2015年1月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第57話 野中兼山

  第57話   野中兼山

土佐藩家老・野中兼山《けんざん》は、元和元年(一六一五)播州姫路(現兵庫県姫路市)に父良明、母は大阪の豪商の娘・秋田万《まん》との間に生まれ、幼名を左八郞といい、長じて伝右衛門良継と言った。 兼山は号で、後に別号として高山と改め、致仕《ちし》(官職を退き隠居する事)して明夷軒と号した。ちなみに、祖父・野中良平の妻は、山内一豊の妹・合姫《ごうひめ》であり、山内家との血脈は非常に濃い。 
 兼山四歳の時、父・良明没し、五歳にして母万と流浪に入る。その間辛酸を嘗めること八年、それでも母万の訓育・学問は怠らず十三歳にして祖父の野中権之進良平の弟、主計益継の嫡男・野中玄蕃直継を養父とする。
 養父直継には、嫡男がいたが早世して家を継ぐ者が居なかった。これを介意した小倉少助政平『小倉少助政平とは、初期の土佐藩を支えた重臣であり、初代一豊に長浜にて仕え、一豊の土佐入国に従って来国した。二代藩主忠義公に起用され、奉行職の野中直継と共に土佐藩財政の赤字克服を目的とした元和《げんな》の改革を推進した。特に土佐の豊かな山林に注目し、領内の山地を巡視し、五十年を期限とする輪伐制を創始した』が仲介役を務め、直ちに高知城下に迎えられ、十五歳で元服し良継と名乗った。後に直継の娘・市の入り婿となった。
                絵  山本 清衣
 兼山は、養父直継の元にて初めに禅学を修め、儒学を極める。又、南学『土佐で起こり発達した朱子学の一派。室町時代末期の南村梅軒を祖とし、谷時中・小倉三省・野中兼山・山崎闇斎らが著名。現実社会における実践を重視した』を学んだことを実践する側ら、小倉少助政平に経済及び財政学を学ぶ。ここに書き落としてはならない事は、母万によって注がれた愛情溢れる教育が兼山の人格の陶冶がなされたことを。
兼山二十二歳にて、養父直継が寛永十三年(一六三六)十一月五十歳を以て歿する。ただちに、直継の家督を継ぎ併せて土佐藩奉行職をも受け継ぐ。藩主・忠義公は、奉行職に就いた兼山に藩政改革をすぐさま命じる。
 まず兼山は、河川の氾濫を防ぐために堤防の建設、米の増産を図るために平野部の開墾、灌漑用水路の敷設工事、森林資源の乱伐を防ぐために小倉少助政平が創始した、伐採を五十年周期とした輪伐制の導入。築港を推し進め、藩外から植物、魚類等を輸入し藩内で養殖につとめた。又、陶器の製造、養蜂など技術者の招聘に努め殖産興業・専売制の強化を図り、今でいう地産地消・地産外商に努めた。その結果、藩財政は好転をみる。
 これより、兼山が当市に遺した偉大な業績・築港を尋ねてみる。
 兼山が先ず手掛けたのは、津呂港であるが、当時兼山は津呂港の事を室戸港と呼び、室津港との混乱を招くため、現在の呼称に倣い津呂は津呂港に室戸は室津港として記す。
 最初に津呂港の試し堀を着手したのは、最蔵坊こと小笠原一学で元和四(一六一八)年十一月のことであった。最蔵坊は、わずか一カ年で竣工を成し遂げているが、釣り舟出入りの利用にとどまり、藩が参勤交代に使用する御座船や百石船の停泊は不可能であった。
 最蔵坊が手掛けて一八年後の寛永十三(一六三六)年、執政となった兼山は、津呂港、室津港、佐喜浜港、手結港、柏島港等の改修工事を次々と手がけていった。
 中でも、兼山が自ら総裁となり、津呂港の完成を一挙に図った寛文の築港をとりあげてみる。兼山がこの工事の完成を記念して記したと言われる『室戸湊記』による、築港工事の概要では、以下のように記してある。
 ここ津呂の地は、険しい岩場であって平地はなく、難工事となるだろう。しかし、工事が成功すれば海底に砂なく、磯に泥土がないから、後々、港が埋まったり、港口がふさがったりする事はないだろう、と予想した兼山はその成功を期して幕府の認可を得た。
 そして安積幸長、衣斐勝光、野村成正を責任者として、井上康正を奉行に、工事の責任者を江口延光を登用して工事にかかった。
 その時、漁師の意見を聞いたら、「港の口となるべき処に三つの大岩があり、それを鯵《あじ》岩、斧《おの》岩、鬼《おに》岩という。従来船が破損するのは、専らこの岩によってである。たとえ港が出来ても、この三岩を除かねば後日の害は従前より減らないだろう」と言った。
 この三岩は水際から百二十歩余りのところにあって、堤のように支える岩石がない海中にある。そこで、兼山はこれを砕く為の工法を考え、扇を張った形の堤を造ることにした。 それは海中に扇の要に当たるところを定め、そこから扇の骨を張りだすように水際まで堤を造って海水を防ぐという方法である。衆議のうえ、巨松数万本を四列に櫛《くし》の歯が並ぶように立て、巨木細木を縦横に交差して組み、その中に土俵七万俵余りを入れて海水の流入を防いだ。これが有名な兼山の「張扇式の堤」である。
 こうした予備工事のうえ、堤内に更に堤を築いて二区とし、人夫数千人が内側の水を汲み出した。そのうえで、大鉄鎚《つち》や大鑿《のみ》で岩石を砕いた。こうして地下三尺まで掘り、干潮時八尺の泊地ができた。次いで三岩破砕に取りかかった。干潮時に外堤の上部を切って中堤との間の海水を外海に出し、次いで外堤の欠所を防いで、内堤を切ると海水はすでに掘り下げている泊地に流れ入って、三岩がその全容をあらわした。人夫達は、大鉄鎚や大鑿、もっこを持って、また、役人や地下人らも蜘蛛《くも》の子のごとく集まり歓声をあげた。さらに堤内に淵を掘って大雨の時、雨水が溜まるようにした。こうして三岩破砕に全力をあげ、工事は完成した。
 これに要した人夫、述べ三十六万五千有余、費用、黄金一一九○両であり、寛文元年正月十六日竣工式を行い室津港の開鑿にかかる。
 この頃、すでに隠居していた忠義公であるが、津呂港築港に寄せる思いは尋常ならぬものげあり、兼山への絶対の信頼を読み取ることができる。兼山は「室戸港記」において、自己の事績はいささかも記さず、すべて主君忠義公の仁政に帰している。歴史の皮肉は、津呂港竣工一年有余の後の寛文三(一六六一)年、兼山失脚の憂き目に遭わせ、その年の大晦日に死に至らしめた。その上、主君忠義公も後を追うかのように、寛文四年に逝去した。
 津呂港・室津港こそ、後世に残る兼山の数々の大工事の掉尾《とうび》を飾る大事業であった。
津呂・室戸の浦はこの両港あってこそ、水産業の起因・その命脈を保ち、その恩恵は計り知れない。最蔵坊小笠原一学、野中兼山、一木権兵衛の諸先覚者の業績を忘れてはならない。    
                  偉人野中兼山・室戸市史より

                        文  津 室  儿