2013年1月1日火曜日

土佐落語 道教 60-5


   土佐落語 道教《はんみよう》 60-5       依光 裕  著

 山田の楠目から、ちくと片地《かたじ》寄りの談議所に銀さんという、それは異骨相《いごっそう》のじんまがございました。
 山田という所は昔から里芋《たいも》作りが盛んでございますが、一日《ひいとい》のこと、銀さんが伏原《ふしはら》の里芋畑で草をむしっておりますに、
 「じいさんよ。お岩権現へ行くにゃ、この道をどういったらえいぞのう?」
 「お岩権現かよ?そりゃのうし・・・・」
 詳しゅうに道を教える心算《つもり》で、わざわざ道端迄出て来た銀さんでございましたが、声の主は?と見てみますに、年の頃二十四、五の若い衆《し》が、手拭いで頬被りをしたまま立てっております。
 銀さんはこれを見た途端、頭にカチン、胸にゴツン。急に腹が立ってきまして、おいそれとは道を教える気にはなれません。
 ”年上の者にモノを訊《き》くに、頬被りをとらんとは横着な若い衆じゃ”
 至極尤《もっと》もな事でございますが、そこで銀さんがどうしたかと申しますに、
 「若い衆、チクト待ちよったよ。今教えちゃるきに」
 こう言うちょいて、自分も手拭いでわざわざ頬被りをしたと申しますから、存外地がツンでおります。
 「さぁ若衆、最初から訊き直せ」
 「最初から訊き直せち、どういてぜよ?」
 「聞こえたけんど、聞えざった!」
 たかで若衆は目をパチクリ。
 「儂ぁ”お岩権現へ行くにゃ、どう行たらえいろう?”、こう訊いたと思うちゅうが」
 「そうか。ほんなら、それをもう一辺訊き直せ」


                          絵 大野 龍夫

 「お岩権現へ行くにゃ、どう行くぞのう?」
 「若衆、そこへ行くにゃ、この道をズーッと西へ行く。ほいたら山田の街に入《はい》るが、それをまだ先へ行たら東町の丸中の竹ン家へ行きかかる。その竹ン家から西へ行かんと、竹ン家の西側《にしら》の小路を曲がって、牛市場の横を通るじゃ。えいか?そこを真っ直ぐに行くと大西の鉄ン家に行きかかる。その大西の鉄ン家の横の道を真っ直ぐに行ったら、今度は地蔵の武ン家じゃ。そこを真っ直ぐ行ったら、高柳の金熊《かねくま》ン家へ行くがのう。この金熊ン家へ行ったら、もう行き着いたも一緒じゃ。お岩権現は金熊ン家と目と鼻の先じゃきにじき判る」
 
 山田界隈、土地の者なら銀さんのこの説明で合点が参りますが、他所者に判る筈がございません。
 「じいさん。実は儂ぁ遠方の者でのう・・・・・・」 
 「そうじゃろう。この辺じゃ見かけんきに」
 「ほんで、じいさんが言うた大西の鉄ン家も知らなぁ、地蔵の武ン家も高柳の金熊ン家も知らん。”そこまで行ったらお岩権現は目と鼻の先じゃ”と教えられても、儂にゃ、そのそこ迄が判らんがのう・・・・・・」
 若衆が途方に暮れて申しますに、銀さんはちんと手鼻をかみまして、
 「難儀な若衆にゃ。そこ迄が判らんについて教えちゃったじゃないか!」

 分かったような分からないような、途方に暮れる難儀な噺でした。

                             写  津 室  儿


土佐落語 目の上三尺 60-4


   土佐落語 目の上三尺 60-4           依光 裕  著

 香美郡土佐山田町の神母《いげ》ノ木《き》に喜八という、トッポーコキがございました。
 「こないだの宵の口に、俺が筍《たけのこ》を掘りに行ったところが、蓑《みの》を着いた男が俺《おら》ん家《く》の竹藪で座りよる」
 「筍盗《と》りかよ?」
 「俺もテッキリそう思うてネヤ。”コリャッ!”、と怒鳴ったが、逃げん」
 「横着な奴のう!」
 「”コナ糞!”と思うた俺が、鍬を振り上げてネキへ寄って行ってみるに、逃げん筈じゃ、筍じゃった」
                     絵 大野 龍夫
 
