2015年9月7日月曜日

手乗り、ヤマガラ

 ヤマガラ達はカレンダーを持っているのか、九月の声を聞くと小さな拙宅の庭にもやって来て、ヒマワリの種をねだる。手のひらを差し出すと、餌があるかと勘違いをして止まる。
無いと知るや忙しなく飛び立つ。餌をかざすと又来る。何時まで見ていても、飽きないヤマガラである。





 


2015年9月6日日曜日

水草 エキノドルス・ラジカンス

 我が家のメダカ鉢に、エキノドルスともラジカンスとも云われる水草が花をつけた。この花は、南米が原産地と云われるが耐寒性を見せる。当地でも大きく成長し、1.50cmの花茎に四の節を付け、節の周りに5.6個の蕾を付けている。花は一日に、一輪だったり二輪だったり三輪だったり、気ままな咲き方をする。この気侭さは、拙老に似て苦笑する。
 一つ、忘れかけていた。花が終わった節からは、葉芽が出、根が出始め繁殖力旺盛である。






2015年9月1日火曜日

室戸路寸感  四  一言地蔵菩薩  

  室戸路寸感  四  一言地蔵菩薩  

こんな話を聞いた。それは室戸岬は津呂の藤原家の御祖母様《おばばさま》が、その前の御祖母様から、またその前の御祖母様らが、囲炉裏《いろり》を囲んでかたり続けた藤原家伝来の「一言地蔵《ひとことじぞう》菩薩《ぼさつ》」の物語であった。
 はなしは室戸岬を東に少し廻った所に、四国八十八箇所二十四番札所、通称東寺・最御崎寺《ほつみさきじ》へ登る東遍路道があり、その遍路道の右側に小さな窟《いわや》がある。その窟がこの物語の舞台だ、という。

画面左、最御崎寺東登り口、中央「食わず芋(石芋)と浜木綿の花」の奥が一言地蔵菩薩窟跡

 この話の始まりは、何時の時代であったか定かではない。とある時、旅に疲れた遍路姿の母と息子の二人が、今夜はこの窟を仮寝の宿にと背中の荷物を解き、粗末な夕餉を分け合いながらすませ、今日最後のお祈りを一心不乱に唱えていた。
 すると、息子の頭上よりかすかな御仏の声が聞こえた。「汝らは、何事を願うや」息子は即座に「母の病を治したい、ただそれ一心でございます」と答え、弘法大師様にお縋《すが》りしたく遍路に出てもう幾歳か、逆打《ぎゃくうち》ちも幾度か致しましたが、未だお大師様にはお目にかかれません。私の信仰心の未熟さゆえでありましょうか、と問いかけた。すると僧侶は「そなたの信仰は、未熟などではない。善く善く届いているは」と聞こえたかと思えたあと、息子の目の前に、白装束の僧侶が地蔵菩薩様を持って現れ、「この地蔵菩薩様を祀り敬いお願いをするがよかろう。さすれば一生に一度、一つだけの願いを叶えてくれよう」と言ったかと思うと、白装束の僧侶の姿はいずこへか消え去っていた。
 息子はさっそく母と相談して、 窟の奥の一段高い所へ地蔵菩薩様に鎮座頂き、百八日間の願掛け参りに入りました。
 岬の冬の花は何故か黄花が多く、人々の気持ちを温かく和ませる。アゼトウナ、シオギク、タイキン ソウ、ツワブキ、ヤクシソウ。なかでも、キバナアマはひときわ鮮やか。これらの花が終わる頃、岬の花々は春を迎える。
 百八日参りの満願を迎えた日は、春のお彼岸の中日にあたった。その日、病に打ちのめされ、疲弊しきっていた母の顔色が一変し、昔の健康な顔色に蘇っていた。これは地蔵菩薩様のご利益の賜だ、と親子は互いに体を抱きしめ喜び合った。その日から親子は、室戸岬高岡下地を終の棲家と定め、息子は漁師見習をして働き、母親はこの地蔵菩薩様に一言地蔵菩薩様と名付け、お世話に心血を注いだ、という。
 このご利益話が、浦々・里さとの人々に知れ渡るのには然程の時は掛からず、一言地蔵菩薩様は願いを叶えて欲しい人々で賑わい続けた、といわれる。
 しかし、時は移り医療の発達により、いつしか一言地蔵菩薩様も忘れられ、ましてや昭和四十六年、国道五十五号線の拡張工事が始まり、奥行き約七、八㍍あった窟も六㍍程削られ窟をなさなくなった。
 心優しい道路工夫が一言地蔵菩薩様もここで一人は寂しかろ、と直ぐ側にある六十数基の水掛け地蔵の仲間にしてしまった。それ以来、どのお地蔵様が一言地蔵菩薩様か分からなくなってしまった。
 今にこの一言地蔵菩薩様を語り続けているのは、藤原家の若い御祖母様だ、という。

                              津 室  儿