大 隆 丸 漂 流 記
川 本 満 安 著
昭和十一年十二月十日。
私が、機関長として乗り組んだ大隆丸は、午前十時、気仙沼港を出港した。船は、針路を東微南により南下した。
天候も良く、平安な航海が数日続いた。
十二月十六日。東の風強く、天候曇り。
午前十時頃、当直に当たっていた油差しの岩川君が重油がタンクから漏れているのを発見し、色をかえて報告してきた。私は急いで調査したところ、既にそのタンクには一滴の油も無かった。私はすぐに船長に報告し、船員一同にも事の次第を話した。
船員は大いに驚き、船長にこの付近で操業する様口々に頼んだ。しかし、船長は、あえて驚く顔も見せず、ただ黙ったまま進路をかえ様とはしなかった。
もう今日で六昼夜走っている。少なくとも一、○○○マイルは沖に出ている。私は以前から、この船長は、相当無理をするという事を聞いていたので、これ以上沖に出てる事に危険を感じた。そこで、船長に、この付近で投げ縄を始め、事業を終えて早めに帰る様に進言した。しかし、船長には、どの様な考えがあったのか、私の言葉には耳をかそうともせず、尚も沖に走り続けた。
十二月十九日。風はなく、天候良好。
重油タンクの漏れを知った日から三日走った。この日の午前五時半から大隆丸は投げ縄を開始した。午後一時、揚げ縄開始。ビン長三百五十尾。一尾、約四貫。
十二月二十日。
昨夜の大漁に気をよくした乗組員十七名は、休む間もなく第二回目を操業した。その日も大漁であった。
大漁は二十二日迄続き、乗組員の不眠不休の作業が続いた。その日迄に、ビン長千三百尾、メバチ五○尾余りを釣り上げた。
十二月二十三日。
船員は、前日迄の作業に疲れはて働く気力もなく、午前四時から寝てしまう始末であった。その日は、エンジンを停め漂泊する事になった。
十二月二十四日。南の風微、曇り。
休息をとった船員は、元気をとり戻した。朝食後、船橋に行った私は、もはや燃料は余すところ僅かである。この南風に帆をあげ、帰港せねば、西の向い風でも吹けば危険である。と、副船長と共に船長に帰港を勧めた。船長は、ようやく帰港しようという気持になり、午前九時エンジン始動、針路を西にとり帰途についた。
午後四時頃、曳き縄にトンボが多くかかった。私は船長に操舵室に呼ばれた。船長は、「漁がありそうだから、あと一日操業する。船員にそう言い渡してくれ」と言った。私はあまりの事に気も動転するばかりであった。
私は、「船長、船は何マイルの沖にいるのか? 何日走れば入港できるのか? 明日一日投縄すれば、燃料は九昼夜走るだけになる。十昼夜はとても無理だが大丈夫か? 」と尋ねた。「向かい風をもらっても八昼夜、この天候ならば七昼夜で帰れる。心配するな。俺はこの船には長年乗っている。機関長をやった事もある。萬一、重油が不足しても、陸の近くには沢山の船が居るから補給してもらえる。大丈夫だ」との答えだった。
十二月二十五日。
早朝より投縄。午前中、南東の風強く、漁思わしからず。午後十一時半、揚げ縄終わり帰途につく。トンボ三○○尾。メバチ五○尾余り。総計一、五○○尾。まず満船に近い漁である。風は北西に変わり、次第に強くなり航行困難となる。
十二月二十六日。
西の風となり、益々強く航行困難。早くこの風が凪ぐ様に、神に祈りつつ航行を続けた。
十二月二十七日。
風は次第に弱まり、天気も良好となる。
十二月二十八日。
又、西の風強くなり航行困難。燃料不足を思うと胸が痛む。来る日も来る日も、西の風は衰えない。
十二月三十一日。
とうとう本年も今日で終わりである。
私は不安のあまり、船長に船の位置を尋ねた。「未だ七○○マイルばかりある」との答えに驚いた。「既に六昼夜近く走っている。あと四昼夜走るだけの燃料しかないが、七○○マイルを四昼夜で行けるのか。毎日の向かい風で船足は伸びていない。とても陸に着く事はできないと思うが、船長は自信があるのか?」私は重ねてたずねた。その言葉に船長の顔は、たちまち土色にかわった。
「重油がないとは、それは困った」そして、唯困った。困った。とつぶやくばかりだった。 「船長、あなたは、自分の言った事と、私が言ってきた事は忘れていないでしょうね。」答えはなかった。
