2013年7月9日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 35-31 八幡様の御田祭り


 第38話  吉良川老媼夜譚  十二
   八幡様の御田祭  35-31
 八幡様の神祭には、昔は今のようにない、えらいもんでして、サアチ(皿鉢)料理を座敷いっぱいに並べて、来る人来る人誰彼なしに引っ張り上げて飲まし、町中あちこちしてそれはにぎやかなものでございました。この八幡様の神事の中には、一年はざめに(註、一年間隔・隔年)御田祭というのが五月三日にありまして、この時には拝殿の舞台を三方から囲んで、百に余る桟敷ができて、村は相出、大阪、神戸あたりの遠いからも見物に来て大賑わいでございます。
 そして、このお祭りの芝居は、お能のお芝居で、春の田植えから秋のとり入れまでのしぐさを、午後の一時から夕暮れまでかかってやるもので、人の人生のことを一日かかりでする芝居でございます。女猿楽があったり、翁三番神の能楽があったり、漁師の魚釣りがあったり、豊年を祝うて造った酒を絞りながらお産するところがあったり、武士の出陣をするところがあったり、合戦の駆け引きがあったりする色々の芝居をするのでございます。
 中でも安産の場では、昔から子のない女達が集まって、生まれた赤ん坊の人形(註、小さな寄せ木人形)これを三、四十人もの女の人達で、丸髷《まるまげ》もつぶれてしまうまで一生懸命にばいやい(奪い合い)をするのでございます。それは、ばい取った人に子が授かるという信心からでございます。昔はこのために、角力《すもう》取りまで雇うてくるもんがあったほどでございます。
 それから、この芝居に出る役者は、その役々で、お殿様になる家はお殿様、酒絞りになる家は酒絞り、田打ちに出る家は田打ちというふうに、代々役が決まっちょりまして、余所から代わって出ることができん(できない)ようになっちょります。普段にこの芝居の真似をしたりしたら、神罰が当たるじゃなどとも聞いております。
 註、御田祭規式帳の文中に、右秘文役者より外、必ず見ることなかれ、其の神罰重し以上。とある。

   七夕さま  35-32
 七夕さまの日には、古い稲葉に青葉の稲をまぜて、一たけ(丈・長さ)縄を七本ない(綯う)、四本を縦に三本を横に格子のようにして、二本の笹の間に掛け、これに田芋、おしらげ(洗米)、お鉄漿《はぐろ》、おはぐろ筆、紅、白粉、田芋の葉に包んだお水、ほおずき、茄子、ふろ(豆)などを吊るし、五色の糸や麻を引き、宵と朝とにご飯を炊いて供え、その晩は女子どもがおちや(註、祭日、縁日の前の晩に、一晩中お宮やお寺におこもりする事)じゃいうて楽しみにしたもんでございます。そして、、あくる朝には笹を海へ持っていってあましました。
 だいたい七夕さまという神さまは、むつかしい神さまじゃ、ということでございまして、平生機《はた》の道具はこれを七夕道具というて、いらんようになっても、めったな所に棄てられん、必ず神藪へ持っていて棄てるもんということになっていて、人を呪うにも筬《おさ》(機織りの道具)をつかうほどでございます。お供えした茄子は、いびら(疣《いぼ》)につけたら治るというて、子供の時分には割ってその汁を塗ったたりしたもんで、腰から下の病気も七夕さまの日にお願をかけたら治るなどというたもんでございます。

   盆踊り  35-33
 お盆には、十三日から十六日まで門へ高ぼていうて、高い竹の先へ松明をつけて焚いたもんでございます。死んだ人の魂が帰ってくるのを迎えるためで、初盆の家ではきれいな燈籠をつるします。
 昔の盆踊りは賑やかなものでございまして、十四、五歳の頃でしつろうか、この家の西隣に昔の番屋跡の広場があって、そこへ地下の若い者らが集まって踊ったり、浜の広場で踊ったりしたものでございます。
 この時には、初盆の家から「入り踊り」いうて、広場へ供養のための花や尾のついた燈籠を出してつりましたが、それが十も二十もあって、真ん中につき臼を据えて、男の口説きがおって、娘らがいんげん笠を被《かぶ》り、黒着物へ紙で紋を付けたり、振り袖姿になったりして、二重も三重もの輪になって賑やかに踊ったものでございます。若い衆らは、徳利の酒を口移しで元気をつけて、一晩中を踊り明かして、それは楽しいものでございました。
 初盆の家では、それで供養ができたいうて、子供らに手拭いや鉛筆を持って来て配ったりしたものでございます。

