2013年2月19日火曜日

土佐落語 野市の入れ違い 60-8


 土佐落語  野市の入れ違い  60-8          文 依光 裕

 年にお米が二度取れる香長平野の二期作地帯は、稲の秋になりますと「鎌棒」という臨時雇いを雇うたもんでございます。
 ところが、その食事が朝昼晩の他に二回、都合五回ときておりますので、農家の主婦はたまったもんではございません。
 おまけに野市あたりでは、蚕も盛んでございましたので、野市の女は、〃立ったまま居眠りをする〃という、評判でございました。
 その蚕飼いで、ダレコケて寝入っております野市の亭主持ちに、こともあろうに夜這いを仕掛けた奴がございます。
 なにせ嫁さんは、昼間の重労働の上に、寝入りばなときておりますので、夢現《ゆめうつつ》でございます。ところが、その夜這いと入れ違いに、亭主が戻ってきましたが、嫁さんが目をコスリコスリ、こう申しましたのでなんともなりません。
 「オマさん、今晩はエライ元気がエイねェ」
 「なんつや?」
 「先刻《さっき》みたいに、ガイにしなさんなよ」
 「何を寝た呆けちょら!俺ァコレが最初《はな》ぞ」
 「ありゃ?ほんなら先刻《さっき》のがは、夢じゃったろうか・・・・・?」
 夢なもんか、〃野市の入れ違いで、バッサリいた〃という奴でございます。
 嫁さんに罪の意識はなし、亭主も思いもよらんことで、その晩はソレでコト済みましたが・・・・・。

                      絵 大野 龍夫
 あくる朝のことでございます。
 嫁さんが桑畑で、桑の葉を摘んでおりますに、八兵衛という若衆が、たかで馴れ馴れしゅうに擦り寄って来て、こう申します。
 「姐さんよ、昨夜《ゆうべ》はオオキニ!」
 「オオキニち八兵衛さん、なんのことぞね?」
 「エライご馳走じゃった!」
 「そうかね。ウチの人と飲んだがかね?」
 「姐さん、そう恥ずかしがらいでもエイわよ!昨夜のコトは、お互い口をつむっちょったら済むことじゃきに」
 「八兵衛さん!ひっとしたら昨夜・・・・・?」
 「姐さん、昨夜のコトを亭主に知られとうなかったら、今晩ここへ来とうせ。エイのう!」
 男の風上にも置けん若衆でございますが、こうなったら女は負《ま》とうございます。
 最初のうちはイヤイヤいいなりになっておりましたが、〃毒食わば皿まで〃、そのうちに嫁さんの方が積極的なってまいりましたので、この密通が亭主に知れん道理がございません。
 「おい、オンシと八兵衛が密通しよるという、もっぱらの噂じゃが、本当か‼」
 「まァ!言うにコト欠いて、なんということをいうぞね!」
 一晩、大喧嘩になったところへ、姑が出てまいりました。
 「オマンらァ、なにを争《いさ》かいゆうぜよ?」
 「お母やん、コイツが隣りの八兵衛と密通しちょるッ‼」 
 これを聞きました姑、ふだん嫁との仲が悪うございましたので、この時とばかり、嫁を横目で睨んでこういうたそうでございます。
 「フン!三《み》ッ(密通)や、四ッか‼」

                          写  津 室  儿


室戸市・吉良川老媼夜譚 奉公の習慣・高知への旅・坂迎え 35-3〜5


 吉良川老媼夜譚  
   
   奉公の習慣  35-3
 昔の吉良川の習慣では、今の五十歳ぐらいの人の若い頃まで、若《わか》い衆《し》も娘も、いっぺんは他人にかかっちょかんと、ういみず(註、人生、世渡りの苦労)が分からん、娘じゃったら嫁に貰い手がないというので、どんなお大家《たいけ》でも自分の家へ人を雇うちょいて、子供を赤岡や高知へ奉公に出したもんで、この奉公人のことをオトコシ・オナゴシというて、私は前にお話した通り、十八歳の時に高知へ奉公に出たものですが、家を出る時には、風呂敷に身のまわりの物を包んで、親に連れられて草履がけで行ったもんで、前の町長さんのお父さんも奉公に出ていたことがあります。
 奉公先では、一年に二度は必ず家へもどしてくれることに決まっちょって、二月に行ったら八月にもどれるというように、半期半期になっちょりました。オナゴシのもどる時には「前垂《まえだれ》れ捲《まく》り」というしこな(綽名《あだな》)がついちょって、この時にも親が連れに行き、奉公先へいぬる時にも親がついて行くというふうでございました。
 高知へ行ちょる者の着替えじゃとか、その他の大きな荷物の送り返しには、村から高知の納屋堀へ入ってくる生船《なまぶね》という、生魚を積んでくる和船に積んで貰うたものでございました。オナゴシの賃金は、そのころ高知で浅井、川崎じゃいう大金持ちの家でも、食べらしてもろうて月が一円くらいのもので、私は板垣さんの家では一円五十銭もろうて、それがずいぶんの高賃取りでございました。普通は五十銭から八十銭というところでございました。お米が一升五銭、麦が三銭、お酒が八銭、お豆腐一丁八厘が高いと言うたりした頃のことで、菎蒻《こんにゃく》は三厘でした。米が闇で一升百何十円、酒が一升何百円じゃいう今の時勢は、夢にも思えんことでございました。

