰐口があり、鰐口には次の銘が刻まれていた。
 永享十二年十二月二十六日 鋳大工 藤原
 家忠
 河内国交野郡田宮郷内山上 延命寺
 永享十二年(一四四0)に鋳造の物で五三0年前の作であります」と綴られている。
 利平さんが仮眠に耽ったお寺は、河内国交野郡田宮郷内山上の延命寺(延命寺は明治十三年廃寺となる)であった。利平さんは持ち帰った鰐口を、郷里の五所権現(現五所神社)に納めたが、居心地が悪いのか!夜ごと夜毎鳴動してやまず、里人は気色ばむ。振谷(古矢)観音堂とか高福寺に納め直すと治まった、とするがその変転は謎が多い。 
 今として、土佐振谷観音堂が何処にあったか、五所神社と混同されたものか、知るすべが無いが、文化年代の著作とされる「南路志」の記述から押して、五所神社に掛けられていた事は事実である。
 そののち、どのような経路を辿ったか不明であるが、朴の木の高福寺に移り、現在は長者野の集落が保存している。 
 なお、鰐口は平成一五年六月二十日、室戸市文化財として指定された。
 猿目の利平さんは、実在の人物であった。仙頭姓の一族は、利平さんを大先祖《おおさきつおや》だと敬い、その子孫達が建てた墓には、「専頭利平 了笈信士 行年八十八歳」と刻まれ、釣の口集落にあり、手厚く今に祀られている。
            
                                                                 文  津 室  儿
         

2013年11月2日土曜日

室戸市の民話伝説 第43話 鯨一千頭の位牌


   鯨一千頭の位牌

 室戸市の中心地、浮津の宮地山に中道寺が鎮座する。このお寺の宗派は日蓮宗であり、本山は広普山《こうふさん》・妙国寺《みょうこくじ》(大阪府堺市)で開基は三好之康《みよしゆきやす》(義賢・実休)であった。もとは香美郡上田村(現南国市)にあった桂昌寺の脇坊の一つであった、が退転していたものを捕鯨浮津組初代頭元《とうもと》宮地武右衛門が、
『注記 捕鯨浮津組に付いて、浮津組の起こりは津呂組に遅れること三十五年後の万治三年(一六六0)藩の援助を受け、地下人共同で始まり、貞享二年(一六八四)より宮地武右衛門の個人に移り弘化三年(一八四六)までの百六十二年間の経営であった。後には佐藤氏が経営したが長くは続かず、浮津捕鯨株式会社へと移った。この地にも近代化の波は襲い、ノルウェー式銃殺捕鯨が明治三十九年(一九0六)に入り、遂に津呂・浮津両組古式捕鯨は二百七十二年間をもって終焉を迎えた』元禄十年(一六九七)に藩に願い出て浮津村へ移し、宮地山中道寺と号した、と伝えられる。
 この中道寺には、鯨にまつわる説話が一つある。ころは宝永地震(一七0七)も落ち着き、正徳年間の、とある秋も深まった頃に、このお寺の住職が夜更けにお勤め、読経を上げていると、山門をトントンと叩き案内を請う者がいた。この夜更けに何方が、と訝しく思いながら住職は読経を中断して山門を開けてやった。そこには、年の頃なら十七八歳で、見目麗しい娘子が立っていた。


                         絵  山本 清衣

 住職が、「この辺りでは、ついぞ見かけぬ娘子だが、さては何所から、何用でお出でかな」と、問えば。娘子は臆する様子もなく、「実を申せば、私は人間ではありません。この海に住む鯨です。明後日には浮津組・宮地幸六殿の網に掛かることが、すでに分かっております。私は女に生まれて、子を宿す悦びすら知らずに一生を終える身にございます。今夜、ご住職様にお願いごとがございます。どうかこの身が生きていたあかしを、来世で浮かばれますようにお祈りを上げて下さい」と、涙を流しながら嘆願した。住職は娘子を大変哀れに思い、「そのことであれば、ご安心くだされ。私も僧侶の身、その方の願いは十二分に聞き届けましょう」と、応えた。すると、娘子は嬉しそうな仕草をして、だんだんに礼を述べたかと思うと、かき消すように居なくなった。しばらくすると、沖の方で雷鳴が走り海が鳴動し始めた。この鳴動は先程の娘子の喜びの現れであろう、と住職は娘子の願いを一心に込め読経を続けたという。
 翌朝、住職は昨夜の不思議な出来事のことと次第を、浮津組鯨方の頭元宮地氏に語った。話を聞き留めた頭元は、この身の生業の罪深いことを改めて思いおこし、「人間は生きとせ生きるものの命の布施に因って生かされている」感謝こそすれど忘れてはなるまい。鯨には畏怖畏敬の念を持って接することを心に誓った。
 宮地浮津組は天保八年(一八三七)、鯨捕獲数が千頭に達したのを期に、鯨の菩提を弔う六角供養塔(昭和九年(一九三五)は第一室戸台風にて倒壊)や現在二基の鯨大位牌が現存、その大きさは( 15.×54.8×106.8cm、位牌正面に、南無妙法蓮華経 鯨魚供養 右には、南無釈迦牟尼佛 有情非情法界平等 左には、南無日蓮大菩薩 一乗法雨率土充治 と記され、裏面には、 宮地氏捕鯨自寛政庚申至天保丁酉凡及 一千因為其鑄鐘寄附中道寺猶託余讀誦玅 經五十部以設供養仰願鯨鯢速脱患苦疾證 得菩提乃至法界利益無窮 天保十一年庚子二月涅槃忌神力山日凝稽首欽 と記されている)鐘楼を造立して供え供養に心血を注いだ、ことは娘子との約束を果たしたと言えよう。 
 今に伝わる、鯨の大位牌を拝観されたい方は、事前に中道寺様に願い出れば、お見せ頂けると存じます。
 尚、六角供養塔は前述の通り無く、梵鐘に付いては、先の大戦時に供出し現存致しません。

                            文  津 室  儿
         

2013年10月1日火曜日

室戸市の民話伝説 第42話 八丈島の盆踊り


 第42話   八丈島の盆踊り

 この話は、文化文政時代(一八0四~一八三0)の頃と云うから、約二百年前の江戸幕府も終りを告げよう、とする頃であろう。
 その頃、佐喜浜の浦には井筒屋と云う大層な長者が住んでいた。この長者の持ち船で、百石積みの住吉丸には三人の船方が乗っていた。船頭は室戸から養子に来たと云う松本亀作、甲板員は米倉の安七、賄夫《かしき》は甲浦の二宮清三郎であった。三人はそれぞれ妻子持ちで、妻子可愛さに毎日せっせこと働き者で、上方(阪神)通いに余念がなかったと云いう。
 
 今日も又、根丸の浜では、山から伐り出した保佐《ぼさ》(薪)を船に満載して、日和を押して出港した。
 住吉丸を送る妻や子らは、白い帆が見えなくなるまで見送っていた。夜の帳《とばり》が包み始める、と家族は金毘羅宮に急ぎ灯明を捧げ海上安全を祈った。
 その晩、何時《なんどき》か南風《はえ》が吹き始め、しだいに大時化《おおしけ》となった。しかし夜が明けると、時化は去り空は晴れていた。沖は静かで、遠い阿波の山並みの頂きに、嵐を運ぶ雲がぽっかりと浮かんでいた。
 その日は過ぎた。三日経ち、四日経っても船は帰らない。一月待っても、一年経っても、恋しく懐かしい夫や親父は、神仏への祈りも虚しく戻ってはこなかった。
 
 当の住吉丸は「鳥も通わぬ八丈ヶ島」と、歌に詠われる八丈島へ、三日三晩漂流のすえ、船頭の亀作も清三郎も、そして歌好きの安七の三人は食い物も飲み水も尽き果てて、なお命だけは取り留め、無事漂着していた。
 八丈の島民たちは、漂着した三人を「土佐のお流れさん」と云って親しく迎えいれ、庄屋が世話をする事となった。
 
 日が一日々経つにつれ、三人の心情は故郷に残る妻や子への思いがつのるばかりであった。そこで、船頭の亀作が「安七よ!清三郎よ!、一つ家の方を眺めて気晴らしをしようじゃないか」と二人に一計を持ちかけた。二人は直ぐさま話に乗った。
 それからと云うもの、三人は連日のように連れ立って庄屋の裏の日和山《ひよりやま》に登った。三人は「あそこらが家じゃろか、にゃー」などと、西の方角を眺めては大声をあげて泣いて、泣いて、泣き暮らすことを一日の仕事にしていた。
 
 それを見かねた庄屋の爺は、不憫に思って「土佐のお流れさんや、そんなに嘆かっしゃるな。今に佐喜浜へ帰らしまっしゃろ。八丈島と云うても、たかが日本の国の内じゃ。帰れんことがあるもんか」八丈島の米が豊作であらば、年貢米を納める年も数年に一度はある。それに便乗すれば帰られる、と慰めた。
 
 庄屋の慰めから幾月か経った。そして又、年に一度の盆が来た。盆には故郷の盆踊りを思い出した。一人が口説き、一人が囃子を入れ、一人が踊る。故郷の根丸の浜を偲びながら、月のある浜辺で踊り明かしていた。これを、ひそかに見ていた島民が「土佐のお流れさんが妙に楽しい舞を舞っている」と島役人の庄屋に訴えていた。間もなく庄屋から、三人に呼び出しがあった。これはてっきり昨夜の踊りで、お咎めがあろうと恐る恐る出頭した。

               絵  山本 清衣

 すると、庄屋は「お主ら三人は、ひそかに踊りを楽しむとは怪しからん。今夜からこの庭で、島民に踊りを教えてやってくれ」と命じられた。娯楽や楽しみの少ない離れ小島の八丈島に、土佐は佐喜浜の盆踊りが伝わることになった。
 
 そして又、日々は流れた。三人の家族等は、「住吉丸の三人は、どこかへ漂流難破して死んでしまった」ことと諦め、出港日を命日として葬儀を済ませていた。
 早いもので、三人の三回忌の法事に取り掛かていた。すると、そこにひょっこり三人が現れた。家族は吃驚仰天、幽霊が出たかと三人の足元を誰もが見た、足は付いている。ものも言う。法事の席が祝いの席に替わったのは云うまでもなかった。
 
 それから、十五六年の後のことである。八丈島の農夫が、船に牛を積んで相模国(現神奈川県)の横浜に渡っていた。船は夜来の大時化に遇い、舵を失い漂流、根丸の浜辺に漂着した、という。
 船頭の亀作ら三人は「八丈島のお流れさん」と親しく交わり、帰郷に向けたお世話をしたという。縁《えにし》とはまことに面白き哉である。
 
 「土佐のお流れさん」が伝えた、佐喜浜の盆踊りは、今、東京都無形民俗文化財として保存され踊られている。これを教えた土佐のお流さんの亀作、安七、淸三郎の名前は八丈樫立て地区の盆踊り創始者として伝えられているという。
                                                                文  津 室  儿
         

2013年9月1日日曜日

室戸市の民話伝説 第41話  姥捨ての滝 


 第41話   姥捨の滝

 世に姥捨山《うばすてやま》ばなしは六百余話以上に登り、また世界中に類似ばなしは数多あります。そのような中、ここ土佐の地には姥捨の滝が津呂の宮の滝、檮原《ゆすはら》の姥ヶ滝、大豊町の姥ヶ滝の三カ所が記され、滝に姥を落とす話は稀であります。
 津呂の宮の滝は、王子宮本殿の東側の山寄りに、幅5~6㍍、高さ30~40㍍余り。夏なお、枯れることを知らない滝があります。そこに伝わるお話です。
 むかしも昔、戦国時代のころ、津呂の小高い丘にお城があり、鬼塚七郎右衛門という殿様が住んで居ったそうな。その殿様は我が侭《まま》で、年寄りが大嫌いでした。
 ある日のことです。殿様は、家来に城下に立て札を立てるように命じました。その立て札には次のようなことが書いてありました。「齢《よわい》六十歳を過ぎた年寄りは、滝に捨てるべし。これに従わない者は皆殺し」
 この高札をみた者は、家中の者が殺されるのを恐れ、殿様の命令に従わざるをえません。
                絵  山本 清衣

 宮の滝の東側に、歳老いた母親と孝行息子の真吉《しんきち》が暮らしていました。
 「真吉よ、私はもう六十歳を過ぎました。滝に捨ておくれや」
 「お母さん、真吉にはそんなむごい事は出来ません」
 「真吉や、隣の家のお婆さんも、前の家のお爺さんも、もう滝に捨てられました。悩む事は何もありません、よ」
 真吉は、しぶしぶ母親を背中に背負い、滝の頂上に登りました。
 真吉はいくら考えても、母親を滝から捨てることができません。
 真吉は夜の帳《とばり》を待ちかね、また母親を背中に背負い、こっそりと家に帰り、裏の納屋に隠しました。
 数日たった、ある日のことです。殿様は、村人に「灰の縄」を作るように命じました。
 「お母さん。お殿様が灰で縄を作れ、と命じました。作ってみましたが出来ません。誰も作れないと年貢が高くなります」と、嘆きました。
 「真吉よ、それは簡単ですよ。教えて上げましょう」
 真吉は云われた通り、藁縄《わらなわ》で輪を作ると、それを塩水に浸し、乾かして大皿に載せ大皿ごと焼きました。見事な「灰の縄」が出来上がりました。
 真吉は喜び、出来上がった「灰の縄」を慎重に殿様の御前にはこびました。
 殿様は、お主、なかなかやるではないか。よかろう。それでは、もう少し難しい問題を出そう。これは、一本の棒である。どちらが根の方で、どちらが穂先か、一両日中に答えを出せ、と命じました。
 真吉は、棒を家に持ち帰り考えましたが、いくら考えても分からず、途方に暮れるばかりでした。
 母親は途方に暮れる真吉を呼び、簡単なことだから教えましょう。
 「水を張《は》った桶を持って来なさい」
 真吉は桶を用意して水を張り、棒を桶に入れました。
 「見てご覧。沈んでいる方が根で、浮いてる方が穂先ですよ」
 「再び殿様の前に出た真吉は、母の教え通りに桶に水を張り、棒を入れ実演をして見せた」
 殿様は、「お主はなかなかな者だ。それでは一番難しい問題を、と云って三度《みたび》出した」
 「それでは最後の難問だ、叩かなくとも音が出る太鼓を作れ、と命じました」
 真吉は真っ青な顔をして、太鼓を携えて家に戻り母に助けを求めました。
 「母親は、とても簡単ですよ。山に行き蜂を数匹捕まえてきなさい」と云った。
 母親は太鼓の皮を少し緩めると、その中に蜂を入れ、元通りに皮を締めました。すると、蜂は逃げようと太鼓の皮にぶつかり、音を立て始めました。
 喜んだ真吉は、難題の音のする太鼓を殿様に献上しました。
 殿様は、「参った。そなたは、たった一人で三つの難題を解いたのか・・・!」
 「お殿様、真実を申し上げます。問題を解いたのは、私めではなく歳老いた母親です。お殿様は、年寄りを滝に捨てるように命じました。でも私は、そのような残酷なことは出来ませんでした。それで母親を納屋に隠しました。年寄りは、体が弱くなっても、若い者より遥かに物知りです」
 殿様は暫く考えて云いました。
 「その通りだな。儂が間違っていた。許してくれ、もう年寄りを滝に捨てるのはよそう」
 お殿様は、若い者は年寄りを大事にするべし、と云うお布令を国中に出しました。
 母親の知恵で、これより浦人は平穏無事に暮らせた、と云うことです。

