2013年8月5日月曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 十三 七人岬や色々の俗信 35〜38


 第35話  吉良川老媼夜譚  十三
  
七人みさきやいろいろの俗信 35-34〜38
 
 七人岬と言うことは、今におき(今風に)申します。安堵《あんど》にようつかん者(仏の仲間に入れない者)が集まったもので、海で不意死《ふいし》した者などが集まっていたりするといいます。この東ノ川では、今までに何人も不意死をしますが、七人岬の祟りじゃと言うことになっちょります。
 神隠しになるじゃと言うことは、町分ですきに今まであんまり聞きませんが、私の知っちょるのは、娘のころ奥の西山でおみつというお婆さんが、お手水《ちょうず》へいてことりというたと思うたら、それからおらんようになって、地下中が総出で鉦太鼓《かねたいこ》を叩いて、「おみつよう、もどせやあ、返せやあ」いうて、夜は松明《たいまつ》を点けて探し回ったことがございました。私らはこおうてこおうて、(註、怖くて)よそへはよう出ざったほどでございました。
 神隠しじゃございませんが、人がふさいで開かんようになった時は、屋根の上へ上がって、箕《み》で煽《あお》いで呼び返すいうことがございます。松三郎いうもんが、開かんようになって、家の者が屋根の上で、「松三郎よう」いうて、一日中呼んで、つまり三日目に返ったことがございました。
 お産の火は、アカビ(赤火)いうて一般に嫌い、大山を超すと狼につけられるとか、化け物につけられるとかいうて、今にりぐるふうがございます。山に行く者やら漁に行く者などは、こじゃんと嫌うて出ませんが、火を合わせしますと平気になります。
 送り盆(十六日)には船出をせられん、出て病みついたら治らんなどと言うことは、今によく言うことでございます。
 鳥《からす》が家の近くで鳴くと、気を悪がるふうがあったり、鶏《にわとり》が宵をうたうと不意なことがあるなどというて、市《いち》(巫女)さんにたんねてもろうたりすることもございます。家をつついたりしたら、神さまや仏さまに粗相《そそう》をするきに、家祈祷《やぎとう》いうて太夫さんを雇うて、正五九月(註、旧暦の正月と五月と九月との称。忌むべき月として結婚などを禁じ、災厄を祓うために神仏に参詣した)の祝い日に祈ってもらうことがございました。信心じゃいうものは、人によって見えん人と見える人がございますが、信心しよると、おかげ(ご利益)のないということはないと思うちょります。 それから、春祈祷いうて、正月に「明日は春祈祷ぜよう」というふうにふれ(註、周知のために広く告げ歩く)てきて、四日ごろ八幡様で町の家々の家祈祷をしてお札を配ってきたりします。そして、この時には、町の境へお注連《しめ》と弊をかけた竹笹を立て、お礼を挟んで置くふうが昔から続いております。
 家々の軒下に、悪病除けや悪魔祓いのまじないに、大蒜《にんにく》や八つ手、辛子などをつるしたりもします。海岸の家には骨のある貝(悪鬼貝)を吊るしたりするところもあります。

   祟る家  35-35
 この吉良川の東ノ川を奥へ奥へとつけて行きますと、日向《ひなた》という山奥の小さい部落に行きあたります。この日向から、小股越《こまたご》えという所を越すと、佐喜浜町へとんとん下りて出る山道がございます。昔から佐喜浜の魚売りが、山越にこの山奥の大平じゃとか東谷じゃとかいう里へ、籠を担うて売りに来ます。町分より魚の値段が安いということがあったりするほどでございます。と言いますのは、佐喜浜まで灘回り(註、室戸岬を回ること)をすると八里も歩かねばなりませんが、小股越えですとわずか三里と言いますから、こういうこともあると思います。
 この日向に聖《ひじり》さまというて、回国のお坊さんの霊を祭った小さいお堂がありまして、そのお宮がよく人に祟るというので、村のもんから恐れられております。これは昔、大阪方の片桐《かたぎり》且元《かつもと》(註、戦国時代から江戸初期の武将)という忠義もんが、頭をおろして僧形になり、この所まで落ちのびてきて、佐喜浜へ出る小道を土地の者に聞いたところ、聞かれた者が土地の猟師じゃって、この坊さんがどっさりお金を持っているということを知って、材木谷というへち(間違った)道を教えたと申します。坊さんが材木谷へ入っていくのを見送った猟師は、それからそっと後をつけていて、鉄砲で狙い撃ちにしたといいます。
 坊さんはびっくりして岩から滑って足下の川に落ち、濡れびしょになって上がってきましたが、そこをまた狙い撃ちにして、とうとう殺してしまいました。その時、白い鳩が三羽(註、聖の伝言)飛び立ったといいますが、死にぎわにお前の家はこれから金持ちになるか知らんが、尋常には暮らさせんというてこと切れたといいます。
 日向には、これに関係した家が二軒ありまして、それから祟りがえろうて、この家には唖の子が二人もできたり、不意死の人が何人も出たりしました。そこでお宮を建てて、聖さまというて、毎晩お光りをあげたりして三代ほどになっておりますが、一番近い不思議な出来事は十年ほど前のことでしつろうか、その家の殺生人が棕櫚《しゅろ》の箕《みの》のを着いて、聖さんのお堂のはたでこぼうじょり(註、小さく縮む)ましたところが、見る者が見ると、どう見ても猿に見える、そこで鉄砲で撃ったところが、昔わざした人の内の男じゃったということがありました。今じゃ、材木谷は聖谷《ひじりだに》ということになっちょります。こわい話でございます。
 