   高知への旅  35-4
 前にも話した通り、昔は今のようにバスがあるじゃなし、みんな草履《ぞうり》がけで、荷物を振り分けにして、ごつごつ(註、ゆるゆる)歩いて出かけたものでした。羽根の中山峠(羽根、加領郷間)を上がって大山峠(安芸市伊尾木)を過ぎ、赤野の八流《やながれ》の山の迫った狭い砂浜を、日盛りにごくごく(註、死に物狂い)踏んで行ったもので、夏の日などは足が焼けるようでございました。それで、
 新城八流砂漕ぐ時は 親にぜひない妻恋し
 という唄もあったくらいでございました。
足の早い者は赤野までの十一里ばかりを歩いて、ここで一番の宿屋のハチイチ屋というのに泊まったもので、女の足などでは早い者でも吉良川から八里の安芸の町で泊まるのがせいぜい、フジヤとか堺屋じゃいう宿へ泊まるのがええ方でした。
 第二日目は、手結山。ここは江藤新平さんとかいうえらい人が土佐へ逃げて来られて、甲浦の方へ行かれる途中(琴風亭《きんぷうてい》)休んだところじゃと聞いちょりますが・・・。これを越えて、海岸をつけて(沿い)物部から稲生村の下田へ出て、そこから屋形船やら蓙《ござ》船に乗って高知の下の新地へ着いたもので、新地では得月楼の夜の提灯がついていたりして、初めて田舎から出たときには、びっくりするばぁきれいに見えたものでございました。
 こんなに交通というもんが不自由でしたが、私が二十二歳の時でしたか、甲浦通いの汽船がきて、村の浜(吉良川)の沖で汽笛が鳴ると、山犬が鳴いたというて、村中がびっくりしてわんわん言うたものでございました。それからずっとして、安芸まで馬車が通うようになり、自動車が通るようになり、今のように日に何回もバスが来るようになって、ずいぶん昔と比べたら楽になったもんでございます。

   坂迎え  35-5
 こんなに旅と言うもんが億劫《おっくう》なもんでしたきに、村の者が讃岐の金毘羅さんへお参りにとか、お四国にいて戻ってくるじゃとか、息子が初めての遠い旅に出て無事に戻ってくるじゃいうと、その日を「坂迎え」じゃ言うて、隣近所の者が寄ってたかって、戻る者の家の前に、徳利を逆さにして目口を描いて人の顔にこしらえ、麦藁《むぎわら》でその体を作って、それに手拭いをかぶせ、帯を結ばせたりして門に立てらし、必ず大きな椿の木を伐ってきて立て、女の綺麗《きれい》な帯を二つばあ竿に紐《ひも》でくくって下げて立てて迎えたりしたもんでございます。三方《さんぼう》に酒肴を出し、酒を飲ましたりしたもんで、こうすると帰って来る者の足が軽うなると言うたもんでございます。

                           写 津 室   儿
         

2013年2月9日土曜日

土佐落語 野雪隠 60-7


 土佐落語  野《の》雪《ぜん》隠《ち》  60-7  文 依光 裕

 香美郡の冨家本村《ふけほんむら》に、松太郎という百姓がございました。
 小若い衆の時分から酢が利いた男でございまして、村の世話役《ききやり》もするなかなかの敏腕家《やりて》でございます。
 「おい、俺ぁ今から山南へ行ってくるきに、オンシは先に寝よれや」
 「山南の誰ん家《く》ぞね?」
 「三八郎の叔父貴ん家じゃ」
 「オマサン、こんな夜分遅うに行かいでも、明日の朝にしたらどうぞね?」
 「それが、どういたち今晩行かないかん用事よや」
 女房の声を振り切りまして松太郎、夜道をスタスタ歩きまして、山北の下有岡へさしかかりますに、娘が一人、道端でウズくまっております。
 「モシ・・・・・!、どうしましたぞ?」
 「アイ、横腹が急に疼《うず》きだしまいて・・」
 振り仰いだその顔の綺麗なこと!松太郎は年甲斐ものうハヤ猫撫声でございます。
 「そりゃいかんのう。それにしても、こんなに遅うに、何処まで帰《い》によるますぞ?」