                                                                    文 津 室  儿
          
 

2013年8月5日月曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 十三 七人岬や色々の俗信 35〜38


 第35話  吉良川老媼夜譚  十三
  
七人みさきやいろいろの俗信 35-34〜38
 
 七人岬と言うことは、今におき(今風に)申します。安堵《あんど》にようつかん者(仏の仲間に入れない者)が集まったもので、海で不意死《ふいし》した者などが集まっていたりするといいます。この東ノ川では、今までに何人も不意死をしますが、七人岬の祟りじゃと言うことになっちょります。
 神隠しになるじゃと言うことは、町分ですきに今まであんまり聞きませんが、私の知っちょるのは、娘のころ奥の西山でおみつというお婆さんが、お手水《ちょうず》へいてことりというたと思うたら、それからおらんようになって、地下中が総出で鉦太鼓《かねたいこ》を叩いて、「おみつよう、もどせやあ、返せやあ」いうて、夜は松明《たいまつ》を点けて探し回ったことがございました。私らはこおうてこおうて、(註、怖くて)よそへはよう出ざったほどでございました。
 神隠しじゃございませんが、人がふさいで開かんようになった時は、屋根の上へ上がって、箕《み》で煽《あお》いで呼び返すいうことがございます。松三郎いうもんが、開かんようになって、家の者が屋根の上で、「松三郎よう」いうて、一日中呼んで、つまり三日目に返ったことがございました。
 お産の火は、アカビ(赤火)いうて一般に嫌い、大山を超すと狼につけられるとか、化け物につけられるとかいうて、今にりぐるふうがございます。山に行く者やら漁に行く者などは、こじゃんと嫌うて出ませんが、火を合わせしますと平気になります。
 送り盆(十六日)には船出をせられん、出て病みついたら治らんなどと言うことは、今によく言うことでございます。
 鳥《からす》が家の近くで鳴くと、気を悪がるふうがあったり、鶏《にわとり》が宵をうたうと不意なことがあるなどというて、市《いち》(巫女)さんにたんねてもろうたりすることもございます。家をつついたりしたら、神さまや仏さまに粗相《そそう》をするきに、家祈祷《やぎとう》いうて太夫さんを雇うて、正五九月(註、旧暦の正月と五月と九月との称。忌むべき月として結婚などを禁じ、災厄を祓うために神仏に参詣した)の祝い日に祈ってもらうことがございました。信心じゃいうものは、人によって見えん人と見える人がございますが、信心しよると、おかげ(ご利益)のないということはないと思うちょります。 それから、春祈祷いうて、正月に「明日は春祈祷ぜよう」というふうにふれ(註、周知のために広く告げ歩く)てきて、四日ごろ八幡様で町の家々の家祈祷をしてお札を配ってきたりします。そして、この時には、町の境へお注連《しめ》と弊をかけた竹笹を立て、お礼を挟んで置くふうが昔から続いております。
 家々の軒下に、悪病除けや悪魔祓いのまじないに、大蒜《にんにく》や八つ手、辛子などをつるしたりもします。海岸の家には骨のある貝(悪鬼貝)を吊るしたりするところもあります。

   祟る家  35-35
 この吉良川の東ノ川を奥へ奥へとつけて行きますと、日向《ひなた》という山奥の小さい部落に行きあたります。この日向から、小股越《こまたご》えという所を越すと、佐喜浜町へとんとん下りて出る山道がございます。昔から佐喜浜の魚売りが、山越にこの山奥の大平じゃとか東谷じゃとかいう里へ、籠を担うて売りに来ます。町分より魚の値段が安いということがあったりするほどでございます。と言いますのは、佐喜浜まで灘回り(註、室戸岬を回ること)をすると八里も歩かねばなりませんが、小股越えですとわずか三里と言いますから、こういうこともあると思います。
 この日向に聖《ひじり》さまというて、回国のお坊さんの霊を祭った小さいお堂がありまして、そのお宮がよく人に祟るというので、村のもんから恐れられております。これは昔、大阪方の片桐《かたぎり》且元《かつもと》(註、戦国時代から江戸初期の武将)という忠義もんが、頭をおろして僧形になり、この所まで落ちのびてきて、佐喜浜へ出る小道を土地の者に聞いたところ、聞かれた者が土地の猟師じゃって、この坊さんがどっさりお金を持っているということを知って、材木谷というへち(間違った)道を教えたと申します。坊さんが材木谷へ入っていくのを見送った猟師は、それからそっと後をつけていて、鉄砲で狙い撃ちにしたといいます。
 坊さんはびっくりして岩から滑って足下の川に落ち、濡れびしょになって上がってきましたが、そこをまた狙い撃ちにして、とうとう殺してしまいました。その時、白い鳩が三羽(註、聖の伝言)飛び立ったといいますが、死にぎわにお前の家はこれから金持ちになるか知らんが、尋常には暮らさせんというてこと切れたといいます。
 日向には、これに関係した家が二軒ありまして、それから祟りがえろうて、この家には唖の子が二人もできたり、不意死の人が何人も出たりしました。そこでお宮を建てて、聖さまというて、毎晩お光りをあげたりして三代ほどになっておりますが、一番近い不思議な出来事は十年ほど前のことでしつろうか、その家の殺生人が棕櫚《しゅろ》の箕《みの》のを着いて、聖さんのお堂のはたでこぼうじょり(註、小さく縮む)ましたところが、見る者が見ると、どう見ても猿に見える、そこで鉄砲で撃ったところが、昔わざした人の内の男じゃったということがありました。今じゃ、材木谷は聖谷《ひじりだに》ということになっちょります。こわい話でございます。
 

 以上を持ちまして、吉良川老媼夜譚は三十八話をもって終了致しました。長い間のご笑読有り難うございました。御礼を申し上げます。

 さて、次回より、徒然に室戸市の習俗・俗信などなどを綴ってみよう、と思っています。お楽しみ頂ければ幸いです。

                             津 室  儿
          

2013年8月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第40話 ウツボと徳爺さん


第40話  ウツボと徳爺さん

 それはそれは、とっとの昔の事じゃった。
室津郷山田の里に、川釣り、海釣り何でもござれの、徳助《とくすけ》と云う釣りキチ《上手な》爺さんが居りました、と。
 今年も梅雨が明け、待ちに待った夜釣りの季節が来ました。
 徳爺《とくじい》さんは去年の竹の旬、旧暦八月に伐った古参竹《こさんちく》や真竹《まだけ》で数本の釣竿を拵《こしら》え、準備をととのえて闇夜の晩を待ちかねていました。
 「今夜は雨も降るまい」と、
徳爺さんは呟きながら、小さなカンテラ(携帯ランプ)をさげ、里の東の三津坂を越え丸山にむかいました。
 丸山は、通称「明神《みょうじん》さん」(明神とは、日本神道の神の称号の一つ。神は仮の姿でなく、明らかな姿で現れている、と云う意味)と親しまれている北明神神社が鎮座まします。
 徳爺さん、いつも明神さんにお詣りをして鳥居の前のスマシロの磯にでかけました。
 この磯はクエやイセギ、大鯛まで釣れる、徳爺さん取っておきの穴場です。
そんな穴場ですが、
 「今夜は、とんと当たりが無いのぅ!」と、
ぼやいていますと。
 暮の六つ戌《いぬ》の刻《こく》(八時頃)にやっとひと当たりきました。
 「待てよ、この当たり・・・!」
たしかウツボの当たりと思うたが、尋常でない強い引きだ。徳爺さんは渾身の力を釣竿に込めました。竿は弧《こ》を描ききると、その反動で、いままでに見た事も無い大ウツボが飛沫《しぶき》を上げながら丸山の麓まで飛んでいきました。
 それから後《のち》は、何一つ当たりがありません。
「おかしな晩じゃのぅ。亥《い》の刻(十時)も近い、今夜は帰《いぬ》るとするか!」
 帰り支度を整えた徳爺さん、明神さんの鳥居前まで来ますと、ガサガサ、ガサガサと何やら騒がしい。カンテラを照らし、よくよく見ますと、さっきのウツボのそばに一頭のイノシシが倒れています。
 イノシシはここで寝ていたのか、そこへウツボが落ちてきて、急所に当たり運悪く死んでいました。
 ガサガサ聞こえた因《もと》は、ウツボがウサギの後ろ足に噛みつき、痛みに耐えかねたウサギは、そこら中堀廻っていました。そのウサギの足下には、これはこれは又、大きな山芋がむき出しに十数本も転がっています。

             絵  山本 清衣

 「ウツボとイノシシ、ウサギと山芋が一度に取れるとは、今日は何と良い日だろう」
 徳爺さん、これは苞《つと》(藁《わら》や茅《かや》で作る包み物)でも作らないとなかなか持ち切れないぞ。ふと前を見ますと、茅が茂っています。これは好都合とばかりに、茅を掴むと草刈り鎌《かま》でザックリと刈り取りました。すると茅の向こうに鳥の羽が見え、バタバタと騒いでいます。なんと、茅の中にキジが隠れていました。そのキジを捕らえ出すと、茅の中に白い物が転がっています。
 「ありゃりゃ、これはキジの卵だ」
卵は全部で十三個もありました。
 「はてさて、今日は何て良い日だ。ウツボとイノシシ、ウサギと山芋、キジとその卵十三個を得ました」
 「はてさて、どうやって持ち帰ろうか?」
 徳爺さんはイノシシを背中に背負い、ウツボとウサギを右手に持ちました。
 左手には茅の苞を持って、苞の中にはキジと山芋と卵が入っています。
 徳爺さん、
 「一人じゃこんなに多くは食い切れん。里人たちとお客をしよう」
など、あれこれ思案しながら家に帰りました。
 「うーん、重かったな」今夜はもう遅いきに明日の事としよう、と云って寝てしまいました。
 徳爺さん、早く起きますと昨夜《ゆうべ》の出来事を里人に触れ回りました。
 喜んだ里人たちは、儂はイノシシが好物じゃ、キジじゃ、ウサギじゃ、山芋じゃ、と云いながら大お客になったそうです。
 徳爺さん、これはきっと儂が良く働くので明神様がご褒美を下さったにちがいない。
 「謹厳実直」であれ、と名付けてくれた父母に感謝しながら、お礼参りを続けたと伝わっています。
                                                               文  津 室  儿 
          
 

2013年7月9日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 35-31 八幡様の御田祭り


 第38話  吉良川老媼夜譚  十二
   八幡様の御田祭  35-31
 八幡様の神祭には、昔は今のようにない、えらいもんでして、サアチ(皿鉢)料理を座敷いっぱいに並べて、来る人来る人誰彼なしに引っ張り上げて飲まし、町中あちこちしてそれはにぎやかなものでございました。この八幡様の神事の中には、一年はざめに(註、一年間隔・隔年)御田祭というのが五月三日にありまして、この時には拝殿の舞台を三方から囲んで、百に余る桟敷ができて、村は相出、大阪、神戸あたりの遠いからも見物に来て大賑わいでございます。
 そして、このお祭りの芝居は、お能のお芝居で、春の田植えから秋のとり入れまでのしぐさを、午後の一時から夕暮れまでかかってやるもので、人の人生のことを一日かかりでする芝居でございます。女猿楽があったり、翁三番神の能楽があったり、漁師の魚釣りがあったり、豊年を祝うて造った酒を絞りながらお産するところがあったり、武士の出陣をするところがあったり、合戦の駆け引きがあったりする色々の芝居をするのでございます。
 中でも安産の場では、昔から子のない女達が集まって、生まれた赤ん坊の人形(註、小さな寄せ木人形)これを三、四十人もの女の人達で、丸髷《まるまげ》もつぶれてしまうまで一生懸命にばいやい(奪い合い)をするのでございます。それは、ばい取った人に子が授かるという信心からでございます。昔はこのために、角力《すもう》取りまで雇うてくるもんがあったほどでございます。
 それから、この芝居に出る役者は、その役々で、お殿様になる家はお殿様、酒絞りになる家は酒絞り、田打ちに出る家は田打ちというふうに、代々役が決まっちょりまして、余所から代わって出ることができん(できない)ようになっちょります。普段にこの芝居の真似をしたりしたら、神罰が当たるじゃなどとも聞いております。
 註、御田祭規式帳の文中に、右秘文役者より外、必ず見ることなかれ、其の神罰重し以上。とある。

   七夕さま  35-32
 七夕さまの日には、古い稲葉に青葉の稲をまぜて、一たけ(丈・長さ)縄を七本ない(綯う)、四本を縦に三本を横に格子のようにして、二本の笹の間に掛け、これに田芋、おしらげ(洗米)、お鉄漿《はぐろ》、おはぐろ筆、紅、白粉、田芋の葉に包んだお水、ほおずき、茄子、ふろ(豆)などを吊るし、五色の糸や麻を引き、宵と朝とにご飯を炊いて供え、その晩は女子どもがおちや(註、祭日、縁日の前の晩に、一晩中お宮やお寺におこもりする事)じゃいうて楽しみにしたもんでございます。そして、、あくる朝には笹を海へ持っていってあましました。
 だいたい七夕さまという神さまは、むつかしい神さまじゃ、ということでございまして、平生機《はた》の道具はこれを七夕道具というて、いらんようになっても、めったな所に棄てられん、必ず神藪へ持っていて棄てるもんということになっていて、人を呪うにも筬《おさ》(機織りの道具)をつかうほどでございます。お供えした茄子は、いびら(疣《いぼ》)につけたら治るというて、子供の時分には割ってその汁を塗ったたりしたもんで、腰から下の病気も七夕さまの日にお願をかけたら治るなどというたもんでございます。