 以上を持ちまして、吉良川老媼夜譚は三十八話をもって終了致しました。長い間のご笑読有り難うございました。御礼を申し上げます。

 さて、次回より、徒然に室戸市の習俗・俗信などなどを綴ってみよう、と思っています。お楽しみ頂ければ幸いです。

                             津 室  儿
          

2013年8月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第40話 ウツボと徳爺さん


第40話  ウツボと徳爺さん

 それはそれは、とっとの昔の事じゃった。
室津郷山田の里に、川釣り、海釣り何でもござれの、徳助《とくすけ》と云う釣りキチ《上手な》爺さんが居りました、と。
 今年も梅雨が明け、待ちに待った夜釣りの季節が来ました。
 徳爺《とくじい》さんは去年の竹の旬、旧暦八月に伐った古参竹《こさんちく》や真竹《まだけ》で数本の釣竿を拵《こしら》え、準備をととのえて闇夜の晩を待ちかねていました。
 「今夜は雨も降るまい」と、
徳爺さんは呟きながら、小さなカンテラ(携帯ランプ)をさげ、里の東の三津坂を越え丸山にむかいました。
 丸山は、通称「明神《みょうじん》さん」(明神とは、日本神道の神の称号の一つ。神は仮の姿でなく、明らかな姿で現れている、と云う意味)と親しまれている北明神神社が鎮座まします。
 徳爺さん、いつも明神さんにお詣りをして鳥居の前のスマシロの磯にでかけました。
 この磯はクエやイセギ、大鯛まで釣れる、徳爺さん取っておきの穴場です。
そんな穴場ですが、
 「今夜は、とんと当たりが無いのぅ!」と、
ぼやいていますと。
 暮の六つ戌《いぬ》の刻《こく》(八時頃)にやっとひと当たりきました。
 「待てよ、この当たり・・・!」
たしかウツボの当たりと思うたが、尋常でない強い引きだ。徳爺さんは渾身の力を釣竿に込めました。竿は弧《こ》を描ききると、その反動で、いままでに見た事も無い大ウツボが飛沫《しぶき》を上げながら丸山の麓まで飛んでいきました。
 それから後《のち》は、何一つ当たりがありません。
「おかしな晩じゃのぅ。亥《い》の刻(十時)も近い、今夜は帰《いぬ》るとするか!」
 帰り支度を整えた徳爺さん、明神さんの鳥居前まで来ますと、ガサガサ、ガサガサと何やら騒がしい。カンテラを照らし、よくよく見ますと、さっきのウツボのそばに一頭のイノシシが倒れています。
 イノシシはここで寝ていたのか、そこへウツボが落ちてきて、急所に当たり運悪く死んでいました。
 ガサガサ聞こえた因《もと》は、ウツボがウサギの後ろ足に噛みつき、痛みに耐えかねたウサギは、そこら中堀廻っていました。そのウサギの足下には、これはこれは又、大きな山芋がむき出しに十数本も転がっています。

             絵  山本 清衣

 「ウツボとイノシシ、ウサギと山芋が一度に取れるとは、今日は何と良い日だろう」
 徳爺さん、これは苞《つと》(藁《わら》や茅《かや》で作る包み物)でも作らないとなかなか持ち切れないぞ。ふと前を見ますと、茅が茂っています。これは好都合とばかりに、茅を掴むと草刈り鎌《かま》でザックリと刈り取りました。すると茅の向こうに鳥の羽が見え、バタバタと騒いでいます。なんと、茅の中にキジが隠れていました。そのキジを捕らえ出すと、茅の中に白い物が転がっています。
 「ありゃりゃ、これはキジの卵だ」
卵は全部で十三個もありました。
 「はてさて、今日は何て良い日だ。ウツボとイノシシ、ウサギと山芋、キジとその卵十三個を得ました」
 「はてさて、どうやって持ち帰ろうか?」
 徳爺さんはイノシシを背中に背負い、ウツボとウサギを右手に持ちました。
 左手には茅の苞を持って、苞の中にはキジと山芋と卵が入っています。
 徳爺さん、
 「一人じゃこんなに多くは食い切れん。里人たちとお客をしよう」
など、あれこれ思案しながら家に帰りました。
 「うーん、重かったな」今夜はもう遅いきに明日の事としよう、と云って寝てしまいました。
 徳爺さん、早く起きますと昨夜《ゆうべ》の出来事を里人に触れ回りました。
 喜んだ里人たちは、儂はイノシシが好物じゃ、キジじゃ、ウサギじゃ、山芋じゃ、と云いながら大お客になったそうです。
 徳爺さん、これはきっと儂が良く働くので明神様がご褒美を下さったにちがいない。
 「謹厳実直」であれ、と名付けてくれた父母に感謝しながら、お礼参りを続けたと伝わっています。
                                                               文  津 室  儿