 「喜八さん。蓑を着た男に見えたち、たかぁ太い筍のう!」
 「話は終《しま》いまで聞けや。その筍は埋もれ子でにゃ。蓑を着いた男に見えた部分は筍のトン先、上を割って出て来たヒゲ先じゃった」
 「オットロシ、たかぁ話が太いよ!」
 「おい、オンシという男はモノの言い方を知らんにゃ〃」
 「どういてよ?」
 「話が太いち、不都合なことを吐《ぬ》かすな!太い話じゃのうて、筍じゃろうが!」
 喜八、鮎釣りにかけましては物部川筋では名が通っておりまして、チクトうるさい方でございます。
 「人が俺のこと”鮎釣りの名人じゃ”いうてウゲルがネヤ。いかな名人でも、鮎が居らん渕では、よう釣らん」
 「そりゃそうじゃろう」
 「それに水の澄み具合、鮎の食う餌が違うてくる。ほんで俺ばぁの名人になったら”どこの渕に鮎が濃いか、水の澄み具合はどうか”、釣りに行く前の日に、下見をしちょく」
 「成る程、さすがじゃのう」
 「その下見で思い出いたがにゃ、あれは去年じゃった。日の暮れに、山田堰《ぜき》の上《かみ》の雪ケ峰の渕を覗《のぞ》いてみるに、太い鮎が、ボチャーンボチャーン飛び上がって、パックリパックリ虫を食いよる。俺が”どんな虫を食いゆろ”と思うて見ているに、それがなんと、蝙《こう》蝠《もり》じゃ」
 「鮎が蝙蝠をよ?」
 「蝙蝠を丸呑みにすばぁの奴じゃきに太いが違わぁ、俺ぁ早速戻んて来て、支度に取りかかったところで、道糸は釣瓶《つるべ》の棕櫚《しゅろ》縄。鈎《はり》は十六貫秤《ばかり》の大鉤《おおかぎ》で、竿はもちろん孟宗竹よ」
 「たまるか!」
 「あくる日の晩方、蝙蝠の餌をつけてホリ込むも。カップリ!竿はそれこそ弓なりよ。前もって、自分の五体を松の木に縛《くく》っちゃぁたき助かったが、そうじゃなかったら、渕へソックリ引きづり込まれちょる。そればぁ引いたがにゃ。鮎が三尺ばぁ姿を見せたところでエレ糞残念、棕櫚縄がプッリ切れて、ソコスンダリ・・・・・・。俺ぁ、あればぁ惜しい思いをしたことはないがにゃ」
 「たまるか喜八さん。鮎が三尺姿を見せちょったら、あと一息じゃったのう!惜しいことよ!」
 「阿呆いうな!三尺上げたけんど、鮎の目はまだ見えざったぞ!」

 まことにまこに土佐にゃ、とっぽい話がありますのう。


                          写  津 室  儿

室戸の民話伝説 第33話 室戸岬・空海の七不思議


      室戸岬・空海の七不思議

 全国に広がる、弘法大師空海の伝説は「高野聖《ひじり》」に因ると云われます。聖の献身的な努力が、現在の高野山の繁栄をもたらした、と云われています。聖とは「日知り」から転じた言葉で、「日、太陽のように輝く、識者・物知りな人」という意味があります。
 全国を巡錫した空海の足跡に、伝説が付き纏い生まれました。此れほどまでに、伝説・伝承の多い人物は稀であります。全国津々浦々に伝わる空海伝説は、その数おおよそ300編を越える、といわれます。その伝説は真実ばかりでは無く、実際に起きた出来事のように脚色されたものばかりです。
 それでは、室戸岬・空海の七不思議を記してみましょう。