   盆踊り  35-33
 お盆には、十三日から十六日まで門へ高ぼていうて、高い竹の先へ松明をつけて焚いたもんでございます。死んだ人の魂が帰ってくるのを迎えるためで、初盆の家ではきれいな燈籠をつるします。
 昔の盆踊りは賑やかなものでございまして、十四、五歳の頃でしつろうか、この家の西隣に昔の番屋跡の広場があって、そこへ地下の若い者らが集まって踊ったり、浜の広場で踊ったりしたものでございます。
 この時には、初盆の家から「入り踊り」いうて、広場へ供養のための花や尾のついた燈籠を出してつりましたが、それが十も二十もあって、真ん中につき臼を据えて、男の口説きがおって、娘らがいんげん笠を被《かぶ》り、黒着物へ紙で紋を付けたり、振り袖姿になったりして、二重も三重もの輪になって賑やかに踊ったものでございます。若い衆らは、徳利の酒を口移しで元気をつけて、一晩中を踊り明かして、それは楽しいものでございました。
 初盆の家では、それで供養ができたいうて、子供らに手拭いや鉛筆を持って来て配ったりしたものでございます。

                           写  津 室  儿
          

2013年7月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第39話 千両箱・両栄橋


第39話  千両箱・両栄橋

 むかしも昔、室戸の奈良師に、松吉という親父《おやじ》に二人の息子、竹吉、梅吉という松竹梅揃った、めでたい名の貧しい漁師一家があった。
 とある日、松吉はお城下へ用事に出て、兄弟で漁に出かけた。
 さて、船が沖へ出ると、時化《しけ》上がりで色んな物が流れてくる。竹吉が、
 「おい梅吉、よう見よれよ、千両箱が流れてくるかもしれんぞ!」
 「そうかえ」と答えた梅吉
 「ところで兄やん、千両箱を拾うたら、どう分けりゃー」
 竹吉、「うん、親父に二百両、あとは俺が五百両、お前が三百両・・・・・よ」
 「そんな阿呆な、わしが拾うて三百両か」
 「そこが兄と弟のちがいよ、辛抱せぇ」
 「わしが見つけたときにゃ、こっちに權利がある。それを兄じゃいうて、よけ取るとは馬鹿らしい。仕事が出来るか・・・!、わしゃいんで寝る」
 「そうか、おらも一人じゃ漁が出来んき、いぬる」
 とうとう、竹吉と梅吉は漁をやめ帰りだした、と。
 一方、松吉はお城下の用事を早々と終え、沖を眺めながら帰りよったら、兄弟船がもんて来よる(ありゃ、どうした事じゃろ)いうて首をひねりよったが、やがて船が戻り着くと、飛んで行って、
 親父、「おい、どうしたなら・・・!」
 「親父《おと》やん、千両箱が」
 親父、「シーッ、声が高い、誰ぞに聞こえたらいかん。早う家へいのぅ」
 親父は、たかで目を光らせて聞いたと。
 「ほんで千両箱は・・・!」
 「それが拾うたらえいけんど、拾わん内から、拾うたらどうすりゃいう事で、いいやいに成って漁をやめてもんて来た」
 親父、「この阿呆らが、なんぼいうたち拾わん内から喧嘩して、漁をやめてもんて来るち、呆れた奴じゃ」
 たまるか松吉はカンカンに怒って、棒を振り上げもって二人を追っかけた。そこで竹吉、梅吉兄弟は飛び逃げたそうな・・・・・!。
 さて、〈千両箱を、見たこともない、持った事もない、又その重さも知らない貧乏漁師一家にとって、この日は至福の一日では無かったろうか・・・!〉
絵  山本 清衣
  両栄橋
 室津川の河口(水尻)は、室津の丸山・津照寺を境に東側を流れ、今に字名《あざな》は南新町・後免水尻として残っている。
 その川筋を今様に変えたのは、最蔵坊こと最勝坊(小笠原一学は、石見銀山で知られる石見の国(島根県)の出身で、元安芸の国(広島県)の毛利元就の家臣であったが、出家して、六部として諸国を行脚し、当地に錫杖を休めた。
 当時、川尻のわずかな船溜まりを素掘りした。これが室津港築港の起こりで、元和《げんな》六(一六二○)年のことであった。しかし、たび重なる洪水で土砂が港に堆積するため、船がかりが出来ない。そこで、最蔵坊は浦人と大凡《おおよそ》二年間に及ぶ協議の末、川筋を津照寺の西側に付け替えることを決める、寛永十六(一六三九)年のことであった。そこは泥岩のため、鑿《のみ》と鎚《つち》の人力で、二年を費いやした難工事であった。橋は室津・浮津に面していることから、両面橋と名付けて竣工した。
 浦人の喜びも束の間、心無い者が悪ふざけに言った一言が現実のものとなった。
 それは、雨のしょぼしょぼ降る丑三《うしみ》つ時《どき》、この橋を渡ると両面の化け物が出て、川に引き込む、といって、実《まこと》しやかに恐れられた。
 ある夜、母の使いで浮津に出された娘、さびしい寂しいと思って、化け物のことを思いながら橋を渡っていた。すると、後ろから一人の老婆が来た。娘は、まぁ連れが出来て嬉しい、とほくそ笑んだ。
 「ほんとう、わたしは一人で寂しゅうてたまりませざった。この辺に両面の化け物が出ると聞いています。、お婆さんが来て、本当に寛《くつろ》ぎました、よかった良かった」と言いますと、
 老婆は、
 「ありゃ、そりゃわたしかよ!」と言って、振り向いた後ろ頭に目口があった、と言う。
 最蔵坊は両浦の守護神として、砂岩二尺五寸の道祖神(災厄を防ぐ神)に両面の化け物を封じ込め、橋のたもとに建立した。
 そして、室津、浮津、両浦がいつまでも共に栄えることを祈願して、両栄橋と名付けた、という。
 道祖神は、今なを近隣住民に花を手向けられ祀られている。

                                           文  津 室  儿
          
 

2013年6月15日土曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 十一 35-27〜30


 第38話  吉良川老媼夜譚  十一
   贈答の習慣  35-27
 吉良川には、魚の鰭《ひれ》や尻尾を切って、壁や戸袋に貼って乾かしておいて、これを祝いごとの赤飯や餅に添えて贈るふうが、今にございます。これはなまぐさ(生魚・魚類)の代わり意味で、時にはなるてん(南天)の枝を添えていくこともございましす。なるてんの葉は、祝いの所へは、葉を表向きにするもので、仏用(仏事)の時は俯《うつむ》けにするものというております。
 そして、物を贈られて入れもんをお返しする時には、オトメ(贈り物を受けた時、その容器に入れるお返しの品)というて、白紙かマッチの実、ツケギ(マッチの火を薪に移し付けるもの)などを入れて返すものですが、これはまた貰うというしるしで、死んだ時には入れるもんではございません。

   正月行事  35-28
 ここではお正月に飾るお松は、みんな自分の山から切ってきて、左に雄松、右に雌松を立て、軒下にダイダイとシダの葉を飾った太いお注連《しめ》をつけます。正月中に焚く薪もその時に切ってきますが、だいたいこの町分では、一年中の薪は薪山いうて地下の共有山が一里ばあ奥の中ノ川という所にあって、正月前には春木というて、商売に切っちゃあいかんが、家でいるのなら、なんぼ切ってもかまわんことになっちょりました。このごろじゃあ奥の人に頼んでおくと、切ってきてくれることになっちょりまっす。
 若水迎えは、一年中のお礼ととして共同井戸へ行ってお水を迎えてくることで、この時にはお寺から毎年お歳暮いうて担桶《たご》に杓《しゃく》(柄杓)の絵のついたお札を配ってくれますが、これにお米を添えて、女子が汲に行きます。若水迎えに他人に会うといかんというて、夜明けも早うに出掛けていって、もし他人に出会うようなことがあったら、そっと隠れていたりしたもんでございます。そうして、汲む時には開き方に向いて三《み》釣瓶《つるべ》に汲むものじゃいいまして、「福汲む徳汲む幸い汲む」と唱えたりしたものでございます。この頃の若い人のすることじゃございません。
 正月の物貰いには、毎年ホメ(註、福男・三河万歳)いうもんが、「目出度や目出度やこのとの門は」どやろこやろいうて家ごとに回ってきて、シラゲ(洗米)や米、お餅、一文銭などを貰うていたものでございます。
 面白かったのは、正月十四日の「かいつり・粥釣」(註、旧暦正月十四日の晩に行われた小正月の民俗行事。一年中の厄を祓うための粥をたくために、子供が大勢連れだって家々を回り、米や小銭をなどを貰い歩いた)で、若い衆やふざけたチュウコ(註、妻のある中年の男)らが、顔をお白粉で作って化けて、三人四人とおどけをしながら、三味線を弾いたりして、袋持ちを連れて若餅(註、正月三が日の間につく餅。又、小正月のためにつく餅)を貰いにきたものでございます。

   亥の子さま  35-29
 この日には、町の子供らが縄を網にしたものへ石を入れちょいて、皆で引っ張っていって、家ごとの門で亥の子の歌をうとうて回って、餅を貰うたもんでございました。百姓の家へいたら、
  亥の子亥の子
  亥の子てんばの 餅をくらべてみたら
         エイトヤーエイトヤー
  この家は   なんでこそ仕上げた
  大けな大けな おん百姓で仕上げた
 と歌い、商売の店へいたら、「帳や算盤《そろばん》で仕上げた」いうて回ったものでございました。けれども、こんな事も昔のことで、今の子供にそんなことをするものはございません。
 註、亥の子様とは、西日本で陰暦十月亥の日に行われる行事で、内容は文中に同じです。 

   節分  35-30
 この日には、浜へいてまなご(小石)の潮でもまれて、綺麗になったのを開き方に向いて拾うてきて、米や大豆といっしょに煎って、お床へ祭っちょいて、その晩に「鬼は外福は内」いうてまいた(撒く)もんで、病気のあるもんは、その大豆を年の数だけ紙に包んで四つ辻へ持っていって、意味を語って捨ててきたもんでございます。そうすると、病気が落ちる(治る)というのでございました。

                                                                写  津 室  儿
          

2013年6月4日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 十 35-24〜26


   吉良川老媼夜譚  十
   鯨  35-24
 明治四十年頃までは、鯨がまだこの浜から見えるばあの所へさいさい寄ってきて、西寺(行当岬)の山見がみつけると、鯨船が何隻も何隻も出て来て、これを室津の方(網代へ)へ追うもんでございます。
 室津や津呂では、一時に二本ぐらい鯨が捕れると、肉のはけどころ(売り先がない)がのうて百匁(375㌘)五厘ほどであったので、一円も出したら車力一台で引いて戻らんといかんほどでございました。捕鯨の会社では、鯨を轆轤《ろくろ》にかけて巻き上げては切ったものでございます。肉をさばく(解体)に一本の鯨で、長須鯨などになると、三日も四日もかかったもんで、その肉切りの場がえらいことで、浜から川からいっぱいに切りさがすので、それを盗み切りして取り合うので、鯨方の者が二つ折りの手拭いの鉢巻き姿で、コッポ(竹の棒)を持ってどやし(叱る)つけたものです。叩かれる方では破れドンザ(漁夫の仕事着)を重ね着して、叩かれてもポンポン鳴るばあ着込んで、叩かれても叩かれても集まって盗み取りするのが、そんな場所での威勢でもありました。
 この盗んだ肉と換えてもらうために、吉良川からも女らが餅やその他のご馳走をこしらえて、笊《ざる》や籠《かご》を担うて一理も二里も歩いて出かけたもので、室戸の新村あたりにウルメやムロが一匹八厘ぐらいで、普通のは五厘で買えたものでございます。
 忘れもしませんが、捕鯨の大納屋でえらいて(会社の重役連)が集まっちょって、酒の給仕をしてくれやというて、後で抱えるばあの肉をほうってくれたことがございました。銃殺捕鯨が始まってからは、一時捕れるのが多うて、肉のはけるみちがのうて、五円持っていて、車力いっぱいによう引かんばあ貰うたこともございました。

   淡島さま  35-25
 昔はお遍土《へんど》さんの中に、淡島さまいうて、女のご神体を箱に納めて背中に負い、杖の先へ古い簪《かんざし》から櫛《くし》、笄《こうがい》、飾りなどを括りつけて回って来るのがございました。下の病気を持った女が、頭の髪のものをこの遍土にあずけて、紀州の加田の淡島さまに納めて貰うためでございます。それで、今に小娘の子らが頭に簪を幾つも付けちょりますと、「淡島さまのような」といいますらあ。
 信心というものは、して損のいくものではないと思うちょりますが、私は二十四、五歳の頃大阪へ行く汽船の中で急に消渇《しょうかち》(咽が渇き、小便が出なくなる病気)になって、便所に行こうにも満員の船でなかなか出られず、やっと人をわけて便所へ入っても、もう一生懸命に淡島さまにお願いをこめよりましたところが、それから掻き洗うように治ったことがございました。そこで、高野山へ行ったついでに、紀州の加田へもいって、淡島さまにお礼参りをしましたが、この淡島さまはもともと身分の高い方でしたが、白血長血で紀州に流されたということでございました。受けてきたお守りの中を見たら、ご神体はお雛様でございました。

   お接待  35-26 
 昔は、だれも一度はお四国回りをしたもんでございます。お四国を回ってきたら、世の中の酸い甘いが分かるなどというたもんで、春になったらこの街道を娘さんからお婆さん、中年の男女というように毎日二十、三十人と団体になって通ったもんでございました。宿屋も満員でございました。
 三月二十一日のお大師様の日には、お接待いうて、村中から人が出て、米を持ってくる、お餅を持ってくる、お茶を出すというふうに、えらいもんでした。西山台地の人も町へまで出て来て、お接待をしたもんで、遍土さんらはお接待を受けるたびに色々のお礼を呉れたものでございます。阿波や讃岐では、船も車もただにしたといいます。