                          絵 大野 龍夫
 「山南の三八郎さん家へ伺いよります」
 「三八郎なら儂《わし》の叔父じゃが、そりゃボッチリ。儂もソコへ行きゆうがじゃきに追うて行て進ぜましょうぞ。さぁ、遠慮は損慮じゃ」
 親切に娘を背中に負いますに、ムッチリコンモリした肉付きが着物越しに伝わってまいります。松太郎はたかで胸がホカメキまして、少々の重さはナンノソノ。
 「さァ、着きましたぜよ。三八郎のオンチャン、起きとうせ!儂じゃ、松太郎じゃ」
 「松か?こんなに遅うに・・・・・!、松よ、石かたけ担《かた》いで何事なら」
 「叔父貴も目が遠うなったのう。この娘さんはのう・・・・・。さァ降ろしますぜよ、ソリヤ、手を離しますきに」
 上がり框《かまち》へ降りてビックリ!ソレはなんと、二十貫もある大石でございます。
 「オノレ糞狸!」
 
 コジャンと化かされまして、頭に来ました松太郎、狸の姿を求めて外へ飛び出しましたが、狸がウロキョロしゆう筈がございません。
 「オジさん、オジさんは冨家の松太郎さんですろう?」
 疲《だ》れこけて三八郎の家に引き返す松太郎を呼ぶ声の主、それは三八郎の近所に住む若嫁さんでございました。
 「エライ汗モツレになって・・・・・。丁度風呂が沸《わ》いちょりますきに、一《ひと》風呂浴《あ》びて汗を流《なが》いて行きなんせ」
 「そりゃそりゃ、ほんなら一風呂借りますぜよ」
 「微温《ぬる》かったら言うてつかさい。焚きますきに」
 「おおきにおおきに、ポッチリの湯加減じゃ」

 「松太郎、オンシはそんなくで何をしよら?」
 「アア、叔父貴かよ。儂ァ狸の奴を追いかけて大汗をかいたきに、ここで風呂を貰いよる」
 「松太郎、オンシはまた狸にやられたか!」
 「な、なんつぜよ」
 松太郎がビックリして聞き返しますに、三八郎は鼻をつまみまして、
 「オンシが入りゆうは風呂じゃのうて、野雪隠ぞ!」

                           写  津 室  儿


室戸市・吉良川老媼夜譚 身の上話・板垣退助さん 35-0〜2 


   吉良川老媼夜譚   35-0〜2  
   
 はじめに       
 
 この「吉良川老媼夜譚《きらがわろうおうよばなし》」は、高知市出身・詩人で民俗学者の桂井和雄氏が昭和十九年六月と八月の二回に渉って、室戸市吉良川町の近森菊代さん明治元(1868)年生まれ(当時八十一歳)から採訪したものである。
 桂井氏は、これを「吉良川老媼夜譚」と題する小稿に纏め、「招集されゆく自分の最後の記念として東京・日本常民文化研究所に送り」として、昭和二十年一月佐世保の海兵団に入団している。
 かくして終戦後、最初の採訪から四年後の昭和二十三年七月十三日に至って、再び採訪の機会に恵まれ、近森菊代老媼宅を訪問する、と菊代老媼は溢れるばかりの喜びを示して迎えてくれた、と記している。
 戦争の最中に始まった採訪も四度を経て、再び吉良川老媼夜譚を補足、脱稿して、「仏トンボ去来」(高知新聞社)に上棹したものである。
 
