2013年5月21日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 九 年祝い 35-19〜23


   吉良川老媼夜譚  九
   年祝い  35-19
 人間は一代のうちに、厄の入り抜けから五回の祝いをするもんじゃと申します。一番はじめは、女の三十二歳で厄に入って、三十三歳で抜けるのと、男の四十一歳の厄入りと二歳の厄抜けで、それから六十一歳と七十三歳、八十八歳の祝いをするもんでございます。
 「入り」には「むしこむ」いうて、赤飯を炊いてお客をします。六一の祝いには、親類から反物一反とお酒一丁を贈って、赤の涎掛《よだれか》けをさして座らして祝うたりしました。八十八歳には竹で斗掻《とかき》(概《とかき》・升に盛った穀類を、升の縁なみにたいらにならす短い棒。升かき。かいならし)を拵えて配ったりしました。私もとうとう八十一歳になりましたが、せちがらい世に生きすぎて、迷惑なことでございます。

   分家  35-20
 これは余所でもあることでございますろうか、吉良川あたりでは、次男が分家すると、女親がついて出て、寝泊まりも分家の方でいたしますし、男親は長男の方で寝泊まりするふうがございます。
 それで、女親が仏になったら、分家の初めての祖先になって、お祭りは分家ですることになっちょって、墓は親夫婦一つ(一緒)に刻むことになっております。この分家を母屋にくらべて部屋というたり、新宅とも呼んだりします。三番目からの子は教育してやって、身すすぎ(生活が成り立つ)の出来るようにしてやります。

   葬式組  35-21
 不幸がありますと、昔から隣近所七軒が全部集まってきて、いろいろ世話をしてくれるふうが今にございます。
 墓地場は山手にあって、墓穴も近所の者が手伝うて掘ってくれます。火葬にすることはないので、長い棺に入れてそのまま埋《い》けますが、この棺を拵えるのは近所の大工の手伝いが、拵えてくれることになっちょります。不幸の家は、戸を閉めて悔やみ帳というものを門に吊しますが、手伝いが来ると、これに名前を書きこみます。埋けてしまうと、ぶく(死人が出た家のこと)払いいうて、隣の家の一軒が引き受けて、鮨や肴を出してちょっとお客をしますし、七日目は仕上げいうて親類と知り合いが集まってお客をするふうがございます。
 正月に女が死ぬるのは、後を引くいうて嫌がり、紙で裃《かみしも》をこしらえて着せ、竹の刀をささして、男に仕立てて、棺へ納めるじゃいうことがございます。

   鰯  35-22
 また昔の話になりますが、昔は今と違うて、魚もうんとおったように思います。明治三十四、五年ころでしつろうか、鰤《ぶり》の大魚《おおいお》(鰤を指す)が海岸へ鰯《いわし》を追うてきて、大魚網《ぶりあみ》の船が舷を叩くと鰤がいよいよ海岸へ近寄ってきて、鰯やら他の細かい魚が、浜へ寄木のように飛び上がってきて、浜いっぱいに真っ白うになって、みんなが夢じゃないろうかと思うて、男も女も籠やらふご(穀物他を入れる、藁作りの籠)を持って拾いにいたことがございました。この時は、鰤も浜へ飛びはねてきて、着物をかぶせてとったりしたもんでございました。
 その頃は地引網をひいても、上げれんばあ網目へ頭をさした小魚がはいっちょったもので、西山の百姓がサバゴやウルメなどを魚肥《いおごえ》にするのに、馬にたご(桶)をつけていたもので、それでまだ余ったがは、浜へ干しちょいて、あとで肥にしたものでございました。それがこれぐらい海をせたげる(責める・いじめる)と、とんと、とれんようになってしまいました。

   お菓子と行商人  35-23
 今のように上品な生菓子じゃ氷じゃいうもんは、見ようち見えざったじぶんで、おつぶ、岩おこし、ちゅう菓子、金平糖、りょうせん飴じゃいうもんしか売りよりませんでした。余所からの行商人は、阿波の女が室戸の港まで亭主の船で送ってきてもろうて、それが子守を連れて、絣の着物を着いて、頭の上に大きな籠を乗せて、トロロ昆布やアラメ昆布などを売りに来たものでございました。
 大和と富山の藥屋も「入れつけ」いうて、大きな袋へ熱薬じゃ、風邪薬、腹いた薬、セメンじゃいうて、いろいろ入れてあずけておいて、毎年春頃に入れ替えと集金にきたりしたもので、子供らに風船やら広告の小旗などを土産に置いていたものでございます。

                              写 津 室  儿
          

2013年5月6日月曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 八 子を殺す・辻売り 35-17〜18