                         写   津 室  儿
          

2013年6月2日日曜日

室戸市の民話伝説 第38話 月と竜宮城へ旅した傘屋


 第38話  月と竜宮城へ旅した傘屋

 室戸浦は浮津の西の方に、何代か続く仁介屋《じんすけや》という屋号の和傘屋があった。往時の主人の仁介は、京都の老舗和傘屋で丁稚奉公十年を勤め上げ、番傘(骨太で丈夫な傘)蛇の目傘(開いた時に白い輪の模様が蛇の目に似ている事から)端折《つまおり》傘(傘骨の下端が内へ曲がっている長柄の傘。公家・僧侶・武家などの用いたもの。野点《のだて》によく使われる)の技術を習得して帰郷した。
 今年も梅雨をひかえた五月《さつき》、仁介の店に番傘の注文がどっさりきた。風の強い室戸では、骨太の傘骨に傘布を張り、柿渋《かきしぶ》、亜麻油《あまゆ》、桐油《とうゆ》を塗っては重ね塗り頑丈な傘を作っていた。仁介は店裏《たなうら》の松林を抜け、広々と広がる鯨浜で干しておった。仁介は、風に傘を飛ばされまいと、傘を紐で括り、その紐を体に結びつけ、うつらうつらと五月晴れに誘われるがままに昼寝を楽しんでおった。

                      絵  山本 清衣

 すると、にわかに空が暗くなり沖の方から竜巻が吹き、あっというまに仁介は傘ごと空へ巻き上げられてしもうた。
 ふわりこふわりこ、空を漂うこと実に七日七夜、やっと着いた所が何とお月様だった。お月様には木の一本、草の一つも生えてなく緑も無く、それはそれは石ころだらけの、淋しい所だった。
 仁介は、こりゃ困ったと思いながら、そこここと歩いて行くと、一つの洞穴があった。恐る恐る入って行くと、中に白髪のお婆さんが居って、石臼《いしうす》を碾《ひい》ておった。
 仁介は「もしもしお婆さんや、何ぞ食べる物はなかろうか。わしゃ腹が減って減ってのぅ・・・!」粗末な物でよいがめぐんでくれまいか、と言うて聞くと、
 お婆さんは、「そうか、腹が減っちょるか、よしよし、いま探してきちゃる。それまでこの石臼を碾きよってくれや。あんまりがいに碾かれんぞよ」
 こう言い残すとお婆さんは、どこぞへ行ってしもうた。仁介が、石臼をちょいと碾くと、ゴロゴロと鳴る。「こりゃ面白い。もうちっくと碾いちゃろ」と思うて、ゴンゴン碾きだした。すると、ぴっか!ぴっか!、と光だし光と一緒にどっしゃーんと、月から真っ逆さまに落ちてしもうた。
 たまるか、仁介は、とっと海の底までブクブクブクブクと海の底まで沈んでしもうた。
 すると、そこへ乙姫様が出て来て、「ようこそいらっしゃいました。さあさあ、どうぞこちらへ」と、言って、竜宮城へ案内された。竜宮城の綺麗なことと言ったら、それこそ目がくらむほどだった。
 ここで仁介は、朝に晩に美味しいご馳走をいただき、鯛《たい》や鮃《ひらめ》や鮹《たこ》の面白い踊りを見て楽しむ日毎であった。
 ところが仁介は、この竜宮城で一つだけ不思議なことがあった。それはお昼が過ぎた頃、どこからともなく、ぽつんと一つ桃のような物が落ちてくる。その、美味しそうな事といったらありゃしない。仁介は食べたくて食べたくてならん。そこで、乙姫様に聞いてみた。
 「乙姫様・・・!、あの桃を食べてもよろしゅうございますか・・・!」
 乙姫様は「いけません。あの桃は絶対に食べてはいけません」
 こう言って、乙姫様からかたく止められました。ところが、人間と言う者、仁介は面白いもので、せられん、見られん、と言われると、かえってしたくなったり、見たくなるものであります。
 ある日、仁介は一つぐらいなら良いだろう、とかっぷり食いついた。すると、たちまち仁介の体は、羽が生えたように軽くなって、上へ上へと昇り始め、海の上へぽっかりと浮かんでしもうた。
 なんとそこには、漁船がいっぱい居って、「人の形をした魚が釣れた。人魚じゃ、人魚じゃ」と、漁師たちが大騒ぎ。
 そこで仁介は、「いや、わしゃ人間じゃ。室戸浦の傘屋で仁介という者じゃ」と叫んだ。
 漁師は「そういやぁ、まっこと、昔、そんな傘屋があった、と聞いちょる」といって、室戸浦へ連れ戻ってくれた。所が、何様何百年も過ぎていて、浦はすっかり変わって、知り人は一人もおらん。仁介は「ほんなら、わしの墓もできちょるじゃろ。ひとつ、墓へ行ってみよう」こう言うて、松並木に埋もれた墓地へ行ってみた。
 すると、かたむきかけた墓があちこちにあり、表面に苔がべったり生え文字が読めない。そこで、そっちに回りこっちに回りして、苔《こけ》を落としたり、草を刈っていると、つい足を滑らせて、崖から真っ逆さまに奈落へ落ちていった。恐《おそ》れ戦《おのの》いている仁介の頭に、松毬《まつかさ》の雨が降りそそぎ、その痛さに夢が覚めた。
                                                                 文  津 室  儿
          

2013年5月21日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 九 年祝い 35-19〜23


   吉良川老媼夜譚  九
   年祝い  35-19
 人間は一代のうちに、厄の入り抜けから五回の祝いをするもんじゃと申します。一番はじめは、女の三十二歳で厄に入って、三十三歳で抜けるのと、男の四十一歳の厄入りと二歳の厄抜けで、それから六十一歳と七十三歳、八十八歳の祝いをするもんでございます。
 「入り」には「むしこむ」いうて、赤飯を炊いてお客をします。六一の祝いには、親類から反物一反とお酒一丁を贈って、赤の涎掛《よだれか》けをさして座らして祝うたりしました。八十八歳には竹で斗掻《とかき》(概《とかき》・升に盛った穀類を、升の縁なみにたいらにならす短い棒。升かき。かいならし)を拵えて配ったりしました。私もとうとう八十一歳になりましたが、せちがらい世に生きすぎて、迷惑なことでございます。

   分家  35-20
 これは余所でもあることでございますろうか、吉良川あたりでは、次男が分家すると、女親がついて出て、寝泊まりも分家の方でいたしますし、男親は長男の方で寝泊まりするふうがございます。
 それで、女親が仏になったら、分家の初めての祖先になって、お祭りは分家ですることになっちょって、墓は親夫婦一つ(一緒)に刻むことになっております。この分家を母屋にくらべて部屋というたり、新宅とも呼んだりします。三番目からの子は教育してやって、身すすぎ(生活が成り立つ)の出来るようにしてやります。

   葬式組  35-21
 不幸がありますと、昔から隣近所七軒が全部集まってきて、いろいろ世話をしてくれるふうが今にございます。
 墓地場は山手にあって、墓穴も近所の者が手伝うて掘ってくれます。火葬にすることはないので、長い棺に入れてそのまま埋《い》けますが、この棺を拵えるのは近所の大工の手伝いが、拵えてくれることになっちょります。不幸の家は、戸を閉めて悔やみ帳というものを門に吊しますが、手伝いが来ると、これに名前を書きこみます。埋けてしまうと、ぶく(死人が出た家のこと)払いいうて、隣の家の一軒が引き受けて、鮨や肴を出してちょっとお客をしますし、七日目は仕上げいうて親類と知り合いが集まってお客をするふうがございます。
 正月に女が死ぬるのは、後を引くいうて嫌がり、紙で裃《かみしも》をこしらえて着せ、竹の刀をささして、男に仕立てて、棺へ納めるじゃいうことがございます。

   鰯  35-22
 また昔の話になりますが、昔は今と違うて、魚もうんとおったように思います。明治三十四、五年ころでしつろうか、鰤《ぶり》の大魚《おおいお》(鰤を指す)が海岸へ鰯《いわし》を追うてきて、大魚網《ぶりあみ》の船が舷を叩くと鰤がいよいよ海岸へ近寄ってきて、鰯やら他の細かい魚が、浜へ寄木のように飛び上がってきて、浜いっぱいに真っ白うになって、みんなが夢じゃないろうかと思うて、男も女も籠やらふご(穀物他を入れる、藁作りの籠)を持って拾いにいたことがございました。この時は、鰤も浜へ飛びはねてきて、着物をかぶせてとったりしたもんでございました。
 その頃は地引網をひいても、上げれんばあ網目へ頭をさした小魚がはいっちょったもので、西山の百姓がサバゴやウルメなどを魚肥《いおごえ》にするのに、馬にたご(桶)をつけていたもので、それでまだ余ったがは、浜へ干しちょいて、あとで肥にしたものでございました。それがこれぐらい海をせたげる(責める・いじめる)と、とんと、とれんようになってしまいました。

   お菓子と行商人  35-23
 今のように上品な生菓子じゃ氷じゃいうもんは、見ようち見えざったじぶんで、おつぶ、岩おこし、ちゅう菓子、金平糖、りょうせん飴じゃいうもんしか売りよりませんでした。余所からの行商人は、阿波の女が室戸の港まで亭主の船で送ってきてもろうて、それが子守を連れて、絣の着物を着いて、頭の上に大きな籠を乗せて、トロロ昆布やアラメ昆布などを売りに来たものでございました。
 大和と富山の藥屋も「入れつけ」いうて、大きな袋へ熱薬じゃ、風邪薬、腹いた薬、セメンじゃいうて、いろいろ入れてあずけておいて、毎年春頃に入れ替えと集金にきたりしたもので、子供らに風船やら広告の小旗などを土産に置いていたものでございます。

                              写 津 室  儿
          

2013年5月6日月曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 八 子を殺す・辻売り 35-17〜18


   吉良川老媼夜譚 八  
   子を殺す  35-17〜18
 お産は「嫁の生活」でお話しました通り苦労をしましたが、その一方で私らの若い時分には、生まれる子を潰《つぶ》す人が多うて、せいぜいが三人か四人で、五人となると多すぎる、七人にもなると貧乏するはずじゃというて、あきれたもんで、そんなふうで悪いことをして生命をを捨てる人もありました。
 向かいの爺さんも、自分で「婆んばがいかいで、ねじちゃあったら生きたつが(註、婆さんが上手く潰せず生き返った)」などと言うて、あのとおり長生きしたといいます。
 潰すときには、掌《てのひら》で出たもん(赤子)の顔をようみんと、泣かす前にぴっちゃりと顔をおさえたと言いますが、掌の下でコンニャクの様なもんが、ぐるり(ぐにゃ)とするのは、あんまりええ気なもんじゃないと聞いたりしております。これを「へす(減す)」とか「ゴロク(あの世?)へやった」とかいうて、後始末には床下に埋《い》けて石でも置いただけのようでございました。昔はえらいわやくちゃなことをしたもんで、これは土佐に限ったことにかあらん(相違ない・知れない)、それで昔から土佐は鬼国といいましたわのうし。
 それからゴロクへやったのじゃのうて、育てようと思うた赤子が死んだりすると、鳥を飛ばしたようなもんじゃいうて、あんまり悔やむといかんじゃいうて、簡単な箱に入れて墓地場へ埋け、お地蔵渡しというて、お寺さんにお教をあげてもらうくらいで、しまいにするふうがありました。

   辻売り・その他  35-18
 子供が病気がちで困る時には、辻売りということをいたしました。これは親が町の四つ辻に立っていて、一番初めに来た人に自分の子を貰うてもらい、名前を付け変えてもろうて、その人を親にすると育つというのでございます。それで丈夫に育つと、一生の間、正月礼などを勤める義理堅い人もあって、これは今でもする人がございます。
 それから、親の干支《えと》が生まれた子にふさん(適合しない)じゃいうことがあったりして、子供が病気がちじゃったりすると、お宮の市《いち》(巫女《みこ》)さんに干支の合うた人をみてもろうて、「親取り」いうて、仮に親を変えたりすることもございました。
 市さんは五十歳あまりの人で、家祈祷やら病気を患うたりすると、お神楽をあげて、しらせ(祈祷か?)をしてくれたりします。八幡さんの太夫《たゆう》さんもしてくれますが、昔は八月十五日の神祭には、五日前から太夫さんと市さんが、お宮へ籠《こ》もったものでございます。
 子供が生まれても生まれても死ぬるのは、車子《くるまご》いうて、十二人まで死につづくというて嫌がりますが、甲浦に土居さんいうて、えらいお医者さんがあって、この人はどんなむつかしいお産でも取り上げるというので、私らの若い時分の歌に「腹が痛いやや子ができる、早う甲浦の土居迎え」というたもんで、谷田いうて今に生きちょる人は、十二人目の車子で、土居さんに出してもろうた人でございます。
 子供が糞壷(雪隠・野雪隠落ちると同様)へ落ちると、その子供の名前を変えるふうがありました。それにはセンの字を付けると申します。お手水の神様は、えらい神様で、目と下《しも》の病の神様じゃと言われております。盲《めくら》の神様で、私はウスシマ明王様(トイレの神様)と聞いております。それで、お便所へは唾を吐かれんといいます。
 臨月近くで死ぬる女があると、身二(親子に分ける?)つにして埋けるもんじゃいうて、お医者さんを呼んで身二つにして貰うて埋けるふうでございます。それから子供に命《めい》がのうて、あまり乳ができたりすると、その乳を「ただの所へは捨てるもんじゃない」というて、「南天の木の元へあますもんじゃ」というたりしました。
 親というものは因果なもんで、我が子の為にはえらい苦労するものでございます。妊娠して上の子が患うて、顔色が悪うなったりすると、オトミじゃとかチバナレとかいうて心配もするし、お尻の上の青い紋を「ウブ(産)の神のひねくったところじゃ」いうたりして笑うたりもしました。生まれた赤子が初めてするウンコをガニババ、体にできるおできをガニというたりするのは、どういう訳でございますろう。