私は、いつかは、こうなるであろうと思っていたが、今更ながら胸がつまった。船員を集めてこの事を話した。
船員は、ざわめいた。涙を浮かべる者。船長を殺せと叫ぶ者。船内は騒然として収拾がつかなくなった。色めき立つ船員をようやく静めて、不安な一夜を明かした。
これからは、他船に会うのが助かる唯一の望みである。
昭和十二年一月一日。
年は改まった。不安の中にも赤飯を炊いて正月を祝った。
来る日も来る日、不安はつのるばかりである。風はいよいよ強く雪さえまじえてきた。空はまるで墨を流した様に暗く、寒さで耳はちぎれるばかりであった。
一月四日。
ついに来るべき日が来た。燃料はいよいよ底をついた。大隆丸は、最後の最後に供えて少量の重油を残したまま漂流を始めた。
時に午前十一時三十分。気仙沼沖二○○マイルの地点である。全員蒼白な顔で甲板に集まり、陸の方角を拝し、どうか十七名の生命を助けた給えと神に祈った。
毎日見張りを立てたが、船の影さえ見えない。白い布に船の位置を書いて海に流した。付近を航海中の船が、これを拾ってくれる事を神に念じながらーーー。
救助はいつ来るかわからない。食物がなくなれば、飢え死にする外はない。私達は、食事を一日二度にする事にした。
一月七日。
漂流して四日目である。船長の天測によって北海道釧路へ西北西二○○マイルの地点である事がわかった。漂流をはじめて大分北に流されている。北の海には船がいない。
このままだと救助される可能性はいよいよ少なくなる。寒さも加わってきた。耐寒の準備のない船員は、やがて寒さにも耐えられなくなるだろう。事実、雪は益々降りしきり、西の風は愈々強い。水温は六度まで下がっている。見張りの者も、あまりの寒さに船室で火を燃やし、寒さをしのぐ有様であった。
一月八日。
天測では金華山へ西微南、四○○マイルの地点に流されている。
陸の方に船をもって行く事はまったくできない。私達は最後の手段として、沖に流されても良い、とにかく船の航路筋にもって行かねばならないかと考えた。そのためには船を南に進めるのが上策である。この事を船長に話した。これには船長も大いに賛成して船を南にもって行く様苦心した。
一月十日。
天の助けか風は北東にかわった。船員一同は狂喜した。互いに励まし合って錨をあげ、帆をあげた。
マストは風のため折れていたので、マグロ巻き用の柱を下桁とつなぎ合わせて帆を張った。
この追い風に少しでも南に進めようとエンジンを始動して南西に走った。しかし、喜んだのもつかの間、午後四時には風が吹き止んだ。帆を下ろし、エンジンを停止して再び漂流を始めた。
一月十一日。 西の風強く、波高し。
船員は皆働きざかりの若者ばかりである。一日二食、一回三升の飯では満腹できない。魚を節にに作って代用食とする。
一月十三日。
私は、疲れた身体をハウスに横たえてうつらうつらしていた。午後十一時頃であろうか。突然、
「おーい、船の火が見えたぞ」と誰かが叫んだ。一同はあわてにあわてた。とたんに船内の灯がが全部消えた。
「あわてるな」「港着け」
ようやく室内に灯がつき、かねて用意してあった石油に火をつけ、何本もの火を振りまわし、声を限りに助けを求めた。
船の灯は次第に近づいてきた。見れば大きな汽船である。大隆丸に気付いたらしく、赤い灯を振っている。
助かったと思った。風浪は高い、もしこの汽船が救助してくれぬ限り、皆死ねばならない。船長は、エンジンの始動を命じた。
この時、自分の目を疑いたくなる様な事が起こった。エンジンが動きだすと、汽船は何を思ったのか、急に針路を右に転じ、船尾を見せたのである。
ここで見捨てられては事である。エンジンを全開して汽船を追った。しかし、汽船に追いつくには、わが、大隆丸の速力あまりにも遅すぎた。歯ぎしりのうちに彼我の距離はひらくばかりである。とうとう船の灯さえ見えなくなってしまった。
一同は、うずくまったまま溜息をついた。やがて、あちらこちらで汽船の無情さを罵る声。本船がエンジンをかけたのが悪いのだという声があがった。しかし、もはや後の祭りである。