 なお、読者には、大変に読み辛いかと存じます、が明治元年生まれの菊代老媼の息遣い言葉遣いを感じ取って頂ければ幸いに存じます。
   
   身の上話  35-1
 私は明治元年九月十五日生まれですきに、ことしで八十一歳になりましたが、十八歳の時高知へ出て、板垣退助さんの所で女中をしていたことがございます。半期《はんけ》ばぁ勤めましたが、窮屈じゃったので、無理に暇を貰うて、高知の川崎さん(当時の高知の富豪)で番頭をしあげたという古市常蔵さんという人が、納屋堀《なやぼり》で宿屋をしよったのに雇われて女中をしたことがありました。
 二十歳で吉良川へもんてきて嫁ぎましたが、その時、主人になる者は大阪通いの機帆船の船長をしよりまいた。一緒になってから、しばらくして船をやめて、木材やら薪、炭の仲買のような仕事をしよりましたが、四十九歳で死にました。わたしは三十八歳でしたが、寡婦《やもめ》になってからは、遊びよってもいかんので、十年ぐらいの間、この家で木賃宿《きちんやど》をしました。宿屋をやめてから、家をお医者さんに貸したりしてのんきに暮らしましたが、今までにお伊勢さんへは三度、高野山へは四度、出雲へは一度、紀州の加多の淡島さまへは一度、それから東京やら熱海やら京都や近江へも行きましたし、九州へも大分やら別府やら八幡と何度も行きましたし、大阪へも娘が嫁入っちょりますので、家のようにして何度も行ったもんでございます。
 息子は介太郎というて、もう五十歳を超しちょりますが、今九州の八幡で時計屋をしよります。嫁にやった娘二人は先に死んで、ここでは孫娘と二人で、仕送りと百姓でのんびり暮らしちょります。姪や甥が、大阪に居るもんですきに、時々大阪へも遊びに行きよりましたが、このごろは乗り物が不自由であぶないきによう行きません。

   板垣退助さん  35-2
 板垣退助さんのお家は、その時分は潮江の新田という所にあって、そのお家は昔はお能の舞をしよった、という随分広い大けな家でございました。前に鏡川が流れていて、日の暮れに戸をたてる時にゃ、長いことかかったことを覚えちょります。
 板垣さんはその頃、六十代のお人じゃったと思いますが、長い髭をはやした方で、若さまの鉾太郎さまという方と、東京のお嬢さまのおえんさまと、副妻の小高坂の宮地まさのさんという方がおられて、本妻さんはお子様が無うて、たしか唐人町の別荘におられたように覚えちょります。
 まさのさんの他に、私の居る内におきぬさんという新しい綺麗な副妻がこられましたが、この人は妊娠しちょって男の子を産みました。板垣さんがその時、儂《わし》にゃ孫みたいなものじゃというて、孫三郎とつけられました。ほかに女中やら書生もおりましたが、門脇の家には名前を忘れましたが、夫婦暮らしの人が居ったように覚えちょります。
 玄関には大きな鉦《かね》が吊しちゃあって、人が来たらそれを叩いてもらうようにしてありましたが、自由党の髪を長うに伸ばした生徒(書生)みたいな人らが、椎の下駄を鳴らしてよう来よりました。
 板垣さんという方は、えろう(大変)あっさりした人で、勝手元へ来て、「菊」というふうに呼びつけにする人でございました。ある時、私が急に雨で外の薪を入れよりましたところが、それをご覧になりよった板垣さんが、菊はなかなか力が強いきに、今度のニロギ釣りにゃあ船子に連れて行ちゃるじゃいうて、冗談を言われたこともございます。
 かんしょ(潔癖)でございましつろうか、お手水へ行かれて手を洗う時には、かなつぎ(鉄瓶)いっぱいの水で、それが無うなるまで、何べんも手をもんで洗われました。そのかなつぎを持って行くのが私の役で濡れた指でちょっと私の頬《ほほ》をついたりしたこともございました。
 食べ物は、卵の半熟と鮎の塩ふり焼きがお好きで、三度三度かかさずおあがりになりました。上女中になると、そのお給仕をしたり、御寝《ぎょし》なさる時のお寝間を敷いたりせんといかんので、妙に気苦労でいやでございました。御寝なさるのは、いつも二階で、下では鉾太郎さんが寝られました。
 枕元には、いつでも大小(刀)とピストルを揃えて置かれ、それに龕燈《がんとう》(仏壇の灯)提燈と桐の箱に入れた溲瓶《しびん》を用意せんといきませんでした。鉾太郎さんも同じようにされました。
 溲瓶は、毎朝前の川(鏡川)へ持っていって、砂を入れて洗わんといかんことにしておりました。