                           写  津 室  儿
          

2013年7月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第39話 千両箱・両栄橋


第39話  千両箱・両栄橋

 むかしも昔、室戸の奈良師に、松吉という親父《おやじ》に二人の息子、竹吉、梅吉という松竹梅揃った、めでたい名の貧しい漁師一家があった。
 とある日、松吉はお城下へ用事に出て、兄弟で漁に出かけた。
 さて、船が沖へ出ると、時化《しけ》上がりで色んな物が流れてくる。竹吉が、
 「おい梅吉、よう見よれよ、千両箱が流れてくるかもしれんぞ!」
 「そうかえ」と答えた梅吉
 「ところで兄やん、千両箱を拾うたら、どう分けりゃー」
 竹吉、「うん、親父に二百両、あとは俺が五百両、お前が三百両・・・・・よ」
 「そんな阿呆な、わしが拾うて三百両か」
 「そこが兄と弟のちがいよ、辛抱せぇ」
 「わしが見つけたときにゃ、こっちに權利がある。それを兄じゃいうて、よけ取るとは馬鹿らしい。仕事が出来るか・・・!、わしゃいんで寝る」
 「そうか、おらも一人じゃ漁が出来んき、いぬる」
 とうとう、竹吉と梅吉は漁をやめ帰りだした、と。
 一方、松吉はお城下の用事を早々と終え、沖を眺めながら帰りよったら、兄弟船がもんて来よる(ありゃ、どうした事じゃろ)いうて首をひねりよったが、やがて船が戻り着くと、飛んで行って、
 親父、「おい、どうしたなら・・・!」
 「親父《おと》やん、千両箱が」
 親父、「シーッ、声が高い、誰ぞに聞こえたらいかん。早う家へいのぅ」
 親父は、たかで目を光らせて聞いたと。
 「ほんで千両箱は・・・!」
 「それが拾うたらえいけんど、拾わん内から、拾うたらどうすりゃいう事で、いいやいに成って漁をやめてもんて来た」
 親父、「この阿呆らが、なんぼいうたち拾わん内から喧嘩して、漁をやめてもんて来るち、呆れた奴じゃ」
 たまるか松吉はカンカンに怒って、棒を振り上げもって二人を追っかけた。そこで竹吉、梅吉兄弟は飛び逃げたそうな・・・・・!。
 さて、〈千両箱を、見たこともない、持った事もない、又その重さも知らない貧乏漁師一家にとって、この日は至福の一日では無かったろうか・・・!〉
絵  山本 清衣
  両栄橋
 室津川の河口(水尻)は、室津の丸山・津照寺を境に東側を流れ、今に字名《あざな》は南新町・後免水尻として残っている。
 その川筋を今様に変えたのは、最蔵坊こと最勝坊(小笠原一学は、石見銀山で知られる石見の国(島根県)の出身で、元安芸の国(広島県)の毛利元就の家臣であったが、出家して、六部として諸国を行脚し、当地に錫杖を休めた。
 当時、川尻のわずかな船溜まりを素掘りした。これが室津港築港の起こりで、元和《げんな》六(一六二○)年のことであった。しかし、たび重なる洪水で土砂が港に堆積するため、船がかりが出来ない。そこで、最蔵坊は浦人と大凡《おおよそ》二年間に及ぶ協議の末、川筋を津照寺の西側に付け替えることを決める、寛永十六(一六三九)年のことであった。そこは泥岩のため、鑿《のみ》と鎚《つち》の人力で、二年を費いやした難工事であった。橋は室津・浮津に面していることから、両面橋と名付けて竣工した。
 浦人の喜びも束の間、心無い者が悪ふざけに言った一言が現実のものとなった。
 それは、雨のしょぼしょぼ降る丑三《うしみ》つ時《どき》、この橋を渡ると両面の化け物が出て、川に引き込む、といって、実《まこと》しやかに恐れられた。
 ある夜、母の使いで浮津に出された娘、さびしい寂しいと思って、化け物のことを思いながら橋を渡っていた。すると、後ろから一人の老婆が来た。娘は、まぁ連れが出来て嬉しい、とほくそ笑んだ。
 「ほんとう、わたしは一人で寂しゅうてたまりませざった。この辺に両面の化け物が出ると聞いています。、お婆さんが来て、本当に寛《くつろ》ぎました、よかった良かった」と言いますと、
 老婆は、
 「ありゃ、そりゃわたしかよ!」と言って、振り向いた後ろ頭に目口があった、と言う。
 最蔵坊は両浦の守護神として、砂岩二尺五寸の道祖神(災厄を防ぐ神)に両面の化け物を封じ込め、橋のたもとに建立した。
 そして、室津、浮津、両浦がいつまでも共に栄えることを祈願して、両栄橋と名付けた、という。
 道祖神は、今なを近隣住民に花を手向けられ祀られている。

                                           文  津 室  儿