とにかく漂流して、はじめて船に会ったのである。気を取り直してその夜から全員交代の厳重な見張りを続ける事にした。
その日の位置は、東経一五二度四二分。北緯三九度一三分であった。
一月十五日。
この頃から風邪気味だった福留武君の容態が次第に思わしくなくなった。食事も進まず、顔色は、日を追って血の気を失っていった。 空腹の毎日が続いた。
飲料水を節約する為、残っていた氷約一トンを水タンクに入れ溶かして使った。しかし、その為にゴミまじりの水になって、船員は一様に下痢に悩まされ、身体は次第に衰えていった。
疲れた身体を励ましあい、追い風の時には帆をあげ南に下る努力をした。
こうした日が何日か続いた。
一月二十七日。
米は僅かにⅢ俵を残すだけになった。この日より一回二升、一日二食とする。
この頃になると、皆、国の事を話すより、いっそ死ぬものなら腹一杯飯を喰って死にたい等と話しあう様になった。
一月二十九日。東経一五七度一○分。
南西の微風、凪良し。
全員甲板に出て、見張りをしていた。午前十時、船員の一人が「船のマストが見えるぞ」と叫んだ。一同は、総立ちで彼が指す方角を見ると、大きな二本マストを見える。
それっとばかりにエンジンを始動し、全速で船を追った。船影は次第に近づき、煙突が見え始めた。船体もようやく見える様になった。
しかし、それ以上どうしても近づく事ができない。 向こうの船からは、こちらの小さな船のもようは見えないのだろうか。
所詮、追いつけないものと諦めた私達は、張りつめた気が一度に緩み、その場にくたくたと座ってしまった。
一月三十日。
夜も明けない午前○時三十分頃より、福留武君の容態が急変した。意外な難病に驚き、
全員が一心に看護をするが薬もない。病人は狂気の様に苦しむばかりである。代わる代わる胸を撫でたり、できる限りの手を尽くした。しかし、そのかいもなく、午後二時二十分、彼は帰らぬ人となってしまった。
その夜は全員泣きの涙で通夜をした。
一月三十一日。
故福留君の死体を船首の室に安置し、黙祷を捧げた。
私達が幸いであった事は、南の方に船がきてからあまり西風が吹かず、北東又は、南東の風が度々吹いた事で、その度に南に南に帆走する事ができた。
二月二日。東経一五七度二二分。北緯三一度五六分。
午前一時頃、船の灯を発見したが、そのまま行き過ぎてしまった。
大海原を眺めて船の通るのを待つ、単調な毎日が続いた。
船影は見えても近づかず、無情にも遠くを通り過ぎて行くばかりであった。しかし、大隆丸は大分南に下っている。この付近にはもう漁船の航路筋である。力を落とさず元気を出せと励まし合いながら、次第に弱ってゆく身体にむち打って、なおも見張りを続けた。
二月五日。東経一五五度三二分。北緯三一度四八分。
困ったことに病人が又でた。福留君と同郷の水夫長山下菊馬さんが脚気になり、食事の量が減ってきたのである。
二月六日。東経一五五度○九分。北緯三一度三六分。
病人はできる。米は少なくなる。焦燥の色はいよいよ濃くなった。
ビン長の餌にするイワシの生を食べる者や、人目を忍んで生米を喰う者さえ出てきた。
私は米の無くなった時の事を思うと、戦慄を感じた。喰う物がなくなれば、みんな半狂乱になるに違いない。そのときには、人間ではなくなり獣と同じになるのではないだろうか。米だけは厳重に監督しなければならない。 この日から、一回の食事の量を一升に減らした。
二月八日。
風はなく、まるで初夏を思わせる様な暖かさである。
午後九時三十分、三崎の放送局より、「徳島県の第七正栄丸が大隆丸の流した漂流物を拾い、それによると、野島沖東僅か南二分の一、南八五○マイルの地点で漂流中の様である。出漁又は、帰港の各船は、その航路を通って救助されたい。又、陸からは早速救助船を出すから、大隆丸の船員は元気でいてくれ」との、ラジオ放送が入った。
船員の喜び様は一通りではなかった。互いに手を取り合って喜び、正栄丸を神様として心で手を合わせた。
その夜は、救助された時の事を色々と語りあって夜を明かした。