                           写  津 室  儿
          

2013年2月3日日曜日

土佐落語 箸蔵詣り 60-6

土佐落語  箸蔵詣り  60-6             文 依光 裕  
 
 香美郡は山田の甫岐山に、格次という男がおりましたが、これがトットの猟好きでございました。
 一日《ひいとい》も深山《ふかやま》で鹿猟をしておりますに、”鹿を追う猟師、山を見ず”で、カズラ橋で有名な祖谷渓《いやだに》へ迷い込んだそうでございます。
 昔のことなら日が暮れますと、山犬が出てまいります。
 ようようの思いで一軒の家を見つけまして、早速宿を頼みますに、婆さんが顔を出しまして、
 「土佐のお方はデコをよう廻ぁしますかの」
 「やぁ、土佐でも山分じゃ、デコを廻ぁしよりますきに」
 「それなら一晩の宿は楽じゃ。さぁさぁ」
 ”デコを廻ぁす”と申しますと、味噌を塗った田芋やら豆腐の田楽を、囲炉裏のフチでクルクル廻ぁすことでございます。
 「お口に合いましたかの?」
 「やぁ、満腹!お陰で助かりました」
 「ほんなら土佐のお方、さむい布団じゃが、今晩は娘と一緒に寝えてつかぁされ」
 たまるか、ノケゾッタは格次でございます。 「ム、娘さんと一緒に?」
 「あいな」
 「ソ、それにゃようばん!儂ゃこの囲炉裏のネキで結構ですきに」
 「土佐のお方、この祖谷では他国の客人には伽《とぎ》をさせる習慣《ならわし》じゃ。家の娘はお金《かね》というて歳は十八、まだ男を知らん未通女《おぼこ》ゆえに、よろしゅうにのう。コレ、お金。客人にご挨拶をしいや」
 「アイ・・・・・」
 ソロリと襖を開けて出て来た娘が別嬪ちエライもの、さすが平家落人の血筋でございます。

                                   絵 大野 龍夫
 
 格次、一目見ただけで惚れてしまいまして、 「婆さん、なんぼ習慣《ならわし》でも、そりゃいかん!どういたち一緒に寝んといかんなら、娘さんを女房に貰い受けますぜよ」
 話はとんとん拍子に纏まりまして、お金は六日のちに嫁入りすることになったと申しますから、縁と云うもんは、どこで転がりゆやら判りません。
 さて、お金は約束どうり、六日のちに吉野川の渡し舟の人と為りましたが、知らん他国へ嫁ぐ身でございます。
 「船頭さん。土佐では小便のことを何と申しますぞ?」
 早速、予備知識を集めにかかりましたが、この船頭、耳が遠い上に、お金を箸蔵詣りの娘と早合点しまして、
 「箸蔵さんなら、しっかりえいわ」
 「ハシクラサン・・・。ついでに大便のことを教えてたもれ」
 「ついでに行くなら、琴平さんよ」
 小便はハシクラサン、大便はコトヒラサン、一生懸命覚えまして、ようよ格次の家に着いたお金でございます。

 「お金さん、なんぼかダレタろう?」
 格次がネギライの言葉をかけますに、お金、
 「旦那さま。祝言の前にハシクラサンとコトヒラサンへ参りとうございます」

                            写  津 室  儿


                              

2013年2月1日金曜日

室戸の民話伝説 第34話 加奈木の潰え(崩壊)


 第34話 加奈木の潰え(崩壊)

 佐喜浜川の源流を探れば、岩佐の清水である。この清き湧き水の由来は、寛治六(一0九二)年、堀河天皇の頃の文書に「イワサの水」の文字が見られ、古くから野根山街道は官道として整備され、旅人の咽の潤い場であったことが伺える。
 また承久三(一二二一)年に土佐に配流された土御門上皇が夏の盛り、岩間にほとばしる清水を口に含み、甘美と清冽をご賞味され、「岩清水」の名を下されたと伝えられる。
 岩清水と淸麗な名を頂いた佐喜浜川の源流は、「日本三大崩壊」の一つと数え、大規模な崩壊地、加奈木山に端を発している。
 今回は「加奈木の崩壊」を里人に予言して、小集落を救った姉妹の話です。
 佐喜浜川の源流域に段《だん》と云う小さな在所がありました。段と云う地名の如く、小高い丘に小さな家が点在して、木地師や平家の落人が住み着いた所と云われます。この集落の元をただせば、今より奥の加奈木山の安居《あんご》の池ヶ谷付近にあった、と云われます。
それが、慶長九(一六0五)年十二月・宝永四(一七0七)年十月・延享三(一七四六)年・安政嘉永七(一八五四)年・昭和二一(一九四六)年と続く南海地震のたびに加奈木山に潰《つ》えが発生しています。
 学者は、加奈木の崩落は慶長の南海地震より数百年前から起こっていた、と推察される、と発表しています。
 昔々もある日のこと、この辺りの百姓屋に、日頃見掛けぬ娘が一人訪れた。この家の親父が「何ぞ用かのう」と声をかけた。すると、「すまぬが手桶を二つ貸して下され」という。親父は不審に思い、何に使うぞと問うた。娘は「エビヶ渕の水を、妹と二人で汲んでみたい」と云う。親父は吃驚《びっくり》した。池ヶ谷から仰山の水は冬でも涸れず、絶えず流れ込み、渕は渦を巻き底知れないぞ。部落の者が総出でかかっても、とても汲み替えられるしろものでは無いは。妙なことを言う娘じゃ、と呆れ顔をしていた。「早く貸して下され」と、かき立てる、娘。親父は渋々手桶を貸してやる。娘は喜び手桶を手に、振り返りもせず渕へと一目散に走り去った。
                        絵 山本 清衣