                           写 津 室  儿
          

2013年5月1日水曜日

室戸市の民話伝説 第37話 尻喰われ観音


37話    尻喰われ観音

 とんと昔、こんな話があった。
 人は死んだら、あの世へ行そうな!。あの世へ行には六文銭がいる。この銭は三途の川(賽《さい》の河原)の渡し賃じゃ、と。ほかにあの世じゃ銭はいらんが、なにが要るかというと、この世に居る間に南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と言う念仏を一杯唱えちょくことやと。この念仏が閻魔《えんま》大王様の好物で、土産になるそうな。
 土佐は東の端の室戸岬にほど近い村で、ある朝早く、お虎《とら》ばんば(婆・老女)が、こっとり(急に・突然)死んだ。それからしばらくしよったら、今度は、同じ村の六助《ろくすけ》ことロクという若い衆《わかいし》が死んだ、と。
 ロクはお虎ばんばが、自分より先に死んだ事を知っちょったき、一緒にいこうと思うて、お虎ばんばの後を、一生懸命に走り走っておわえた(追いかける)そうな。
「おーい、お虎ばんばよ、待ってくれ」と、おらび(叫び)ながら行きよると、ようようのかぁで、お虎ばんばに追いついた。
 所がお虎ばんばは、何やら背負ちゅう。
「お虎ばんばよ、そりゃなんぜよ」
 ロクが、目を白黒したのも道理よ。ばんばは、たかで(非常に・実に)ざまぁ(大きい)な荷物を肩に背負って、ようよう行きよる。お虎ばんばは、ロクに気が付くと立ち止まって、ふうふう言いながら、「これかよ、こりゃのう、閻魔大王様への土産の念仏よ」と、言うたそうな。すると、ロクが「そうかよ。そりゃ重かったろう。なんなら儂《わし》が代わって持っちゃろか」と言うた。お虎ばんばは「持ってくれるかよ、そりゃ有難い。たのむき持ってくれや」といって、どっこいしょと大きな荷物を下ろすと、肩をトントンとたたいて喜んだ。ロクは歩きながら考えた。
「ヒヒヒ、しめたぞ。この念仏・・・そっくり、儂のもんにしちゃろ」と、ロクはお虎ばんばの念仏を猫ばばする事に決めた。「ほんで、お虎ばんばと一緒じゃいかん。へんしも行かんと儂の物にはならん、ととっとこ足を速めた」すると「ロクよう、待ってくれ、これ、待てやーい」と、お虎ばんばが呼ぶのも、どこ吹く風と、すたこらすたこらさっさと、小走りに行ってしもうた。そうして閻魔庁へ着くと、「ええ、閻魔様はいらっしゃいますか!、儂は六助と申します。閻魔様の好物の念仏を、どっさり持って参りました。どうぞこれを納めて下さい」と、お虎ばんばの荷物を差し出した。
 閻魔様はこれを見て「ふーむ、おやまあ、齢も若いに、げに感心な奴じゃのう。よし、なかなか勉強をしちょるき、観音さんにしちゃろう」と、いうた。
 閻魔庁とは、亡者がやって来ると、そこで本人がこの世で、どんな悪い事をしたか善いことをしたかを仕分けて、地獄、極楽へと送る。極楽ゆきの中でも、念仏の土産が大きかったら、特別に観音様にしてくれる、と言う分けじゃ。

                    絵  山本 清衣

ロクの土産があんまり大きかったきに、閻魔大王はロクを観音様にしちゃろうというた。
ほいたらそこへ、お虎ばんばがのっこらのっこらとやって来た。土産も何も持ちゃせん姿に、閻魔様は「おまやぁ、たかあその齢になっても、土産の一つも無いかや」と皮肉たっぷりに言うたそうな。 
 ほいたらばんばは、「いんげ(いいえ)のいんげ、閻魔様。私しゃぁ、念仏の土産をどっさり持って来ましたぜよ。私が持ってきよりましたらのうし、隣のロクが、そりゃなんぼか重たかろう、儂がちょっくと代わって持っちゃろ、言うて持ってくれましたけんど、私を待たんと、とっとこ先へ行きましたが!」
 それを聞いた閻魔大王は、赤い顔をなお真っ赤にして恐ろしい顔でお虎ばんばを睨《にら》み付けた。「こら、ばんば、おまやぁ、まっこと不届きな奴じゃのう。わしにまで嘘をつくきか」「いんげ、いんげの・・・嘘じゃありません。なぜこのばんばが、閻魔様に嘘を付きましょうか!そうそう、その証拠はロクが持ってきた、荷物の名札を見てつかあされ」
 お虎ばんばが、真顔で言うので、閻魔大王が名札を見た、と。ほいたら、ちゃんとお虎ばんばの名前じゃー。ほんで今度は、ロクが閻魔大王から百雷を受ける番になった。
「馬鹿野郎、お前は、なんちゅう奴じゃ。今までここへ来た奴で、わしを騙した奴はお前が初めてじゃ。貴様なんぞ鬼に喰われて死んじまえ」
 閻魔大王が、こういうて大きな声で怒鳴りつけた。傍にいた鬼共は、久しぶりに人間が喰えると思うて、嬉しゅうて嬉しゅうて、天国に昇りよるロクに襲いかかった。その時は、もうロクは腰から上は観音様になっちょった、と。
 ほんで鬼は、ロクの足しか喰えざった言うて残念がった、と。これ以来ロクは「尻喰われ観音」と呼ばれたそうな。
 むかしまっこう、さるまっこう。おさるのお尻は真っ赤か。

                             文 多 田  運
          

2013年4月11日木曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 嫁の生活


38話   吉良川老媼譚 七
   
  嫁の生活 (お産のこと) 35-16
 娘の頃は楽しかったと申しましたが、さて嫁入りしてしまうと、存外そうはいかんもんでございます。 
 昔は、姑というもんが、今のようにない、そりゃむつかしいもので、辛いことも多うございました。昼は山から生木の一荷や二荷かは担うて帰るくらいは、どこの女でもやったことで、馬の口(轡《くつわ》・手綱)をようとらんにょうな女はまあないというぐらいなものでごおざいました。夜は、篠巻いうて、綿を指の周りほどにした束を買うてきて、夜なべの行燈の灯で車(紡車)にかけて、姑が寝るというまで糸に取って桛《かせ》に掛けちょいて、それを集めて紺屋へ持っていて(行く)染めてもらうと、地機《じばた》という機《はた》で布に織ったものでございます。
 綿は、家々で作った頃もありましたが、その時は綿をもる(千切る)と、実繰《みくり》りにかけて種を取り、集めて綿打ち屋へ持っていて打ってもらい、それを箸に捲いて篠巻にして五十匁束にして、車にかけて糸にしちょいて桛にとる。桛にとった糸は煮るんとさくい(粘り気が無くもろい)きに煮ちょいて、一桛一絞りなどと勘定して一反にし、紺屋に染めてもらいましたが、この時分、紺屋と綿打ち屋が地下に二軒づつありました。針へ通す糸は、イトソというて杼《ひ》・梭《ひ》(織機の付属具)くのにりぐって(念を入れ)ひいた(織った)もんでございました。阿波から高機(手織機の一種)というのが渡ってきたのは、私が二十四、五歳の頃のように覚えちょります。
 私のほんの子供の時分には、夜なべには松台に松明(灯火用の松を焚く器)をあかし(灯し)ましたが、次は灯し油の行燈で、ランプが出来たのは汽船の来た二十二、三歳の頃だったと思います。亭主が大阪から戻ってきて、ランプを初めて見たという話に、町の砂まで見えると言うて話したほどでしたきに、可笑しなことでした。
 私のお産の時は、その部屋(土間に面した次の間)で障子の格子へささづって(危ない所)、水(尻では?)が障子の腰へたんと(一杯)あたるばあつくなんで(腰を下ろして)したもんで、こんな時、昔の人は「おられん、出て行け」というて亭主は寄りつかず、姑が湯を沸かして持ってきてくれると、側で立っちょって、つつく(手を触れる・もてあそぶ)とお竈《かま》さま(竈の神)が穢れるというので触ってくれず、臍《へそ》の緒もそこでそう切るものじゃ、ああ切るものじゃと、口だけで指図する位で、自分で震いもって元結《もっとい》(髻《もとどり》を結ぶ細い緒)で縛って切ったもんでございました。しおばら(お産の遠い時)であると、男の褌をを吊って下がっちょったらよい、などというたりしたもんでございました。
 今のことを思うと、乱雑なもので、お産というと、血じゃち水じゃち、ぶちまけるばぁ出るもんですきに、畳を剝ぎ上げちょいてざっとした蓙《ござ》でも敷いたりしてすましたもんで、汚れもなんも自分で洗うたし、えらい人は自分で湯まで沸かしたりしたもんでございます。後産は、亭主が床下へ埋けました。
 三日の名付けには、お床のうぶ(産)の神にご飯を供えて、名を書いた紙を床に貼って祝いました。これは七日にする人もあります。だいたい、三十三日までは、女はもの五体にならんというて休むものでございますが、ここでは十一日もしたら外へ出てどんどん働く人が多うございました。産土《うぶすな》の神へは、別に市《いち》(巫女)さんという女の神官に頼んで、八幡様につないでもらいましたが、これは三十三日を過ぎてか、神祭の時でございました。
 三日の間は他人の産屋への出入りを嫌い、三日目には火合わせというて、隣の人を呼んで火を打ちかえたもので、今じゃ七日とか十一日にして、この時に隣り近所から湯上げ襦袢いうて襦袢の布を買うてやるふうがありました。
 乳のない時には、今のようにミルクじゃ牛乳じゃいうもんが無かったので、乳粉《ちちご》いうてお米をひいて、乳のように煮いて食べさしたりしたもんで、これはまた一苦労でございました。
                            写  津 室  儿
          

2013年4月10日水曜日

土佐落語 勘当 60-14


  土佐落語  勘当  60-14 
                            文  依光 裕

 南国市の井ノ沢に、亀吉という百姓がございましたが、こらが”欲の深いことにかけては、お城下から東にゃ居らん”という男でございます。
 「たかァ、メッタかねゃ。今度という今度は、さすがの俺もメリ込んだ・・・・・」
 「亀吉、何をそうメリ込んじょら?」
 「ウン。俺もいつの間にか息子の嫁を探す齢《とし》になってネヤ」
 「ほんで、探しゆか?」
 「探しゆけんど、居らんについてメッちょらや・・・・・」
 「居らんチ、亀吉。そんなもな自分で探さんと、仲人口にかけてみよ。餅は餅屋で、キレイにクルメてくれるぞ」
「そうよ。俺もそう思うて、数々頼んだが、スッポン断わられた」

         絵  大野 龍夫
 「どうせオンシのことじゃ。ガイな条件をコジつけたろが?」
 「ガイな条件をつけるもんか!”器量良し
にゃよばん、気質《きだて》はソコソコ、家柄はホドホド・・・・・”、そういや、たった一つだけ条件をつけた」
 「どんな条件なら?」
 「なにせ百姓の嫁じゃきネヤ。”飯はよけ食わんと、大糞をヒル娘を世話しとうぜ”、たったのこれだけじゃ」
 「亀吉、食うもな食わんと、ヒルもなヒレ”ち、そりゃ無理というもんぞ」
 「なにが無理なら!”転んでもタダでは起きるな、馬の糞でもツマンで起きよ。そこになかったら、ある所まで這うて行け。それでもなけりゃ、馬が来てヒルまで待ちよれ”。これが俺の信条じゃ」
 「オンシはそんな欲いことをいうけんど、世の中で一番大事なモンは、命じゃろが?」
 「ナンノ、命かたけがなんなら!死刑になる者が”銭をやるきに替つてくれ”いうたら、俺ァ喜んで替わっちゃる」
 欲の深い人間のことを”算盤《そろばん》と相談する”と申しますが、この亀吉は”命よりも銭”で、算盤どころではございません。
 「立田の叔母やん。済まんが、今晩儂ン家《く》へ集まっとうせ」
 「今晩チ、エライ急な話じゃが、息子の嫁が決まったがかよ?」
 「息子の嫁どころか、親族会議じゃ」
 「オットロシ!なんのモメごとぜよ?」
 「その詳しいこた今晩話すきに、どういたち来とうせよ」
 息子の嫁をヒガチで探しておりました亀吉が、急に親族一同を集めての、親族会議でございます。
 「亀吉、事の次第を話とうぜ」
 「立田の叔母やん、それに皆んなァ聞いとうせ。儂ァ今晩限り、息子を勘当する!」
 「なんつぜよ!息子が何をしでかいたぜよ?」
 「昨日のことじゃ。こともあろうに息子の阿呆が、他所《よそ》の畑へ立小便をしたッ」
 「なんぼいうたチ、そればァのことで息子を勘当する親がどこに居るぜよ」
 「けんど叔母やん。親の儂が大糞をヒル嫁を探しゆうに、息子が他所の畑へ肥をするこたないろがよ!」

                         写  津 室  儿

2013年4月3日水曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 35-13〜15


    吉良川老媼夜譚 六
   早乙女てがい  35-13
 五月の月は「早乙女《さおとめ》てがい」というて、これは若い衆にも若嫁にもうんと楽しいものでございました。
  五月ひと月ゃ 早乙女さまよ
  五月すぎたら ただ女子《おなご》
 と歌にもうとうたほどに、田を植えるのは五月に限っちょって、娘らが田を植え始めると、若い衆らが畦のふちへきて、てがいまわる。すると娘らが、男を追わえて、これに泥を塗りつけたものです。昼間押さえられざったら、娘ら同士で相談しちょぃて、担桶《たご》(担い桶)などへ泥を入れちょいて、田をしもうてから、若い衆の家へ裸足で飛び込んでいって、飯を食べようが仕事をしようが、押さえつけて頭から顔へ塗りくって、きゃあきゃあ騒いだものでございます。
 それが五月中毎晩続いて、平生他口(悪口)をいうたりする若い衆があったりすると、娘一同で捕まえて、田へ連れていって、頭から泥田へ押し込んだりしたもので、それで男もシニビツツ(死に物狂い)で逃げ回ったものでございます。あんまり押さえぬくいと、寝入りばなの若い衆の寝宿へいって、たぶさぎ(褌《ふんどし》)を押さえて、顔から逆さに泥を塗ったりした。男の方でもまた悪さをして、娘の家の戸口へ夜の中に石地蔵を担いできて立てかけちょったり、死に蛇を軒へ吊りくっちょいたり、小便担桶《たご》を出入り口へ置いたりして騒いだもので、地下はこんなことでわんさで楽しいものでございました。もしも、こんな早乙女たちの仕打ちで、娘をしででもしたら、おサバイ様(稲作の神)の罰が当たって気が違うというので、文句をを言う者はありませざった。 始めにも言うた歌のとおり、五月ひと月は權利なもんで、松本(吉良川の豪家)の家じゃ、門を掛けて通さざったところが、梯子を掛けちょいて、それで庭へ入って、裸足でピチャピチャと座敷へ上がっていって、そこで泥を塗ったじゃあ言うこともありました。    
 こんなに一月の間を騒ぎますが、皆の家で田植えがしまうと、泥落としというのをしました。これは、娘らの家の一つを宿にして、酒肴を用意し、若い衆らを案内する田植えしまいの祝いのお客(宴会)で、隣村の羽根から室戸から五升樽をかるう(背負う)てくる若い衆もあって、その夜は太鼓や三味線で、飲めや歌えで暮らしたもんで、この晩、早乙女てがいで破りとったりした着物の袖やら、逃げる時に脱ぎ捨てていた着物類は、きれいに洗濯して糊をつけて、丁寧に返したものでございました。
 泥落としの行事が廃れてきたのは、明治三十四、五年頃からでしつろうか。今ではもう昔話になりましたが、奥の西山あたりでは、田を植え終わると、今でも田でご馳走を食べる日があって、その日は、部落一同が集まって泥落としのお客をしよります。そこで町分の呉服屋やら傘屋らが、この日を当て込んで、荷を担いで売りに行くふうでございました。