   吉良川老媼夜譚 八  
   子を殺す  35-17〜18
 お産は「嫁の生活」でお話しました通り苦労をしましたが、その一方で私らの若い時分には、生まれる子を潰《つぶ》す人が多うて、せいぜいが三人か四人で、五人となると多すぎる、七人にもなると貧乏するはずじゃというて、あきれたもんで、そんなふうで悪いことをして生命をを捨てる人もありました。
 向かいの爺さんも、自分で「婆んばがいかいで、ねじちゃあったら生きたつが(註、婆さんが上手く潰せず生き返った)」などと言うて、あのとおり長生きしたといいます。
 潰すときには、掌《てのひら》で出たもん(赤子)の顔をようみんと、泣かす前にぴっちゃりと顔をおさえたと言いますが、掌の下でコンニャクの様なもんが、ぐるり(ぐにゃ)とするのは、あんまりええ気なもんじゃないと聞いたりしております。これを「へす(減す)」とか「ゴロク(あの世?)へやった」とかいうて、後始末には床下に埋《い》けて石でも置いただけのようでございました。昔はえらいわやくちゃなことをしたもんで、これは土佐に限ったことにかあらん(相違ない・知れない)、それで昔から土佐は鬼国といいましたわのうし。
 それからゴロクへやったのじゃのうて、育てようと思うた赤子が死んだりすると、鳥を飛ばしたようなもんじゃいうて、あんまり悔やむといかんじゃいうて、簡単な箱に入れて墓地場へ埋け、お地蔵渡しというて、お寺さんにお教をあげてもらうくらいで、しまいにするふうがありました。

   辻売り・その他  35-18
 子供が病気がちで困る時には、辻売りということをいたしました。これは親が町の四つ辻に立っていて、一番初めに来た人に自分の子を貰うてもらい、名前を付け変えてもろうて、その人を親にすると育つというのでございます。それで丈夫に育つと、一生の間、正月礼などを勤める義理堅い人もあって、これは今でもする人がございます。
 それから、親の干支《えと》が生まれた子にふさん(適合しない)じゃいうことがあったりして、子供が病気がちじゃったりすると、お宮の市《いち》(巫女《みこ》)さんに干支の合うた人をみてもろうて、「親取り」いうて、仮に親を変えたりすることもございました。
 市さんは五十歳あまりの人で、家祈祷やら病気を患うたりすると、お神楽をあげて、しらせ(祈祷か?)をしてくれたりします。八幡さんの太夫《たゆう》さんもしてくれますが、昔は八月十五日の神祭には、五日前から太夫さんと市さんが、お宮へ籠《こ》もったものでございます。
 子供が生まれても生まれても死ぬるのは、車子《くるまご》いうて、十二人まで死につづくというて嫌がりますが、甲浦に土居さんいうて、えらいお医者さんがあって、この人はどんなむつかしいお産でも取り上げるというので、私らの若い時分の歌に「腹が痛いやや子ができる、早う甲浦の土居迎え」というたもんで、谷田いうて今に生きちょる人は、十二人目の車子で、土居さんに出してもろうた人でございます。
 子供が糞壷(雪隠・野雪隠落ちると同様)へ落ちると、その子供の名前を変えるふうがありました。それにはセンの字を付けると申します。お手水の神様は、えらい神様で、目と下《しも》の病の神様じゃと言われております。盲《めくら》の神様で、私はウスシマ明王様(トイレの神様)と聞いております。それで、お便所へは唾を吐かれんといいます。
 臨月近くで死ぬる女があると、身二(親子に分ける?)つにして埋けるもんじゃいうて、お医者さんを呼んで身二つにして貰うて埋けるふうでございます。それから子供に命《めい》がのうて、あまり乳ができたりすると、その乳を「ただの所へは捨てるもんじゃない」というて、「南天の木の元へあますもんじゃ」というたりしました。
 親というものは因果なもんで、我が子の為にはえらい苦労するものでございます。妊娠して上の子が患うて、顔色が悪うなったりすると、オトミじゃとかチバナレとかいうて心配もするし、お尻の上の青い紋を「ウブ(産)の神のひねくったところじゃ」いうたりして笑うたりもしました。生まれた赤子が初めてするウンコをガニババ、体にできるおできをガニというたりするのは、どういう訳でございますろう。