 それからものの一時《いっとき》(約二時間)たったころ。妙に川が騒がしくなった。良く見ると水嵩が急に増し、ごうごうと音を立てて流れていた。雨も降らないこの上天気に、この増水は一体どうしたことよ!。さては、さっき娘が言った言葉を思い出し、エビヶ渕へいそいだ。こりゃまた一体どうしたことじゃ。渕の中では姉妹が脇目も振らずに、一生懸命手桶で水を掻き出していた。その手付きの早いこと、まるで山の神様が乗移ったかの様な早技じゃ。やがて、大きな渕の底も見え始め、大鰻やアメゴが、あっちゃヘウロウロ、こっちゃへウロウロ逃げ回っていた。それに渕の上の流れはぴたりと止まっていた。親父は呆然と立ち尽くす。きゅうに背筋が凍り、ぞっと寒気がして一目散に我が家に逃げ帰った。仏壇の前にうずくまり、手を合わせ祈り続けた。
 それから二時《にとき》も過ぎた頃、さきの娘がやってきた。手桶を返し、がっかりした様子である。娘が云うに「段の御爺よ、ここ二三年の内に大事が起こる。この辺り、天と地がひっくり返って、この段の地も無くなるだろう。早々に何処か良い高台へ立ち退いた方が良いぞえ」と言う。親父は合点がいかず、先程の渕の有り様を思い出し怖いながらも、「そりゃ一体どうしたことぞい」と問うた。娘は暫く黙っていたが、やがて心を決めたか「実は妾《わらわ》は娘の姿をしているが、本当は大蛇だ。あのエビヶ渕に棲むつもりで来てみたが、あまり水が汚れていたため、お爺に手桶を借りて干し上げた。さて新たな水を入れようとしたが、溜水が渕に流れ込まない。これは徒事《ただごと》ではないぞ。二三年の内に、天地がひっくり返る大変事が起きるお知らせじゃ。きっと加奈木の山が鳴動して山津波が起り、山が押し寄せてくるに違いない。そうしたら、ここらは地の底になろう。出来るだけ小高い場所へ移ったが良いぞ」と言い残し、姉妹は消えるように、立ち去った。
 親父は在所の人々に娘の話を伝え、自分は下手の小高い段丘に移った。(その後の段集落)中には、そんな馬鹿な阿呆なことが、と取り合わない者もいた、が。谷から引いてある筧《かけい》(樋)の水が涸れ、不気味に思い避難した。
 姉妹が去った後、雨が降らなくなった。次の年も、その次の年も一粒の雨も降らず耕作物も出来ず、ましてや杉桧の植林も出来ない旱魃が続いた。やがて、旧暦の八月五日に降り始めた土砂降りの雨は、七日七夜の間続いたが、十四日目にはぴたりと降り止んだ。
 しかし、その静けさも束の間、地の底から噴き上げる轟音が人々の腹の底をも揺すぶった。皆が山を見る。岩佐の関所あたりの加奈木山が倒れ、動き、地鳴りが襲い掛かってくる。恐ろしい一夜が明けた。いよいよ山が迫っている。誰かが「山が潰てきよるぞー、加奈木の山が」と、叫び家を飛び出し、小高い山へ走り逃げた。
 「よかったのう、よかった。あの姉妹は神様のお使いじゃた」と云って、村人は崇め敬い、祠を建てて祀り感謝を忘れなかった、という。
 その姉妹の、姉は安田の逆瀬川へ、妹は讃岐の国の満濃ヵ池の主となっている、と今に伝えられている。

                             文 津 室  儿