   飢饉  35-14
 いつのことでしたか、二十歳の頃のことじゃっつろうと思いますが、ゲンショ(飢饉米?)いうて、村役場へ日に一度づつ米、おかゆを貰いにいたことがございました。
 昔はどうゆうものか、どこからも食糧を運ぶことが出来ざったようで、この時には田のしつけ(春、田起しから田植え終了までの田植に関する農作業の総称)まで、芋もカンバ(切り干し芋)を持っちょる家が無かったほどでございました。大正八年の時化もえろう(大層・甚だ)ございましたが、昭和九年の津波(第一室戸台風)には、なにもかも飛んで野もないようになりました。

   煙草と塩  35-15
 煙草《たばこ》はこの頃あんまり不自由しますので、ぼつぼつ内密で作って呑む人もありますが、私たちの若い頃はなんぼ作ってもかまわざったので、好きな人はよう作って呑んだものでございます。
 室戸岬の津呂や坂本から苗を売りに来たもので、なぜか(梅雨)の手前に、茄子と一緒に植えたもんでございました。大葉になると摘んできて、縄へ挟んでつるして、土間の中などで陰干しにしちょいて、煙草包丁でぎちぎち切ったものでございました。よそからも売りに来ましたが、町分にも煙草を売る店があって、ねじ《、、》というのと葉煙草を売りよりました。ねじというのは、元葉をのさん(縮みを伸ばさず)づく縛って干したものでございました。
 塩もこのごろ不自由になったし、去年あたりまではえらい金儲けにもなりましたので、一時は浜いっぱいに塩焚くきができちょったほどでした。
 昔はこの浜に塩焚きが三軒あって、塩浜へしと(潮水を撒く)を打っちょいて、がじがじになったものを集めて、樽の上へまなご(浜の小石)を置いて、その上に俵を敷いたものの上で何遍も潮水をかけて、濃い塩汁にしちょいて、それを家まで担桶《たご》で運んできて焚きよりました。考えてみると、こんどの戦争じゃ色々のことが五十年ばあ昔に後戻りしてきたように思いますが、どうですろう。

                            写  津 室  儿
          

2013年4月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第36話 観音山の豆狸


36    観音山の豆狸

 佐喜浜根丸の「鍛冶屋のおじやん」と「かねたのおじやん」とはこんまい《ちいさい》時から朋輩で、二人のおじやんは、港の口に網を敷いて夜明けと晩方に網を揚げに行きよった。
そんな時、かねたのおじやんは、いっつも自分く《いえ》の後ろの土手に生えちょる松の木に手を掛けて、「おおい、鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」と、いがり《さけび》よった。ほい《そうし》たら鍛冶屋のおじやんは、寒《ひや》い冬の朝らあ鼻の先を真っ赤にして、白いほけ《ゆげ》を吐き吐き、よいしょよいしょと川舟を水棹《みざお》で突っ張っり突っ張り、浜の方へ漕ぎよった。所が、かねたのおじやんが、びっしり《いつも》松の木をゆすっていがり《おおごえ》だすきに、松の木の根っ子の洞《うろ》に、観音山からやって来た豆狸《まめだ》が巣を作っちょっる。豆狸は、宵の口から餌探しに散々疲れきって眠っちょる《いる》に、朝っぱらの寝入りばなを邪魔せられて、すっかり腹を立ててしもうた。

              絵  山本 清衣

 そこで、豆狸は夜中頃に、松の木の洞の前から「鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」とかねたのおじやんの声色《こわいろ》でいがった。川向の鍛冶屋のおじやん吃驚《びっくり》。はや朝かよ!
《おおいそぎ》ざんじ《おおいそぎ》川を渡り、かねたのおじやんく《いえ》へやって来てみた。かねたのおじやんは、きっちり戸締まりをして高鼾《たかいびき》をかいて未だ寝よった。
 鍛冶屋のおじやんは「今時、己《おら》を起こしちょいて、わりゃ高鼾で寝よる」と怒り散らした。所が、かねたのおじやんはプンプン怒りかやって「自分が寝ぼけちょいて人を怒りくさるか!」と、やり返した。鍛冶屋のおじやんは、ちっくと可笑《おか》しいなと思ったが、家《うち》へいんで《かえって》寝入ろうとしたら、また、「鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」と、かねたのおじやんの声が聞こえた。鍛冶屋のおじやん、「今度こそ寝とぼけちゃあせんぞ、人をわやにしちょる《からかっている》」とブツブツ独り言を言いながらやって来てみると、かねたのおじやんは、前の様に戸締まり堅く明かりを消して寝よった。頭にきた鍛冶屋のおじやんは、雨戸をけたくって「こりゃじんま、わりゃあ《おまえは》、我が寝とぼけて己《おら》を呼んだじゃろが、己あこんどは寝ちょらんずく、聞きょったぞ」と、いがりまくって《さけびながら》起きてきた。そこで、かねたのおじやんと喧嘩になってしもうた。「お主《んし》みたいな嘘いいは、もう相手にしやぁせん」「おお誰がお主らに手伝ってもらやあ」と喧嘩別れになってしもうた。
 それを見ておった豆狸は、大喜び「もう一遍、欺しちょいたら、ほんま《ほんとう》に殴り合いになるかも知れん」と、やめちょきゃええもんを、もう一遍「おおい鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」といがりまくった。それを聞いた鍛冶屋のおじやんは「はてな、さっきあればあ喧嘩して、もうものも言わん言うちょったに、ちくとこりゃあ可笑しいぞ」と思うたきん、堤に出て浜の方を見たが、かねたのおじやんくは灯りがついちょらん。真っ暗がり。それに黒い松の木の根元にチョロチョロと青い火が見える。
「ははーん、さては豆狸の悪戯《いたずら》か」と合点がいくと、鍛冶屋のおじやんは、じき《すぐ》に川を渡って「かねたのおじやんよう、さっき呼だは、ありゃあ、豆狸よ。へごな《わるい》豆狸じゃきん、若い衆を呼んできて、このへんを燻《ふす》べまくって捕まえたら、狸汁を炊いて食おうじゃないか」と、大声でいがった。
 これを聞いた豆狸は、ばったりかやって吃驚仰天《びっくりぎょうてん》よ、こりゃたまらん言うて、ざんじ《おおいそぎ》狸谷(弥ヶ谷)へ逃げ込み、観音山で菩薩様に諭《さと》され悪豆狸を返上した、という。
 その後、二人のおじやんは、元の朋輩どうしに戻り、仲良う長生きをしたと、いいますらぁ。
                            文  津 室  儿
         

土佐落語 店屋酒 60-13


  土佐落語  店屋酒  60-13     文  依光 裕
 
 時は無声映画時代、活動写真弁士の別けても華やかなりし頃のお話でございます。
 弁士にも高知城下の常設館専属の弁士からドサ廻りまで、ピンからキリまでございましたが、村井巡業部・江村美声はキリの方で、美声どころか、ガラガラ声の悪声でございました。
 おまけに、家で飼う鶏が”取ったばァキューッ!”と鳴く程の大酒飲みでございまして、朝家を出しなにキューッ!巡業の途中でも酒屋の前を通るたァび馬車を停めてキューッ!活動写真が済んでキューッ!寝る前にキューッ!、日に二升の酒が無かったら身がもたんと申しますから、一升は楽に飲むこの升楽《しょうらく》も足許に寄れません。
 一日《ひいとい》のこと、香美郡の山田に掛けておりました小屋を打上げまして、この日は朝から香北の永野へ巡業という段取りでございましたが、座長にとっては生憎のことに大雨《おおつはぶい》でございます。
 座員の連中は”今日こそ骨休め”というもんで、宿屋で朝寝を決め込んでおりますに、昼前に雨がカラリと上がってしまいました。
 さァ大事、足許から鳥が飛び立つような俄の出発でございます。
 「オッ酒じゃ!チクト馬車を停めてくれ」
 「美声、今日はいかんぞ。晩方までに永野へ小屋を掛けないかんきに、永野へ着くまで堪えちょれ!」
 座長の鶴の一声、哀れ美声”青菜に塩”の道中でございました。
 「お、お婆ァ!へ、ヘンシモ!」
 そこは美声の行きつけ、永野の高屋《たかや》という店屋《てんや》でございます。
 「美声さん、血相を変えてどういた事ぜよ」「どういたこういたの容態は医者に言うてくれ!それより、コ、コレじゃ!」

        絵  大野 龍夫
 
 「コレいうたら、焼酎かよ?酒かよ?」
 「生きる死ぬるの瀬戸際にヒンジョノカァが言えるか!何でもかまん、ヘンシモじゃ」
 あまりの血相に目がかすむ程慌てました婆さん。大急ぎで一升徳利から湯飲み茶碗へドクドク注《つ》ぎ始めましたが、注ぎ終わらんうちに美声の口がハヤ食いつく始末でございます。
 「モ、もう一杯!」
 二杯目は一息にキューッ!
 「おおのコレコレ、このことよ!婆さん、もう一杯おおせ」
 三杯目は美声、腰掛けに腰をおろしまして、ゆっくり湯飲み茶碗を傾けました。
 「ありゃ?お婆ァ、こりゃ先刻《さっき》の酒かよ?」
 「見てみなんせ。美声さんの目の前の徳利から注いだもの、どういて間違うぜよ」
 「そうよのう。どりゃ・・・・・(プッと吐き出して)こ、こりゃ矢っ張り酢じゃないか!お婆ァ、この俺に酢を二合もどういて飲まいたなら!」
 美声の怒りように、婆さんも入歯をガタガタ鳴らしまして、
 「美声さん。なんぼ田舎の店屋酒でも、二合飲まんと酢と酒の違いが判らんかのうし!」

                         写  津 室  儿

2013年3月22日金曜日

土佐落語  法螺の貝  60-10


     土佐落語  法螺の貝  60-10      文  依 光   裕    

 明治の時分、物部川の奥に文作《ぶんさく》という男がございました。
 三十歳の若さで、村の戸長を務めたと申しますから、なかなかの人物でございますが、おまけに”光源氏か業平《なりひら》か”という、男前でございます。
 二里も遠方の役場へ、毎日通うておりますに、その途中の岩屋という所《く》に、酒も飲ましゃァ、饅頭も売る店屋《てんや》がございまして、ここな若嫁さんが、これまた”小野小町か楊貴妃か”という別嬪。
 「戸長さん、お早うございます」
 「お早う」
 「戸長さん、今お帰りですか」
 「やァ、オマサンも、もうおかんかよ」
 朝晩たがいに挨拶をしておりますうちに、なにせ一方が光源氏なら、片や小野小町。ジキにジコンな間柄になりました。
 「戸長さん、一寸寄って、お茶でも飲んでいきなんせ」
 「亭主はまた高山詣りかよ?」
 「アイ、若いクセに神信心らァして・・・・・。今度も先立で、石鎚さんへ行ちょります」
 「神信心はけっこうなことじゃないか?」
 「けんど戸長さん。山へ行くたァび”女を絶つて五体を浄めないかん”、こんなことをいうて、十日も二十日も前から、アテイを・・・・・!」
 「寄せつけんかよ?」
 「アイ。山へ行ったら行ったで、十日も二十日も戻って来ませんろう? ほんでアテイは・・・・・。」
 「たまるか、モッタイない・・・・・!」
 いかなジコン(昵懇)な間柄でも、話がこう無塩《ぶえん》(生《なま》)になってきますと、もういけません。いつしか二人は、人目を忍ぶ深い仲になってしまいました。
 この情事《いろごと》というもんは、一回や二回では人の口にのぼりませんが、度が過ぎますと”天知る、地知る、人が知る”、人に知られてしまいますと、”世間の口”には戸が閉《た》てません。

          絵  大 野  龍 夫 

 「おい、今日からまたお山へ行てくるきに」
 「アイ、気をつけて行てきなんせ」
 店屋の若嫁さんは、愛想良うに亭主を送り出しまして”鬼の居らんうちに洗濯”、さっそく文作との情事でございます。
 ところが、亭主の方は女房の噂を耳にしておりまして、お山へ行くそうをして、コッソリ見張りよったきにたまりません。
 現場も現場、濡れ場の真ッ最中へ、イキナリ踏み込まれましたので、ソコスンダリ。さァ、着るもんもよう着ますもんか。文作はほんでも逃げましたが、若嫁さんは亭主にビットコまえられまして、丸裸のまま、店先の柱へ縛りつけられてしまいました。
 「あんなガイなことをしゆが、亭主はあの女房をよう帰《い》なすろうかネヤ?」
 「あんな別嬪を、よう帰なすか!」
 近所の者は店屋を遠巻きにして、ウゲコトかやりよりますが、事件《こと》が事件《こと》だけに、そこは無責任な弥次馬でございます。
 「オンチャン。オマンは発句が上手なが、一句できんかよ?」
 「面白い、やってみろうかネヤ!
〽高山駆ける先立が 人にも貸さぬ法螺の貝
 戸長が吹いて ナリ(鳴り)の悪さよ」〽