二月九日。
昨夜の放送に元気づき、今朝は一回だけお祝いにと、飯を炊いた。久しぶりに喰う強飯なので、話にならない程うまかった。
その夜もラジオ放送を楽しみに待っていた。しかし、そのラジオもついに電池がなくなりその日から聞こえなくなってしまった。
船内には又、不安が広がった。ラジオが聞こえなければ時計を会わすことができない。正確な時刻が分からなければ、天測ができないのである。
あと十日のすれば、病人も次第に増えてくるであろう。死者も出ないとは限らない。気ばかりあせってどうする事もできない。こうなった以上、運を天に任せて少しでも陸に近づけ様と、陸へ陸へと帆走を続けた。
四、五日が過ぎた。
二月十四日。
風がなく、帆を下ろして漂流していた。
午前八時頃だっただろうか。真っ白い鳥が二羽飛んできて、船の上をしばらく舞っていた。私達の見た事のない鳥であった。神様の使いに違いない。私は、どうか船に会わせてくれと、鳥に祈った。
これは、後で聞いた事であるが、私達を助けてくれた大盛丸にも同じ様な鳥が二羽飛んできたとの事である。私は、これが偶然の符合であったとは、今もって信じていないのである。
その日も暮れた午後八時頃であった。見張りの者が船の赤灯を発見し、ただちに用意の火を燃やし、全員声を合わせて救助を求めた。向こうの船も本船に気付いたのか、暫くすると両舷灯を見せて近づいてきた。そして、二個のサーチライトをこちらに向けた。船員は飛び上がらんばかりに歓んだ。
「助かった」「助かった」と嬉し泣きに泣いた。
やがて、その船はストップし、大隆丸と船体を並べた。船名は、大盛丸と読めた。
私達は、「大隆丸だ。救助頼む」と大声で叫んだ。大盛丸から、「大隆丸ではあるまい。位置が違う」と返事が返ってきた。「本当だ。大隆丸だ。助けてくれ」と懇願をした。
すると、大盛丸からは、「本船は燃料が少ないから、陸に無線を打ってやるからそのままで居れ」言われた。
私達は驚いた。この船には見放されたら、今度こそ何時助けられるか分からない。歩く事もできない病人もいる。
私は、大盛丸に泳いで行き、こちらの事情を話さなければと思い、船長に「泳いでみる」と話した。船長は、泳げるなら向こうに行って話しをしてくれ、との事であった。
相当の波と風があった。私は懸命に泳いだ。ようやく、大盛丸に泳ぎついた。後から機関員の岡本正光君も泳ぎ着き、二人で病人のある事を話し、すぐに救助してくれる様に頼んだ。
大盛丸は、直ちに救助作業にかかってくれた。ドラム缶にハシゴを縛り付け、それに船員を乗せて大隆丸と大盛丸の間を往復した。
二時間後、私達は全員無事に救助された。漂流をはじめて四十二日目。野島沖六五○マイルの地点であった。
それにつけても心が痛むのは、福留君の事である。遺体はとうとう運び出すことが出来ず、心に掛かりながらも大隆丸に残し、霊を祈りながら涙と共に別れを告げた。大盛丸の船首は野島崎に向けられ帰途についた。
二月十九日。
懐かしの三崎港に入港した。沢山の人々に迎えられた。
出港してから七十二日、久方ぶりに土を踏んだ。やがて、病人も全快し全員お互いに、未来の幸福を祈り合いながら別れを告げ帰郷した。
追記
乗船名簿
大隆丸(七五トン)の船籍は高知県鰹鮪船主協同組合に属す。
乗組員 和歌山県串本町出身・船長泉光男(32歳)その弟泉光次郞、高知県室戸町出身・機関長川本満安(32歳)、幡多郡田ノ口村出身岩川景清(23歳)、清水町中浜出身川添慶一郎(31歳)、下川口村鯛ノ川溝渕秀雄(17歳)、岡林庄三郎(28歳)、同村大津岡本正光(23歳)、平林定(18歳)、水夫長山下菊松(43歳)、福留作一(18歳)、宮城県出身菅原勝郎(32歳)、伊藤福蔵(37歳)、小野寺仙蔵(40歳)、小野寺正二郎33歳)、小野寺幸平(28歳)と故人の福留武(19歳)の計17名の乗組員であった。
以上、大隆丸漂流記は機関長の川本満安氏が記したものでありますが、「奇跡の遭難航路」と題して、船長の泉光男氏の記したものがあります。検索して合わせて、お読み頂ければと存じます。
津 室 儿