2017年4月29日土曜日

『室戸市の民話・伝説』単行本 民話伝説にふれて


     待望の『室戸市の民話・伝説』が単行本になりました。


 

山本一力氏からの帯に載せる文章

口伝を文字にした、卓抜なる筆力。
口伝を文字絵にした秀逸なる描写技法。
室戸を愛する達人ふたりによる秀作だ。

山本は、感想として下記のようにも申しておりました。
多田さんを逃したら、もうこの口伝は消えてしまうだろうな。
それにしても多田さんは控えめで博識だ。
口伝の力強さを、よく表している。
今の時代とは違うことも含めて、丸ごと受け止めてみんなに読んでほしいな。

山本は現在朝日新聞で、本を推薦する人生相談を受け持っているのですが、
次回の相談内容を見て、まず思いついたのがこの本でした。
只、新聞社からの条件で、書店で現在取り扱いがあるものという項目があり
惜しくも推薦できませんでした。
このような良書が、埋もれてしまうのはもったいない。
今年は維新博で全県人が集まるし、多くの人に手にとってもらえるように
なるといいなとも申しておりました。
                            山本英利子
2017.(28)2.22日

と、奥様が送稿下さったものの掲載です。   

              


 民話伝説にふれて

室戸市広報に、市内に残る民話伝説を掲載する機会を得た。それは五ヵ年間、六十回に及んだ。その中に登場した人物に思いを馳せてみた。
 室戸岬にて勤念し、三(さん)教(ごう)指帰(しいき)を著した弘法大師空海は扨措(さてお)き、先ずは小笠原一(いち)学(がく)こと最藏坊(さいぞうぼう)である。士は元、石見国(現・島根県)の出身で毛利秀元に仕えた武将であった。戦いに明け暮れる戦乱の世に無常を悟った一学は、三千石の俸禄を投げ捨て毛利家を離れ、法華経の写経に取り組み六十六部衆となる。最藏坊が六部衆の一人として土佐に辿り着いたは、元(げん)和(な)三(一六一七)年頃といわれる。最藏坊は、時の室戸山・最(ほつ)御(み)崎(さき)寺(じ)(東寺)の荒廃無住を嘆き、寺の再興に取り掛かった。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を幾度となく目にした。凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、津呂港の開(かい)鑿(さく)を自ら企画した。津呂・室津両港開鑿の鼻祖が最藏坊であることを市井ではあまり知られていない。
 最藏坊の土木技術は、祖父の代から石見銀山の採掘に関与し、銀の積み出し港の築港保守に従事・その知識と経験、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
 次に、若干二十二歳にして土佐藩奉行職に就いた野中兼山である。二代藩主・忠義公は、奉行職に就いたばかりの兼山に藩政改革をすぐさま命じた。
  兼山はこれに相呼応して、土佐藩全域に数多の施策を図り財政再建を行った。県下に遺した偉大な業績・築港を探ってみる。
 最藏坊が手掛けて十八年後の寛永十三(一六三六)年、執政となった兼山は、津呂港、室津港、佐喜浜港、手結港、柏島港等の改修工事を次々と手掛けていった。
 中でも、兼山が自ら総裁を勤め、寛文元(一六五九)年津呂港の完成を一挙に図った。工事の完成を記念して記した『室戸湊(そう)記(き)』において、自己の事績はいささかも記さず、すべて主君忠義公の仁政に帰している。津呂・室津両港こそ、後世に残る兼山の数々の大工事の掉(とう)尾(び)を飾る事業であった。
 津呂・室戸浦はこの両港あってこそ、水産業の起因・その命脈を保ち、その恩恵は今を持って計り知れない。
  最藏坊に始まり、野中兼山、兼山の抜擢により、港奉行として着任するや室津港港口の巨岩粉砕を嘆願して、海神に命を捧げた一木権兵衛政利。
 分一役人として羽根村に赴任した岡村十兵衛浦久。天(てん)和(な)三年から貞(じよう)享(きよう)元年に至る大飢饉に、藩の許可なく米蔵を開き、一命に代えて村民の困窮・危機を救った等、この地に多くの諸士が公に尽くし、公に命を捧げた、無私の先覚者が数多いたことに畏敬の念を表す、と共にこれらの先人に倣いたい、が叶わぬ夢である。
  
表紙

           裏表紙
ご所望の方は、室戸市教育委員会 生涯学習課 TEL0887-22-5142で販売しております。(税込み 1,500円です)  お問い合わせ下さい。

2017年4月11日火曜日

  室戸桜(化身桜)・誕生哀話

   
                                 多 田   運



室戸桜
                                      
 