                            写  津 室  儿

2013年3月21日木曜日

土佐落語 再婚 60-12


  土佐落語  再婚  60-12           文 依光 裕
 
 香美郡は韮生《にろう》の大西に、又兵衛・お八重という若夫婦がございました。
 二人の子供にも恵まれまして、至って仲のエイ評判の夫婦でございます。従いまして”帰《い》ぬ!帰《い》ぬる”というような夫婦喧嘩は一ペンもしたことがございません。
 ところが一日《ひいとい》の事、田ンボを鋤《す》きに出かけまして、お八重が馬の鼻先《はなやり》を務め、又兵衛が代掻きをしておりますに、お八重の鼻先が下手糞で、馬鋤きが直《すぐ》うに進みません。
 「コリャ、馬の鼻をよう見て引っ張らんと、鋤けんじゃないか!」
 思わず又兵衛が怒鳴りつけますに、女房のお八重、馬の鼻の孔をのぞき込みまして、「馬の鼻の中は、昔から赤いモンよのうし」

     絵  大野 龍夫
 
 これがそもそもの喧嘩の種、又兵衛は最初《はじめて》の夫婦喧嘩でイキナリ三下り半を叩きつけたと申しますから、夫婦喧嘩は再々しておく方がヨロシイようでございます。
 「又兵衛、エイ加減で嫁さんを許いちゃれ」
 「インネ、一ペン暇を出いた以上、二度と再び儂ン家《く》の敷居を跨がすわけにゃいかん!」
 〽スリバチ抱えてコネにゃならん
  レンギレンギ こりゃレンギ・・・〽
 二人の幼児《おさなご》を抱えまして、早くも後悔しております又兵衛でございますが、お八重を許すとはどういたち言いません。
 そこで一計を案じましたのが、亀の甲より年の功、次馬というジンマでございます。
 「又兵衛、もうソロソロどうなら?」
 「またお八重の話かよ? 儂がイカン言うたらイカンきに、済まんけんど帰《い》んどうせ」 「そうか。俺ァ”新しい嫁を貰う気はあるまいか”こう思うて来てみたが、ほんなら帰《い》のうか・・・・・」 
 「ア、新しい嫁つかよ‼」
 「おお。オンシも子供を二人連れてのマモメ暮らしはたまるまい。それにまだ若いきに、”アッチの方も不自由じゃろう”と思うて来てみたが、エライ邪魔をしたのう」
 「次馬さん、貰う貰う!貰うきに、済まんが世話しとうせ!」
 「そうか。ほんで、どんな嫁が良けりゃ?」
 「さァ、どうせ貰うならお八重みたいに気が優しゅうて、子供を大事にしてくれる女がエイ・・・・・」
 「ほんなら、早速心当たりを当たってみるが、今度の嫁は大事にしちゃれよ」
 次馬はイソシイことに、三日のうちに話を纏めましていよいよ婚礼。ところが又兵衛、次馬に手を曳かれた花嫁を見てノケぞってしまいました。
 「次馬さん!そりゃ、お八重じゃないか!」
 「どうなら瓜二ッじゃろが?それに名前までお八重言うてオンナシぞ」
 「イカンイカン!次馬さん、こんな事をして、この始末をどうしてくれるぜよ‼」
 又兵衛がカンカンになって怒りますに次馬
 「先《せん》の女房と一緒かどうかは、今晩寝てみんと、判るまいが?」

                                                               写  津 室  儿

土佐落語 十七回半 60-11


  土佐落語  十七回半  60-11        文  依光 裕

 明治の時分、物部川の下上岡にお花さんという出戻り女がございました。
 年の頃は二十七・八、色白の肉体美の上に、なかなかの器量良でございます。 
 「おい、お花さんが又戻って来たそうなネヤ」
 「そうじゃとネェ・・・・・」
 「そうじゃとネェち、たかァアッサリ片付けるが、もうチット他にいい様がないや?」
 「そんな事いうたち、縁がなかったら仕方がないろがね」
 「ほんなら聞くがネヤ。お花さんが今度の家へ嫁入りしたは一体いつの事なら?」
 「たしか、こないだの節分じゃったろう?」
 「そうじゃをが? 嫁入りをしてまだ三月も経つちょらんにハヤ暇を貰うち、オカシイとは思わんか」
 「アンタはどうせ妙な事を考えゆうろ? イヤラシイ!」
 「オンシはお花さんが自分の従姉妹《いとこ》じゃきに、ジキ肩を持つたいいかたをするがネヤ。その前の嫁入り先から戻されたは去年の暮れの事ぞ。その去年の暮れに戻った家には、いつ嫁に行ったと思うちょりゃ」
 「アレもたしか、去年の節分じゃったぞね」
 「ほりゃみてみよ!去年の節分に一回、今年の節分に一回、年ごとに二回も嫁入りをして、半年たたんうちに二回も戻される女が何処に居りゃァ」
 「余ッ程縁がなかったというもんじゃネェ」
 「縁があったかなかったか知らんが、あの女が今迄に、何ベン嫁入りしたか知っちゅうか」
 「さァ・・・・・と、何ベンじゃったろう?」
 「エイかや?二回や三回じゃない、十七回ぞ。十七回も嫁入りして”縁がなかった”でコト足るか! オンシも従姉妹の肩を持つ気があるなら、意見の一つもしてみたらどうなら‼」
      絵  大野 龍夫
 
 二十七・八の年で、結婚歴が十七回と申しますから、これはまた賑やか出入りでございますが、亭主に怒られました従姉妹は、さっそくお花さんに意見でございます。
 「お花さん、オマンはどういてそうサイサイ戻されっるがぞね?」
 「戻されるチ、人聞きの悪いことを言わんとって! アテは自分から戻って来ゆがじゃき」
 「自分から戻って来るチ、どういてそんな事をするぞね?」
 「女はネェ、親から貰うた宝物を生いて使わな損ぞね。アテは貧乏が嫌いじゃきに、嫁入り先が貧乏じゃったら、ワザト戻されるように仕向けて戻んて来る。勿論貰うモンはチャンと貰うきに、戻るたァび財産が殖《ふ》える理屈よね。今迄に十七回半戻んて来たきに、財産も大部できたぞね」
 「お花さん、十七回半チ、その半はどういう意味ぞね?」
 「いつじゃったか、エイ話があってネェ。仲人に連れられて嫁《い》たところが、前に一ペン嫁入りをした家じゃってネェ、門の前から引っ返して戻んて来た。ほんで十七回半よね」

                           写  津 室  儿

室戸市 吉良川老媼夜譚 若い衆・嫁かたぎ 35-11〜12 


  室戸市 吉良川老媼夜譚 五 若い衆・嫁かたぎ  35-11〜12
 
 私が明治十二年ごろの小娘のころには、まだどこの家でも松を焚いて明かりとしていましたので、若い衆らはその明かりで髪の結いやいこをしたりしよりましたが、その時分の若い衆のことは文句の言い手がもうて、野に生《な》ちょる琵琶でも蜜柑でも柿でも黙って取って来て分けてくれたりしたもんで、村のどの家でも若い衆に取られたち平気でございました。
 小松の奥さん(当時の吉良川の豪家《ごうけ》の主婦らしい)が、夜便所に出てみると、若い衆が二人、庭の柿をちぎりよって、「お前らちぎりよるかえ」というと、足下へ「どしん」と落ちてきたなどという笑い話さえあったほどでございました。髪結いの明かりの松明《たいまつ》を持ってやったりすると、喜んで、野良の生り物を持って来てくれたりしたもんでございます。
 こんなに若い衆が勝手をしても、人に文句をいわれざったのは、村の不意の事にはこの若い衆らが一番先に飛び出していて、一生懸命骨折ってくれたからで、部落でも大切にせにゃならざったからでございます。
 よそから若い衆が嫁を貰うたり、よその若い衆を養子に迎えたりすると、「宿入り」いうて、若い衆に酒をやったり、お客に呼ばんといかんことになっちょったほどでした。
 若い衆らの平生集まる所は「寝宿《ねやど》」というて、吉良川の町分には、上・中・西・停士《ほうじ》の四組に分かれて、その宿はお婆さんだけが居るような家をたのんで、世渡りするまでは毎晩集まって、わいさら(註、わいわい)いうて寝泊まりしたもんでございます。男児は十五歳ぐらいからこの宿に入ったと思いますが、その時も「宿入り」いうて、親が酒一升ほどを持たしてやったものでございました。

   嫁かたぎ  35-12
 昔は今のように無い、町に料理屋があるじゃなし、夜になったら村の娘の家へ隣村の羽根からも室戸からでも歩いてきて、夜更けまでただわいさら言うて暮らして、いうたら話にならんほどじゃったことは、前にも言うた通りでした。
 そうしたわいさらの内に、かかりの娘と若い衆ができると、わきの者はつつかんことになっていたので、我ら同士好きやいなら親も仕方のう一緒にしたもんでございました。
 その時分は「嫁かたぎ」いうて、若い衆が好いた娘を朋輩に語ろうて、無理にに連れてくることが平気で行われて、娘の方でも担がれるということを頭に置いて担がれたもんで、親のいい通りの縁づき三分に、担ぐが七分という調子で、順調に嫁入りするというのが不思議なほどで、私らあも走った組でございました。
 娘に気がのう(無く)ても、男の方で好きになったら、娘の外出の時を狙うて、寄ってたかって若い衆が担いで、宿へ連れていて、付け届け(註、娘の親に担いだ事を知らせる)をしちょいて、そして土地のチュウコ(仲裁役?)かトシバイ(年長者)の者が仲に立って、その人に免じて、嫁にくれにゃあならんようになっちょりました。
 隣村の知りもせん家の娘を担いできちょいて、「医者にかからにゃあ坊主がかかれ」じゃいうて、人が大勢仲に立って貰うたりすることもありました。
 それが泣く泣く来ても、一生居着くようにもなるし、好きで来ても暮らしぬかん(徹す)嫁もあったりして、世の中は妙なもんよ。 きょうび(現今)は、料理屋じゃ言うもんも出来て、そんなややこしいことをせんでも結構すませるようになりました。
 普通の嫁入りじゃあ、村のもんが嫁見じゃいうて、祝言の座敷を寄ってたかって覗きこんだりするのは、どこも同じでございます。三里奥の長者野という所では、すぼ(苞・藁包み)で嫁さんの腰をぶっ叩くじゃいうこともありました。古い格式をいう家では、披露宴の座で「姑盛り」いうて、本膳へつけて姑がご飯を盛るじゃいうこともありました。
 赤岡へんでは、嫁さんを貰う家へ町の子供らがつめかけていて、提灯とローソクを貰い嫁を出せ嫁を出せいうて押しかけて、嫁さんの顔のはたへ提灯を寄せ付けて、「嫁を見よ嫁を見よ」いうて騒いだりするのがありました。それから「床入り」いうて、若い衆が新夫婦を連れていて寝さすじゃいうこともありました。

                          写   津 室  儿
          

2013年3月12日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 学校・娘のころ・梅毒の手術 35-8〜10 


 第38話 吉良川老媼夜譚 四
   学校 35-8
 私たち明治元年生まれが、初めて学校へ行ったもんで、初めは八級(義務教育期間は当初八年制度であった。その後四年制となり、就学率の上昇を待って現在に続く六年制度となる)から入りましたが、しつめる(いじめる?)『読者の註、(しつめる)とは、まじめに続ける、とか、かかりっきりになる』じゃいうことはなく、人が笑うじゃいうて隠れていたもんでござました。そして、学校へ行くのも、紺屋へやる糸のエブ(目印・紙札)を書くとか、百姓の家じゃったら、籾俵《もみだわら》のエブを書けるくらいになりゃあ、ことが足りると、思うばあのもんでございました。
 学校ができる前には、お医者さんや士族の家へ読み書きを習いにいたもんでございます。今のようにない、ほんの真似ごとぐらいのことでございました。

   娘のころ 35-9
 娘のころを思うと、楽しいものじゃったと
思います。きょうの日が面白うて暮らしたもんで、百姓仕事も至極のんびりしていて、田へは草を刈って入れて、浜から拾うてきた白石を窯で焼いて灰(焼石灰)にして撒いたら、今のように肥料じゃ何じゃいうて心配することも少のうて、できたちできざったち平気で、発明というものが無かったので、ただ面白う暮らしたいという気持ちで、七日の祇園様、十日の金毘羅様、十五日の八幡様というふうに休みが続いて、こんな日には酒を飲んで、娘のある家へは酌をとりに来てくれというて雇いに来て、娘の親もそれを喜んで出したもんでした。そこの席へ出たら、あとで「花」じゃいうて、お金や篠巻《しのまき》(笹巻き鮨)を一把ずつくれたもので、これも楽しいものでございました。
 とくに八月十五日の八幡様の夏祭りには、神祭の宵からしまいまで、若い衆宿へ手伝いに行かにゃならざったもんで、これには町の区毎に花台(山車)が出て、その行列の一番先に曳き船いうて、きれいに飾った船を曳いて行くのがあるので、その飾りつけやら準備に出るためで、この花台にはローソク代だけでも五十円、七十円と要ったので、そんな費用をつくるには、一戸割り当ての他にシツギ(宮への奉納金?)というて別に金を出さねばならざったし、そのためには大阪行きの炭や薪を帆前船に積み込む仕事を請けて、男女で手伝うて何百円もの金を儲けて出したりしたもんでございます。
 そこで、娘のある家で、宿(若い衆宿)へ手伝いに出すのを嫌がったりすると、その家は「省《はぶ》く」いうて、若い衆から勘当同様にされたもんでございました。それで、娘という娘が皆出て、神祭当日には、曳き船の綱につかまって地下地下で御神輿を回したりして大騒ぎしたもんでございました。
 今と違うて、若いもん同士の間が雑なもんで、麦でも米でも機械で搗《つ》くじゃいうことが無かったので、皆食べるばあずつ、毎晩娘等が搗《つ》いたので、唐臼《からうす》(坪に埋め込まれた臼)のある家へは、娘等が寄り集まって、「搗き合」いうて搗きました。そんなところへは若い衆が話しに集まってきて、のんきな話で暮れて、夫婦にならんでもナジュミ(馴染み)いうて娘と若い衆の間に好きやいができて、手伝うちゃろという愛情の深いことこの上のうて、楽しいもんでございました。
 男と女の間が雑なといやぁ、お大家でも番頭さんと奥さんとが仲がええじゃいうことも、当たり前のように思われちょりました。本当に、今時の人らにゃあ思いも寄らんことでございました。有る部落じゃ、娘と若い衆がどしゃ寝(雑魚寝)じゃと、いうことも平気でございました。