                           写 津 室  儿
          

2013年5月1日水曜日

室戸市の民話伝説 第37話 尻喰われ観音


37話    尻喰われ観音

 とんと昔、こんな話があった。
 人は死んだら、あの世へ行そうな!。あの世へ行には六文銭がいる。この銭は三途の川(賽《さい》の河原)の渡し賃じゃ、と。ほかにあの世じゃ銭はいらんが、なにが要るかというと、この世に居る間に南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と言う念仏を一杯唱えちょくことやと。この念仏が閻魔《えんま》大王様の好物で、土産になるそうな。
 土佐は東の端の室戸岬にほど近い村で、ある朝早く、お虎《とら》ばんば(婆・老女)が、こっとり(急に・突然)死んだ。それからしばらくしよったら、今度は、同じ村の六助《ろくすけ》ことロクという若い衆《わかいし》が死んだ、と。
 ロクはお虎ばんばが、自分より先に死んだ事を知っちょったき、一緒にいこうと思うて、お虎ばんばの後を、一生懸命に走り走っておわえた(追いかける)そうな。
「おーい、お虎ばんばよ、待ってくれ」と、おらび(叫び)ながら行きよると、ようようのかぁで、お虎ばんばに追いついた。
 所がお虎ばんばは、何やら背負ちゅう。
「お虎ばんばよ、そりゃなんぜよ」
 ロクが、目を白黒したのも道理よ。ばんばは、たかで(非常に・実に)ざまぁ(大きい)な荷物を肩に背負って、ようよう行きよる。お虎ばんばは、ロクに気が付くと立ち止まって、ふうふう言いながら、「これかよ、こりゃのう、閻魔大王様への土産の念仏よ」と、言うたそうな。すると、ロクが「そうかよ。そりゃ重かったろう。なんなら儂《わし》が代わって持っちゃろか」と言うた。お虎ばんばは「持ってくれるかよ、そりゃ有難い。たのむき持ってくれや」といって、どっこいしょと大きな荷物を下ろすと、肩をトントンとたたいて喜んだ。ロクは歩きながら考えた。
「ヒヒヒ、しめたぞ。この念仏・・・そっくり、儂のもんにしちゃろ」と、ロクはお虎ばんばの念仏を猫ばばする事に決めた。「ほんで、お虎ばんばと一緒じゃいかん。へんしも行かんと儂の物にはならん、ととっとこ足を速めた」すると「ロクよう、待ってくれ、これ、待てやーい」と、お虎ばんばが呼ぶのも、どこ吹く風と、すたこらすたこらさっさと、小走りに行ってしもうた。そうして閻魔庁へ着くと、「ええ、閻魔様はいらっしゃいますか!、儂は六助と申します。閻魔様の好物の念仏を、どっさり持って参りました。どうぞこれを納めて下さい」と、お虎ばんばの荷物を差し出した。
 閻魔様はこれを見て「ふーむ、おやまあ、齢も若いに、げに感心な奴じゃのう。よし、なかなか勉強をしちょるき、観音さんにしちゃろう」と、いうた。
 閻魔庁とは、亡者がやって来ると、そこで本人がこの世で、どんな悪い事をしたか善いことをしたかを仕分けて、地獄、極楽へと送る。極楽ゆきの中でも、念仏の土産が大きかったら、特別に観音様にしてくれる、と言う分けじゃ。

                    絵  山本 清衣

ロクの土産があんまり大きかったきに、閻魔大王はロクを観音様にしちゃろうというた。
ほいたらそこへ、お虎ばんばがのっこらのっこらとやって来た。土産も何も持ちゃせん姿に、閻魔様は「おまやぁ、たかあその齢になっても、土産の一つも無いかや」と皮肉たっぷりに言うたそうな。 
 ほいたらばんばは、「いんげ(いいえ)のいんげ、閻魔様。私しゃぁ、念仏の土産をどっさり持って来ましたぜよ。私が持ってきよりましたらのうし、隣のロクが、そりゃなんぼか重たかろう、儂がちょっくと代わって持っちゃろ、言うて持ってくれましたけんど、私を待たんと、とっとこ先へ行きましたが!」
 それを聞いた閻魔大王は、赤い顔をなお真っ赤にして恐ろしい顔でお虎ばんばを睨《にら》み付けた。「こら、ばんば、おまやぁ、まっこと不届きな奴じゃのう。わしにまで嘘をつくきか」「いんげ、いんげの・・・嘘じゃありません。なぜこのばんばが、閻魔様に嘘を付きましょうか!そうそう、その証拠はロクが持ってきた、荷物の名札を見てつかあされ」
 お虎ばんばが、真顔で言うので、閻魔大王が名札を見た、と。ほいたら、ちゃんとお虎ばんばの名前じゃー。ほんで今度は、ロクが閻魔大王から百雷を受ける番になった。
「馬鹿野郎、お前は、なんちゅう奴じゃ。今までここへ来た奴で、わしを騙した奴はお前が初めてじゃ。貴様なんぞ鬼に喰われて死んじまえ」
 閻魔大王が、こういうて大きな声で怒鳴りつけた。傍にいた鬼共は、久しぶりに人間が喰えると思うて、嬉しゅうて嬉しゅうて、天国に昇りよるロクに襲いかかった。その時は、もうロクは腰から上は観音様になっちょった、と。
 ほんで鬼は、ロクの足しか喰えざった言うて残念がった、と。これ以来ロクは「尻喰われ観音」と呼ばれたそうな。
 むかしまっこう、さるまっこう。おさるのお尻は真っ赤か。

                             文 多 田  運