七ノ一 一夜建立の岩屋
 一夜建立《こんりゅう》の岩屋は別名観音窟と云われ、名の如く、空海が一夜にして岩盤を削り、岩屋「間口幅1.2㍍・高さ2.3㍍・奥行き9㍍」を建立した、と伝わります。「一夜にしては現在の技術を持っても不可能では!」ここに、唐より持ち帰った如意輪観音半跏像《にょいりんかんのんはんかぞう》(国の重要文化財)が祀られていました。この観音菩薩は現在、最御崎寺(東寺)の宝物館に収蔵され、今、岩屋には七観音が代替して祀られています。如意輪観音の鑑賞は、どなた様でも可能です。ご希望の方は、お寺に申し出下さい。 余談ですが、昨今、この岩屋を東寺の「奥の院」と紹介されていますが、拙子は異を唱えます。

七ノ二 不喰芋《くわずいも》 
 むかしも昔、弘法大師がまだ青年で、一、沙門《しゃもん》(僧侶)に虚空蔵《こくうぞう》求聞持法《ぐもんじほう》(記憶力を増大させる行法《ぎょうぼう》)を授かりました。この法を修行し修めるために、阿波の大龍岳や土佐の室戸崎に行場を移し、修行者として錫杖を置いた日のことです。
 今の、水掛地蔵菩薩群の所に、小さな小川《せせらぎ》があります。そこで、一人の老婆が里芋を洗っていました。旅の疲れと空腹に耐えかねた青年僧(空海)が、老婆に里芋を一つ所望しました。すると、老婆は里芋を惜しんだのか、咄嗟《とっさ》に「この里芋は、食べられない」と云ってしまいました。
 この日より、里芋は煮ても焼いても食べられず、里芋の名は不喰芋(他の地域では、石芋と云われる)と名付けられた、といいます。しかし、慈悲深い青年僧はこの不喰芋に薬効を授け、傷の妙薬といわれます。

                       絵 山本 清衣

七ノ三 捻れ岩
 先の、不喰芋の話から間もない頃でした。若い真魚《まお》(空海の幼名)が、この地、室戸崎山頂で勤行のさなかのことでした。我が息子の身を案じた母(玉依御前)は、讃岐国(現香川県)多度郡屏風ヶ浦、今の善通寺より遥々訪ね、行場に向かいますと、一転して、火炎渦巻き天地が鳴動しました。真魚は、何事かあらんと麓に向かうと、途中に母が倒れていました。真魚は法力を持って岩を捻じ曲げ、洞窟を造り母を避難させ、念仏を唱えて嵐を静めた、と伝わっています。なお、この時より最御崎寺は女人禁制でしたが、解かれたのは明治五年でした。

七ノ四 鐘石
 薩摩芋《さつまいも》と馬鈴薯《じゃがいも》を合わせて、二で割った形のこの鐘石《かねいし》は、斑糲岩《はんれいがん》です。叩けば金属音が深く長く清く響き、耳を澄ませば、黄泉の国の家族くの声のように聞こえます。かつて、この鐘石は、一夜建立の岩屋の一隅とか、水掛地蔵菩薩群の前に置かれていましたが、今は、最御崎寺本堂正面・大師堂右脇に安住の地を得たかのように、威風堂々と存在感を以て鎮座しています。

七ノ五 明星石
 真魚(空海の幼名)が修行されているさなか、夜な夜な海中より毒龍(炎や毒煙を吐き、民衆を苦しめる龍)が現れ、様々な異形・妖怪の類を集め修行の邪魔をしました。堪りかねた真魚は真言を唱え、海に向かって涕唾《ていだ》を吐くと、海岸の石が星の如く光り始め、毒龍と異形の者共は光に恐れ戦き、逃げ去った。今は、この明星石を「幸せの石」として、お守りにしています。
七ノ六 目洗いの池
 真魚が三教指帰《さんごうしいき》を著し、仏教に帰依し、空海と号した頃、この池の水を加持祈祷し、民衆の眼病を治したと伝わります。水涸れ無く濁りなく清らかな水が、今に伝わっています。

七の七 行水の池
 真魚(空海)が、御厨人窟《みくらどう》を住居代わりに
勤行中、この清流に身を委ね沐浴した、と伝わります。また、目前の毘沙姑巌《びしゃごいわ》を愛で、岩を背に背中をこすった為に、岩は滑らかに、池の水は濁り未だ澄まずです。目洗いの池同様に、この行水の池も潮の干満に晒されながらも、真水という不思議な池です。

                         文 津 室  儿