   梅毒の手術 35-10
 前々から話してきました通り、私らの十七、八歳のころは、土地の若い衆も娘も面白う暮らしましたので、一度よそから悪い病気でも貰うてくると、うつって困る者が多うございました。
 この時分は、梅毒をヒエと言うて、このヒエカキ(病持ち)を家で手術するには、私の親類の若い衆が切ってもろうたことがございましたが、皆が患うたもんの手や足をぎっちりと押さえつけちょて、口の中へは、いがらん(叫ばぬ)ように手拭いを詰めちょいて、気の強い者が剃刀《かみそり》で切ったものでございました。手術をした後へは、塩を沸かしちょいて、それを冷まして塗りくったもので、それからは日にいっぺんずつ、この塩湯を塗りくって治したものでございました。
 痛いことでございましつろう。口の中の手拭いが、粉々になっちょた程でしたきに。

                                                                 写  津 室  儿
          


  

2013年3月5日火曜日

土佐落語  腰巻き  60-9


 土佐落語  腰巻き  60-9        文  依 光  裕

 昔は男でも一張羅の和服にメカシ込む時は、腰巻きをしたもんでございます。
 「婆さん。メリヤスのシャツと白ネルの腰巻を出いてくれェ」
 「爺さん、今晩も出掛けるがかね?」
 大栃の奥に角さん・おそのと云う年寄りの夫婦がございましたが、角さんは年に似合わんやり手でございまして、他所に女をこしらえております。
 「婆さんよ、シャンシャンしたや!」
 「こんなに遅うに何事ぞね」
 「常会常会。部落の総代をしよったら、毎晩常会よや」
 「毎晩話す事があるもんネェ」
 「それよ。何ヘンカニヘン、先に立つ者が苦労すらァ・・・・・。ほんなら行てくるきに、婆さんは先に寝よったや」
 提灯片手に一歩足を踏み出した角さんの背中へ、
 「爺さんよ、今晩はウンと冷えるきに、ヘチの常会をせんと、早う戻んて来なんせ!」
 男が家を出しな、それも痛い一言でございましたので、カチンときました角さん。
黙ァって行たらエイもんを、クルリと舞い戻ってまいりまして、
 「こりゃバンバ!ヘチの常会た、どういう意味なら?俺が他所へ女でも囲うちゅうと思うちゅうろが、証拠があるかや? 人の噂を真に受けて亭主を疑うもエイが、ソレを口に出いていう時にゃシッカリ証拠を握ってからモノを言え!」
 コジャンと啖呵を切って女の所へ出かけまして、その晩は夜の明け方家へ戻ってまいりました。
 ところがエイ年をして、夜業《よなべ》仕事に精を出してきておりますので、婆さんが目を醒《さ》まいても白川夜舟の高鼾。一向に知らんと寝入っておりますに、おその婆さんは女の執念でございます。

           絵  大 野  龍夫

 「なんとか証拠を」と言うもんで、角さんの身体検査に取りかかりまして、まずジンワリ布団をめくった、その途端、「ややッ‼」
 おその婆さんが白眼をヒン剥くも、角さんの枕を蹴飛ばすも一緒じゃったと申しますから、女の悋気《りんき》は幾つになってもオトロしゅうございます。
 「ア痛《イ》タ痛タ!何をすりゃ糞バンバ!」
 「吐《ぬ》かすな助平ジンマ!常会常会いうて、ようもアテイを騙いてくれた。さァ、女は一体何処の女ぜよ!」
 「またソレを吐かす。悋気をコクなら、証拠を出せ、証拠を!」
 「証拠は、オマンの腰巻じゃッ!」
 角さん、慌てて自分の腰巻を見てみますに、昨夜《ゆうべ》の女がしておりました真っ赤な腰巻でございます。
 「ジンマの白ネルの腰巻が、いつ、どういて赤うなったぜよ?」
 バンバの矢のような追求に、角さん、
 「イ、色の文句は、染物屋にいうてくれ!」

                          写  津 室  儿

2013年3月3日日曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 町の家・昔の女の服装  35-6〜7 


  吉良川老媼夜譚 三
  
  町の家  35-6
 昔から「唐ノ浜のダイダイ、吉良川の石グロ」というて、安田町の唐ノ浜には家ごとにダイダイを植えてあるのが目に付き、吉良川では石グロ言うて、丸石を積んだ土塀があることが目に付きます。これは家が浜に面して風がえらいからで、今じゃこの町分のおおかたが瓦葺きになっちょりますが、私らの子供の時分は、町の全部の家がクズヤ(註、草葺き屋根)でございました。
 だいたい、この町分の家がこじゃんとしたものになったのは、薪や炭を大阪へ積み出す船持ちが始まりで、この町分は昔から地味なところで、物見花見もあんまりせんと、むくる(働く)一方で、それでここでは、ほかの漁師町のように質屋が立って(註、成り立たない)いけません。金持ちの旦那じゃいうても、大なり小なり畑地を持って百姓をしたりして、よう働きよります。
   
  昔の女の服装  35-7
 私らの娘の頃は、着物というてもみんな家で織った木綿の縞物を身に着けちょったもんで、帯は普段には下がり帯いうて、四寸五分幅の物を二つ回して、一括りして垂らしちゅあったもんでございました。
 着物の一番ええもん言うても、銘仙《めいせん》、南部縞《しま》、秩父銘仙じゃいうもんで、こうと(地味)なもんで、私の十八歳の時にお宮参りじゃいうて拵えた越後の帷子《かたびら》を、今出して仕立て直して着よりますが、ちょっとも可笑しゅうない程の物でございます。普通には、なら(奈良絣《かすり》)じゃいうのを着たりしよりました。よそ行きの帯はお太鼓でございました。 履きもんは、せきだ(雪駄)というて、裏に金を打った物でした。ちょっと上等になると、宮参りに桐台、のぶ台、神戸台などというのを履いたものでございます。こんまい(註、小さい)子供の頃には、表に竹の皮の織ったのを貼った松台の長浜下駄というのを履いたもんでございました。足袋は木綿の紐つきで、小鉤《こはぜ》(留め具)がけじゃいうもんは、その頃はありませんでした。
 髪の形は、娘はみんなちょうちょに結うて、色の綺麗な飾りをかけ、簪《かんざし》を挿したりしました。四十歳ごろには栄螺《さざえ》の壷焼きじゃいうて、もつう(捲く)て頭の上に載せる髪を結うておりました。年寄りは皆さげしたいうて、こうがい(笄)で巻いて下で輪にした髪にしちょりました。こんな髪は、鬢付《びんつけ》けと元結《もっとい》(註、髻を結ぶ細い緒)が無かったら結えんもんで、バイカという油なども使うたりしました。油徳利で一合なんぼで町の荒物屋で買うてきたもので、毎朝金盥《かなだらい》へお茶を入れちょいて、布片で髪をのしちょいて使うたものでした。
 明治二十七、八年頃から三十年頃には、まだ、嫁入りした女はみんな鉄漿《かね》(註、おはぐろの液)を付ける風《ふう》(習わし)があって、それで年をとった女が鉄漿《かね》を落とすと面白いというて、私が落としておりましたら、男の舅に白歯で居るもんじゃないと言われたもんでございました。娘でも嫁入り前につけてゆきました。その頃は世渡りも早うて、十三歳で嫁入りしたりする者は、奥の西山あたりでも多いもんで、十八、二十歳じゃいうと、もう遅いように言うたもんでございました。
 鉄漿を作るには、かなはだいうて古釘の焼いたものへ水を入れて、ご飯か麹《こうじ》を入れて置いたら、ぶすぶす煮えてきました。それをかね筆というて鶏の羽で作った筆ににつけて、五倍子《ふし》(註、ヌルデの若葉・タンニン材として薬用・染織用に用いた)の粉をねぜっちゃ(練る)塗り、塗っちゃ唾を吐いてつけたものでございました。五倍子は奥の人が売りに来ました。鏡は手鏡いうて金で作った物で、嫁入って来るときに持って来ましたが、これはよう曇るもんで、時々研ぎ屋が来て研いでくれたものでございます。
 女が白歯になったのは、明治四十年過ぎてからのことのように思います。それから、女がお腹へ子がはいったら、五ヶ月目に眉を落とすことになっちょいましたが、その時には亭主の膝で剃ってもらうものである、と言われていました。
 嫁が亭主の膝で、眉を落としてもらうひとときは、至福の時であった、と言われたようでございました。
 私も亭主の膝がこいしくて、その時が待ち遠しくてなりませんでした。

                           写 津 室  儿
          

2013年3月1日金曜日

室戸の民話伝説 第35話 物言う鯨・鮹と勝負した話・日沖の大碆の鮑


35    物言う鯨 35-1

 古式捕鯨が始まって間もなくの頃、と言うから寛永時代(約四○○年前)の話で有ろう。三津浦に、岩貞曽右衛門言う羽指《はざし》がいた。
曽右衛門は努力の人で一番羽指を勤め、よく漁をする漁男《りょうおとこ》だったという。
 そんな腕利きの曽右衛門が、ある日の漁で、「子持ち鯨は夢にも見るな、の箴言。子鯨に対する愛情は人間をも凌ぐと云われる」子持ちの背美鯨に挑んだ。先ず、子鯨から捕り掛かる。その時、子鯨の危機を感じ取った親鯨が不意に子と羽指の間に分け入り、手練の曽右衛門を手羽《たっぱ》で打ちのめした。曽右衛門は一撃のもとで死んだ。誠に背美の子持ちは恐ろしい、と浦人達は戒めあった。
 鯨の漁期もあけ数ヶ月、浦も夜釣りの季節に移った。隣の弥五郎が夜釣りに出かけた。その夜は、稀に見る大漁だった。そろそろ帰り支度に取り掛かると、沖の方から鯨が浮きつ沈みつしながらこちらに来る。弥五郎は恐れおののき、逃げ戻ろうとする。いよいよ近寄って来て鯨がものを言うた。「久しく遇わなかったがゆかしいなあ~」と声を掛けてきた。その声は、たしかに羽指の曽右衛門、少しも変わらない声に、あろう事かと恐れ逃げ帰った。
 その一夜のことは、誰彼《だれかれ》や女房にも話さずに居た。そのせいか、何事も起こらず変わりない夜が続いた。弥五郎はあの夜の大漁が忘れられず、又、夜釣りに出かけた。すると、あの夜の鯨が浮き沈みして近より、ものを言い掛けてきた。二度の怪奇に遭遇した弥五郎は驚き、腰を抜かしながら逃げ帰り、ことの次第を妻子に話した。すると妻子は忽ちに乱心した。この狂気乱心は、様々な祈祷をしても治らなかった。子持鯨の祟りじゃろう、と話し合った浦人は、子鯨塚を建てて供養をすると、弥五郎の妻子は回復した、という。  げに奇怪な話しよのう。

               絵 山本 清衣

   鮹と勝負した話 35-2

 三津に船おんちゃんと言う大工がおった。曰《いわ》く、船大工である。三津浦の漁師、覚治《かくじ》おんちゃんが話し始めるに、「船おんちゃんは、一月《ひとつき》に三十五日働く働き者じゃった」と、いう。ある日、船おんちゃんがひょっこりやって来て、「ほんまに昨夜《ゆうべ》はやられた」という。「どうしたなら」と聞いたら「鮹《たこ》と勝負をした」と船おんちゃんが言うに、「茄子《なす》を海岸ぶちの畑に作っちょる」所が、毎晩茄子をちぎられて仕様がない。そこで、「わりゃ、人が一生懸命に作っちょるもんを盗りやがって、見よれ」と、一晩、夜通し待ちよった。そうしよったら、頭がピカピカ光る坊主が来た。覚治おんちゃん、かまえちょった荷内棒で、頭に一発ぶちこました。そしたら、逃げる逃げる。追わえて押さえて見ると、なんとざまんな《大きな》鮹じゃった。鯨が遊ぶ三津の海じゃき、こんなざまな鮹も居ったもんよのう。
 幕末の絵師金蔵は、笑絵の中に満月の夜、里芋を担いで逃げる大蛸を描き、また弟子の河田小龍も、胡瓜《きゅうり》を背負って桂浜に逃げる大蛸の姿を描いている。

     日沖の大碆の鮑 35-3

 椎名の日沖に「大碆《おおばえ》」という大きな碆がある。この大碆に、稀代未聞《きだいみもん》の大鮑《あわび》が張り付いておったそうな。なんと箕《み》(農具)ばああった。その鮑に鉄梃《かなてこ》を八本ぶち込んで、舟二艘で曳き漕いだが離れざった、と。
 ほんで暫く放っちゃあった。所が、それを近くのコウロウ(石鯛《いしだい》)が嗅ぎつけた。この魚はサザエやアワビが大好物ながよ。鉄梃をぶち込まれ、アワビの汁が流れたろう。それを嗅ぎつけて来があよ。それで何とかしようとしたが、何とも太いきんどうにもならん。
 それじゃあと言うことで、室戸岬の鼻に居るコウロウの親分の所へ相談に行った。相談を受けた親分、何とかせんと沽券《こけん》に関わるというた。その親分の姿形は、なんと畳一枚半ばぁあるという。件《くだん》の大鮑、鉄梃を八本もぶち込まれ、少々堪《こた》えちょる。親分は歯がえらき(強い)鮑の殻を食い破ったが、一匹じゃあ食い切れん。そこで自分の一族を呼び寄せた。上《かみ》は甲浦から下《しも》は羽根崎まで、狼の千匹連れならぬ、コウロウの千匹連れよ。それらがやって来て、食いついて食いついて、とうとう喰うてしもうた、と言うきに大したもんよのう。
 日沖の大碆に、あんまり一杯コウロウが押し寄せて来もんじゃきん、大碆の周りの海が真っ黒になって波立った。見ていた者は、こりゃ龍宮さんが怒ったにかあらんいうて、浦人皆なが漁を休み、神さんにノリトをあげたり、仏さんに祈ったそうな。
 そりゃそりゃ、大騒動な一日《ひいとい》じゃったそうな。               

                            文 津 室  儿