 
 皇(こう)紀(き)二六七七(平成二十九)年、春弥(やよ)生(い)、白(はく)寿(じゆ)を迎えた翁(おきな)嫗(おうな)から、次のような話を聞く機会を得た。それは、室戸の絶世の美女三人に纏(まつ)わる哀しい物語であった。
 翁嫗は、「それはな、江戸時代初期の頃の話じゃ。優に四百年も昔になろうな。今、そなたたち里人が集い、四(し)十(じゆう)寺山(じさん)・桜(さくら)美人(びと)の会を立ち上げ、領(りよう)家(け)弘(ひろ)山(やま)に「凛(りん)として気(け)高(だか)く美しく咲く桜」に、(室戸桜)と名付けて世に広めようとするは大変嬉しいことよ。しかしな、この桜の誕生哀話を存じおろうか? 知っていてこそ、三人の供養につながり、その意義は大きくなろう」と言って、話し始めた。
 「絶世の美女とは、そなたたちもすでに存じおろうが、東から言えば、三津浦のお市(いち)さんである。
 ある日のこと、お市さんは一人で三津坂峠を越えていた。その峠半(なか)ばで一人の侍に出会った。侍は、この世の者かと見紛(みまご)う程に美しいお市さんを見(み)初(そ)め、手(て)籠(ご)めにせんとした。
 お市さんは必死で抗(あらが)う。意のままにならないお市さんに、逆上した侍は太刀を振るった。 お市さんは、あえなくこの峠で不(ふ)慮(りよ)の死を迎えてしまった。
 今は峠の傍らに、小さな地蔵堂があり、石碑には花折地蔵と刻み、行き交う人々は美しい小枝を手(た)折(お)っては祀ってゆく。

三津坂峠 お市さんのお墓
 次に室戸岬は御蔵(みくら)洞(どう)前の茶店の看板娘、漁師の一人娘”おさごさん”である。美しい小町娘と慕われ、その容姿は日毎に美しさを増し、地元の若い衆はもちろん、沖を行き交う舟人さえおさごさんを一目見ようと浜辺に舟を漕ぎ寄せ、茶屋に押しかけた。 
 若い衆がつきまとえば付纏う程に、おさごさんは自分の美しさに苦しんだ。間もなくおさごさんの様子が一変した。茶屋の掃除はおろか、茶釜や食器も洗わず、顔に炭が着こうが洗わず、髪もとかず手も洗わず、誰が見ていようが鍋の中の物を鷲(わし)づかみで食った。
 その様なおさごさんの努力も実らず、一層若い衆の心を捉えた。若い衆たちの仲間内では、おさごさんをめぐって諍(いさか)いまでおこった。
 ある月夜の晩、おさごさんはビシャゴ巌(いわ)の上に立ち、自らの美しさを儚(はかな)み、投水したと伝えられる。
室戸岬 ビシャゴ巌
 最後に西の行当岬の麓(ふもと)、新村浦の漁村にしては、稀に見る気立ての優しい娘子が住んでいた。その名を”於宮(おみや)”さんといった。
 浦中の若い衆たちは於宮さんに夢中で、於宮さんの行くところ、影のように付き添い回した。西寺・金(こん)剛(ごう)頂(ちよう)寺(じ)の中ノ坊の修行僧もその一人であった。彼は僧侶の修行を怠り、教義の不(ふ)邪(じや)淫(いん)・不(ふ)瞋(しん)恚(い)の戒めも打ち忘れ、せっせと通った。しかし、於宮さんはどうしても彼の意には従わなかった。
 於宮さんは、自分が少し美しく生まれたがゆえに、多くの若い衆たちが悩み、日々の仕事も怠る姿を見て悲しんだ。
 あの若い僧侶さえ日々の業(ぎよう)態(たい)を疎(おろそ)かにして、煩(ぼん)悩(のう)の炎を燃やす。前途ある、若い僧侶が十(じゆう)善(ぜん)戒(かい)を犯すのは、みな自分の美しさのために起こる罪(ざい)業(ごう)と考えた。
 ここに至って、於宮さんは自分を殺し、衆生を煩悩の苦から救わんとして、新村不動の断崖に立ち淵(ふち)に身を投じたという。
新村不動巌 画面左奥
 この様に生まれついての美しさが徒(あだ)となって非(ひ)業(ごう)の死を遂げた。三人が今(いま)際(わ)の際(きわ)に遺(のこ)した言葉がある。それは異(い)口(く)同(どう)音(おん)に、これから先、浦(うら)々(うら)一里四方に「私のような美しい女は生まれまじ」と遺して逝(い)った、と伝わる。
 その三人の声が響き合い、重なり合う中心地が弘山であり、そこに三人の美女の化(け)身(しん)が桜となって現れた、と伝わっている。

室戸桜原木(領家弘山)
 この美しい桜の化身話も、いつしか里人に忘れられ数(あま)多(た)の時を経(へ)た。
 今になって、そなたたちが見出した桜(室戸桜)とともに、この化身話を再び世に知らしめんとすることは、お市さん・おさごさん・於宮さん、お三方は、草葉の陰でさぞかし喜んでいよう。と翁嫗は、室戸桜(化身桜)誕生話を締めくくった。


                       参考文献 室戸町史 室戸市史